総選挙の後にいろいろなメディアに選挙の総括を書いた。
「争点は何か?」「野党共闘をどう評価するか?」「女性議員はなぜ少ないのか?」「若者はどうして投票しないのか?」という4つの視点から書いた。
「選挙の争点」AERA11月4日
選挙前にいくつかのメディアから「総選挙の争点は何でしょう?」と訊かれた。コロナ対策が喫緊の争点になるはずだったが、8月中旬をピークに感染者は急減した。どうしてこんなに減ったのか、医師に会うたびに訊くのだが、皆「わからない」と首を振るばかりである。感染が収束した理由がわからないのだから、政府のコロナ対策の適否について科学的な判断を下すことはまだできない。だから、コロナ対策は争点にならない。
野党は経済的な指標を取り上げて、日本の国力が急激に低下しているのは過去9年の安倍・菅政権の政策の失敗が理由だと論じたが、与党はこれに取り合わなかった。与党が「経済政策は成功だった」と言い張って初めて論争になるのだが、与党が口をつぐんで、そんな話には興味がないという顔をしていれば争点にはならない。
財政も外交も国防も、与野党ともに言いたいことを言うだけで、素人にはどちらに理があるのか分からない。専門的知識があると称する人たちがまるで違うことを言っているのである。素人に判断できるはずがない。これも争点にはならない。
選択的夫婦別姓が争点化しそうに見えたが、これは自民党がこの政策に否定的だったのはコアな極右の支持者を喜ばせるためのマヌーヴァーであり、内心では「どうでもいい」と思っていたはずである。だから、本格的な争点になるはずもなかった。
開票速報の時に「争点は何か」と訊かれた自民党の高市政調会長が勝敗を決したのは公約の違いではなく「個々の選挙区の事情の違いだ」と答えていた。そうなのだろうと思う。どれくらい駅頭に立ったか、地域の集まりに顔を出したか、陳情を受け付けたか、そういう「どぶ板」の活動が決定的だったということだ。
そう考えると、地域の手当てを疎かにしてきた大物政治家たちが苦杯を喫したことの理由も、大阪での維新の全勝の理由もわかる気がする。
素人には政策の良否が判定し難くなった時代には候補者たちが踏んだ「どぶ板」の数が当落を決する。要するに単純接触効果が投票行動を支配するということである。分かりやすいと言えば分かりやすい話だが、議員の適性をそれだけで考量してよいのだろうか。
「野党共闘の個人的果実」『週刊金曜日』11月4日
節操がないと非難されそうだけれども、今回の総選挙で私は3つの政党を応援することになった。
最初に依頼があったのは兵庫七区で立った立憲民主党の安田真理さんからである。前回の参院選でも私は安田さんの推薦人になった。私は立憲民主党を枝野さんが立党した時に、その志を多としてサポーターになった。だから支持政党から出る候補者からの依頼を断ってはことの筋目が通らない。それに私に推薦人を依頼するということは「内田樹が推薦するような候補者には絶対入れない」という有権者たちを失うというリスクを取るということである。「僕なんかに推薦を頼んでいいんですか?」と一応お訊ねしたけれど、にっこり笑って「お願いします」と言われた。胆力のある方である。
選挙期間に安田さんの応援集会で一度だけ応援演説をした。15分話してくれと頼まれたのに政権交代の喫緊である所以を論じているうちに興奮して30分しゃべってしまって安田さんを慌てさせてしまった(すみません)。残念ながら選挙区では三位、比例復活もならなかった。捲土重来を期したい。
実を言うと、私が応援弁士として立った候補はこれまでほとんど当選したことがない。国政も、知事選も、市長選も、だいたいいつも「敗軍」の側である(唯一の例外は福島みずほさん)。でも、子どもの頃からずっと少数派で、いつでも「内田は変だ」と多数派から言われ続けてきたので、選挙でも少数派の側にいることに特段の不思議はないのである。
その後、雨宮処凛さんから「山本太郎のために応援動画を撮らせて欲しい」という依頼があった。山本さんには前に凱風館においで頂いて、お話しを伺ったことがある。見た目は「マッチョ」だけれども、実に繊細で、気配りの行き届いた人だった。前回の参院選の時は事務所開きの日に東京にいたので、お祝いに駆けつけた。クローズドの集まりだったが、私の友人知人がたくさん来ていて、彼のネットワークの広さに驚いた。
その後、梅田で街宣をするという知らせがあったので、話を聴きに行った。姿を探したら、山本さんは雑踏に紛れてひとりでスピーカーの音響のチェックをしていた。彼がこれまで組織と運動を自分ひとりで「手作り」してきたということがその姿から知れた。だから、応援動画もお引き受けした。
「山本太郎を応援すると、全方位から矢が飛んできますよ」と雨宮さんに脅かされたけれど、別にどこからも矢なんか飛んでこなかった。「矢」というのは「あなたのことを見損ないました」とか「もうあなたの本は買いません」とかいう言葉づかいで飛んでくるものなのだろうけれど「内田をこれまでうかつにも過大評価していた」という人は、私に文句を言う前におのれの「うかつ」さと「人を見る目のなさ」をまず反省した方がいいと思う。
さいわい、れいわ新選組は国会に3議席を獲得した。また山本太郎の雄姿を国会で見ることができることを私はたいへんにうれしく思う。
投票日直前に今度は日本共産党から応援動画の依頼があった。「東京ブロックでは比例に『れいわ』と書いてください」という動画を撮った直後に「比例は日本共産党」というのはいくら何でも二枚舌ではないかと思ったけれど引き受けた。正直なところ比例区には野党共闘の四つに割って0・25票ずつ入れたい気持ちだったからである。
今回の選挙における野党共闘をどう総括すべきかの議論が今盛んだけれども、一人の有権者の中で複数の政党への支持が「同居できた」というあまり目につくことのない事実のうちにも野党共闘のささやかな「果実」を見出すことは可能だと私は思う。
「女性議員はなぜ少ないのか?」中日新聞11月4日
総選挙の総括を複数の媒体に寄稿した。違うところに同じ内容を書くのは学術の世界では「二重投稿」と言われて禁忌である。だから何とか違うことを書かねばならない。これまで「争点」「どぶ板選挙」「野党共闘」について書いた。この欄では「女性候補者の少なさ」について書く。
今回の衆院選では45人の女性が当選した。前回から2人減。全当選者のうち女性が占める割合は9.7%。でも、これで驚いてはいけない。女性が参政権を得た戦後最初の総選挙でも、実は女性当選者は39人、議員総数の8・4%に過ぎなかったからであった。以来75年間、女性議員の割合は10%ラインを上下している。参議院では女性議員数は微増し続け現在は22.9%にまで来ているが、衆議院は2009年の11.3%が過去最高である。ずっとその程度なのである。
有権者の50%は女性であるのに、彼女たちの集団を代表するはずの議員が10%以下しかいないというのはよく考えると不思議な話である。それどころか、市町村議会レベルだと「女性議員ゼロ」という議会が342(全議会の約20%)に及ぶ。
どうして女性議員の比率はこれほど低いのか。いろいろな理由が考えられる。
私は「どうしてこれほど女性議員の比率が少ないのか?」という問いの立て方そのものが問題の所在をむしろ分かりにくくしているような気がする。こう問うと、あたかも男女間に議席のゼロサム的な奪い合いがあり、男性がそれに勝利し続けているというような印象を私たちは抱いてしまうからである。だが、議席の9割を占める男性国会議員たちが「女性議員の数を増やさない」という暗黙の目的を掲げて一つの集団を形成しているようには見えない。男性議員たちは政党同士ではげしく対立し、同一政党内でもヘゲモニーをめぐって抗争を繰り広げている。そんな男たちが「女性の政治参加を阻止する」という一点についてだけは足並みを揃えているという仮説を私は採らない。
現に、政党ごとに女性立候補者の比率は大きく違う。今回の衆院選でも、社民党は60%、共産党は35.4%、国民が29.6%、れいわが23.8%と野党は総じて高い。だが、自民は9.8%、公明は7.5%といずれもこれまでの女性国会議員の比率よりも低い候補者しか立てていない。つまり、与党の二政党ははっきりと「女性国会議員を増やす気がない」という意思表示をして選挙に臨んでいたのである。
女性議員を増やすための「クオータ制」がときどき議論される。候補者や議席の一定数を女性に割り当て、違反した政党には政党助成金の減額などのペナルティを与えるという制度である。
男性と女性の間で議席のゼロサム的な奪い合いがあり、その戦いに男性が勝ち続けているというのなら、そのようにして性間での資源分配に強権的に介入することには合理性がある。けれども、わが国で女性議員が少ないのは、男たちが女性の政治進出を妨害しているというよりは、「女性の政治参加を求めない政党」が久しく政権の座にあり、彼らが選挙に勝ち続けているからである。
多数の女性有権者が「女性議員は少ない方がいい」と考えている政党に進んで投票し続けていることを「変だ」と思い始めない限り、現状は変わらない。
「若者はどうして投票しないのか?」信濃毎日新聞11月5日
今回の衆院選も投票率が低かった。55・93%は戦後ワースト3位。特に若者の投票率が低かった。18歳が51.1%、19歳に至っては35.0%という目を覆わんばかりの数値だった。
どうして若い人たちは投票をしないのかあちこちで訊かれた。私の仮説は「受験教育のせいかも知れない」というものである。その話をする。
受験教育では教師が問いを出し、生徒にしばらく考えさせてから正解を示す。生徒たちは「問いと正解」をセットにして記憶する。そして、次に同じ問いを前にすると、覚えていた正解を出力する。正解を知らない場合にはうつむいて黙っている。誤答をするよりうつむいて黙っている方が「まし」だからである。少なくとも教室ではそうだ。教師は黙っている生徒にはとりあわず、次の生徒に向かう。だから、「誤答するくらいなら黙っている方がまし」ということが「成功体験」として日本の多くの子どもたちには刷り込まれている。
選挙では「誰に投票すれば正しいか」という「正解」が事前には与えられていない。若者たちの多くはどの候補者が「正しい」かを判断するほどの情報を持っていない。友だちや家族とそれについて意見交換することもたぶんあまりないだろう。だから、彼らは「正解」を知らない状態で投票日を迎えることになる。そして、受験勉強で刷り込まれた「正解を知らないときは、誤答するよりは沈黙していた方がまし」という経験則を適用する。教師に「どうしてそんなバカな答えを思いついたのだ」と絡まれずに済むし、的外れな答えを口にするよりは黙っている方がまだしも賢そうに見える。中高生には熟知された事実だ。だとすれば、「正解」を知らない選挙では投票しないことが「まし」だという結論になる。いささか暴論だが、その可能性はあると思う。
(2021-11-08 15:48)