『ゴッドファーザー』と『北の国から』

2022-03-19 samedi

『KOTOBA』という雑誌が「ゴッドファーザー」公開50周年を記念して、特集号を出した。そこに寄稿を頼まれたので、このようなものを書いた。 

 変なタイトルをつけてしまった。でも、この二つのドラマを突き合わせてみると、『ゴッドファーザー』サーガの思いがけない層に掘り当たるのではないかという気がしたので、それについて書くことにする。
 この二つのドラマを併せて論じるというアイディアのきっかけは、酒席で隣に座った年若い友人から聞いた愚痴である。
「上司から『北の国から』というドラマを観ろと勧められて観たんですけれど、少しも面白いと思わなかった。正直にそう言ったら、まわりの人たちから『血も涙もない男だ』と罵られた」のだそうである。気の毒なことである。
「あれはいったい、どういう話なんですか。どうして、あんな話にみんな感動するんですか」と彼から質問されたので、少し考えてこう答えた。
「『北の国』からは、家族というのはついにお互いを理解し合うことはないものだという痛ましい真理を、ただそれだけを描いた物語なのだと思う。事実、この長いホームドラマの中に、家族のメンバー同士が互いに深く理解し合い、共感し合うという場面はついに訪れない。その責任はひとえに黒板五郎(田中邦衛)という父親にある。彼が『家族というのは理解と共感によって結ばれていなければならない』と思い込んだせいで、家族は離散してゆく。その悲劇が視聴者の心の琴線に触れたのだと思う。」
 そう言うと、彼はしばらく中空に目を泳がせていたけれど、「なるほど」と頷いた。
たぶん彼は『北の国から』のことを「心温まる、いい話」だという先入観を持って観たので、「なんか違う」と感じたのだろう。でも、本当を言うと、あれは「心が冷えるような、つらい話」なのである。そして、多くの視聴者は「これはうちの家族の話だ」と感じて、しみじみした気分になったのだと思う。
 その時に、ふと思いついて、「だから、『北の国から』と『ゴッドファーザー』はほとんど同じ話なんだよ」と話を続けた。
「マイケル・コルレオーネ(アル・パチーノ)は黒板五郎なんだ」と言ってから、自分でも「なるほど。そうだったのか」と腑に落ちた。
 私一人で勝手に腑に落ちられても困るであろうから、その所以を以下に説明して、私の『ゴッドファーザー』論としたいと思う。

『ゴッドファーザー』が家族の物語である。緊密に結びついていたように見える大家族、やがて一人ずつそのメンバーを失い、やがて離散瓦解する物語である。そのことに異存のある方はいないだろう。家族たちは、ある者は死に、ある者は殺され、ある者は家族を憎み、あるいは家族に憎まれる。
 第一作では、ファミリーの後継者である長男ソニー(ジェームズ・カーン)が殺され、偉大な家父長ヴィトー・コルレオーネ(マーロン・ブランド)が病で死ぬ。次男マイケルはシチリアで結婚した新妻アポロニアを目の前で爆殺される。長女コニー(タリア・シャイア)の夫カルロはマイケルに殺される。
 第二作では、妻ケイ(ダイアン・キートン)が夫に知らせずに子どもを中絶したことから夫婦は危機的な関係になり、コルレオーネ家を情緒的に統合していた母が死ぬと、マイケルはファミリーを裏切った次兄フレドを殺す。第三作ではマイケルはシシリアにおける彼の保護者だったドン・トマシーニを殺され、娘メアリー(ソフィア・コッポラ)を殺される。
マイケルを中心に見ると、彼の家族は『ゴッドファーザー』サーガの間に、父と母が死に、長兄が殺され、最初の妻が殺され、自分で妹の夫と次兄を殺し、二度目の妻には子どもを殺され、父代わりだった人を殺され、最後には娘を殺される。なんとも殺伐とした人生である。物語の最後でマイケルに家族として残されたのは、息子アンソニーと妹コニーと甥のヴィンセント(アンディ・ガルシア)だけである。だが、息子は優しい伯父フレドを父が殺したことを許せずに家族を離れており、コニーは兄が自分の夫を殺したトラウマを引きずっており、ヴィンセントはファミリーを引き継ぐ時に、マイケルからメアリーを諦めること、つまり「家族にならないこと」を条件として求められている。つまり、『ゴッドファーザー』はコニーの結婚式にコルレオーネ・ファミリーが全員集合する場面から始まり、家族すべてを失ったマイケルの孤独を描いて終わるという、ひたすら家族が痩せ細ってゆく物語なのである。なんと。
 このマイケルの悲劇的な「家族解体のドラマ」に対旋律のように絡みつくのが『ゴッドファーザー パートII』におけるヴィトー・コルレオーネ(ロバート・デニーロ)による「家族形成のドラマ」である。
 ヴィトーの物語は9歳の少年が父と母と兄をドン・チッチオに殺されて天涯孤独になる場面から始まる。彼はシチリアの掟によって彼を保護した人々によってアメリカに送り出され、エリス島に迎え入れられ、リトル・イタリーにささやかな生活の拠点を得て、結婚し、子どもが産まれ、クレメンザとテシオという仲間に恵まれ、やがてコルレオーネ・ファミリーを形成する。
なぜ、孤独な少年ヴィトーは家族をかたちづくることができたのか。それは彼が「シチリアの男の掟」に従って生きたからである。それ以外の行動規範をヴィトーは持たなかった。ヴィトーは個人的な感情によって動かない。同胞を収奪の対象とするリトル・イタリーのボス、ドン・ファヌッチを撃ち殺す時も、シチリアに戻って家族の仇であるドン・チッチオの腹に復讐のナイフを突き立てる時も、ヴィトーはほとんど感情を表さない。「掟が命じることをなす」ためにヴィトーには別に個人的な怒りや恨みの感情を動員する必要がないからである。
 ドン・チッチオを殺すためのシチリアへの旅はヴィトーにとって、ドン・トマシーノとのオリーブオイルビジネスのための商談の旅であり、故郷への家族旅行でもある。でも、地元のマフィアのボスを刺殺するための旅に家族を連れてゆくというのはよく考えるとずいぶんひどい話である。ヴィトーはそこで返り討ちにあって死ぬリスクもあったからである。現に、ヴィトーに助太刀したドン・トマシーノはその時の銃撃戦で生涯にわたる重傷を負う。
 すでにニューヨークで成功しているヴィトーにとって、シチリアに死にかけた老人を殺しにゆくことにはリスクだけがあって何のメリットもない旅である。だが、ヴィトーはこの復讐の旅を9歳の時からずっと心待ちにしていたのである。その義務を果たさないと「シチリアの男」ではなくなると知っていたからである。だから、場合によっては、家族全員が死ぬ可能性もある旅に発つ時、ヴィトーはもちろん旅の趣旨を家族の誰にも打ち明けていなかったと思う。ヴィトーには「シチリアの男の掟」に違背してまで家族と安楽に生き延びるという選択肢は存在しなかったからである。
 ヴィトー・コルレオーネは個人的な感情によっては動かない。個人的な利害得失によっても動かない。彼が従うのはシチリアでの少年期においてすでに深く内面化した「掟」だけである。だから、彼は家族に理解も共感も求めない。彼が「これから家族の復讐にシチリアにでかけようと思う。みんな殺されるかも知れないが、オレの気持ちをわかってくれ」というようなことを彼は妻や子どもたちに要請しなかったはずである。「オレの気持ちをわかってくれ」というような訴えをおそらくヴィトーは生涯誰に対しても一度もしたことがない。そして、まことに逆説的なことではあるが、家族に理解も共感も求めない男によってこの家族は最も強く結束されていたのである。
 マイケルはこの父と逆の生き方を選んだ。彼は(物語の冒頭で海兵隊に志願するときから、最後まで絶えず)家族に「オレの気持ちをわかってくれ」と懇願し続けた。そして家族の誰もが「オレの気持ち」をほんとうにはわかってくれないことを悲しみ、恨み、それゆえ家族に無意識のうちにつらく当たり続けて、ついに家族をすべて失う。
『ゴッドファーザー』は「ファミリー」の物語である。そして、一代にしてニューヨーク最大の「ファミリー」を形成したヴィトー・コルレオーネが教えたのは、家族を堅牢なものとして保ちたいと望むなら、家族を理解と共感の上に基礎づけるべきではないということであった。家族は(それ自体どれほど不条理なものであっても)揺るぎない「掟」の上に構築しなければならない。
 その「掟」が守るだけの価値があるものであるかどうかは、その「掟」のために命をかけることの人間が、自分の生命によって債務保証するしかない。ことの順逆が狂っているように聞こえるかも知れないが、そうなのだ。そのために死ぬことができると宣言する人間がいることによってはじめて「掟」は機能する。
 ヴィトーにとって男とは「家族のために死ぬことができる人間」のことである。そのおごそかな誓言によって彼は家族を結束させる家父長であり得たのである。だが、マイケルは最後に家族のうちで彼一人が生き残ったことから知れるように、結果的には(本人はまことに不本意であろうが)「自分のために家族を殺すことができる人間」であった。だから、マイケルの家族は解体する他なかったのである。
『ゴッドファーザー』から学んだ教訓は一つではないが、これはそのうちで最も深く身に浸みる教訓であった。