憲法の話(長いです)

2021-11-03 mercredi

もうすぐ出るSB新書の『戦後民主主義に僕から一票』には憲法について過去にブログに載せた文章がいくつか再録されている。これもその一つ。ただし、新書化に際して大幅に加筆したので、オリジナルの2倍くらいの量になっている。今日は11月3日。日本国憲法公布から75年経った。改めて憲法について考えたい。

 私が憲法に関して言いたいことはたいへんシンプルである。それは現代日本において日本国憲法というのは「空語」であるということだ。だから、この空語を充たさなければいけないということだ。
 日本国憲の掲げたさまざまな理想は単なる概念である。「絵に描いた餅」である。この空疎な概念を、日本国民であるわれわれが「受肉」させ、生命を吹き込んでいく、そういう働きかけをしていかなければいけない。
 憲法は書かれたらそれで完成するというものではない。憲法を完成させるのは、国民の長期にわたる集団的努力である。そして、その努力が十分でなかったために、日本国憲法はまだ「受肉」していない、というのが私の考えだ。
 
 もう一つ長期的な国民的課題がある。それは国家主権の回復ということである。
 日本はアメリカの属国であって国家主権を持っていない。その国家主権を回復するというのはわれわれの喫緊の国家目標である。これはおそらく100年がかりの事業となると思う。これもまた日本国民が引き受けなければならない重い十字架である。
 そして、国家主権の回復という国民的事業を一歩ずつでも前に進めるためには、「日本国民は今のところ完全な国家主権を持っていない」という痛ましい事実を認めるところから始めなければならない。
 日本はアメリカの属国である。安全保障であれ、エネルギーであれ、食糧であれ、重要な国家戦略についてわれわれは自己決定権を有していない。この事実をまず国民的に認識するところから始めなければいけない。
 けれども、現在の政権を含めて、日本のエスタブリッシュメントはそれを認めていない。日本はすでに完全な国家主権を有しているという「嘘」を信じているか、信じているふりをしている。すでに国家主権を有しているなら、アメリカの属国身分から脱却するための努力の必要性そのものが否定される。この重篤な病から日本人が目覚めるまで、どれくらいの時間が要るのか、私には予測できない。恐ろしく長い時間がかかることは間違いない。

 最初に「憲法は空語である」という考え方について、少しご説明を申し上げておきたい。
 いろいろなところから憲法についての講演に呼ばれる。もちろん、呼んでくれるのはどこも護憲派の方たちである。護憲派の集会へ行くと、客席の年齢層が高い。平均年齢はおそらく70歳くらいだと思う。若い人はまず見かけることがない。日頃から、駅頭でビラを撒いている方たちもそうだ。地域の市民たちが文字通り「老骨に鞭打つ」という感じで情宣活動をしたり、護憲派集会の会場設営の力仕事をされている。若い人が来ない。どうしてこんな老人ばっかりなんだろう。どうして日本の護憲派の運動は若い人に広がらないのか。
 それはどうやら若い人たちはむしろ改憲派の言説の方にある種のリアリティーを感じているかららしい。改憲派の言葉の方に生々しさを感じる。そして、護憲派の言説は「空疎」だという印象を持っている。たぶん、そうなのだと思う。だが、どうして護憲派の言説にはリアリティーがないのか。
 
 私は1950年生まれである。だから、私にとって日本国憲法はリアルである。それを「空疎」だと思ったことがない。憲法は私にとって山や川のような自然物と同じようなものとして、生まれた時からそこにあった。良いも悪いもない。自然物についてその良否を語らないのと同じだ。「憲法を護ろう」というのは、私たちの世代にとっては、当たり前のことであるわけだ。それは「大気を守ろう」とか「海洋を守ろう」とかいうのとほとんど変わらないくらい自然な主張に思えていた。
 だから、護憲派の人たちに60代、70代の人が多いのは当然なのである。この世代にとっては憲法には自然物としてのリアリティーがあるからだ。でも、若い世代は憲法にそのようなリアリティーを感じない。同じ文言であるにもかかわらず、育った年齢によって、その文言のリアリティーにこれほどの差が出るのだ。この差はどうして生まれたのか?
 この差は「戦中派の人たちが身近にいたか、いなかったのか」という先行世代との関わりの違いから生まれたと私は思っている。
 戦中派というと、われわれの世代では、親であったり、教師であったりした人たちだ。この人たちの憲法観が私たちの世代の憲法への考え方を決定づけた。戦中派の憲法理解が、戦後日本人の憲法への関わりを決定的に規定した。というのが、私の仮説である。
 私自身は、戦中派であるところの両親や教師たちやから、「とにかく日本国憲法は素晴らしいものだ」ということを繰り返し聞かされてきた。そして、「この憲法は素晴らしいものだ」と言う時に彼らが語る言葉にはある種の重々しさがあった。「声涙ともに下る」実感があった。こんなよい憲法の下で育つことができて、お前たちはほんとうに幸せだ、と深い確信をこめて彼らは語った。その言葉に嘘はなかったと思う。
 私たちが子どもの頃、天皇制を批判する人は今よりはるかに多かった。もちろん学校の先生たちの中にもいた。天皇制について、はっきり廃絶すべきだと言い切る先生たちは小学校中学校に何人もいた。「天ちゃん」というような侮蔑的な言葉遣いで天皇を呼ぶ人もいた。それを咎める人もいなかった。でも、憲法について批判的なことを言う大人は私が子どもの頃には周りにはいなかった。 
 私の世代には名前に「憲」という字が入っている男子がたくさんいる。今はもうほとんどいないと思うが、1946年の憲法公布から10年間ぐらいは、「憲男」とか「憲子」という名前はそれほど珍しくなかった。この時期だけに特徴的な命名だったと思う。それだけ親の世代が憲法に多くのものを期待していたということである。
 だから、「改憲論」というものを私はずいぶん後年になるまで目にしたことがなかった。たしかに、自民党は党是として結党時から自主憲法制定を掲げていたはずだが 、憲法を改正することが国家的急務であるというような言説がメディアを賑わせたということは、ずいぶん後になるまでなかった。特に1960年代末から70年にかけて、私が高校生大学生の頃は、世界的な若者の叛乱の時代である。そんな時期に憲法が話題になるはずがない。活動家たちはどうやってブルジョワ民主制を打倒して革命をするかという話をしていたのである。ブルジョワ憲法の良否が政治的主題になるはずがない。「憲法を護持すべきか、改正すべきか」が喫緊の政治的論件だと主張するような人間に私はその時代に一人も会ったことがない。
 つまり、私たちの世代は、子どもの頃は憲法を自然物だと思い込んでおり、学生のころは憲法のことは眼中になく、いずれにせよ、憲法が政治的主題であったことはなかったのである。
 ところが、ある時期から改憲論が政治的論件としてせりあがってきた。そう言われてみてはじめて「憲法を護持すべきか、改正すべきか」ということが一つの問題として存在するということを知ったのである。
 私は「憲法は自然物」と思い込んで育ってきた世代であるから、むろん「生まれつきの護憲派」である。しかし、改めて護憲論とされる人々の言葉を読むと、なんだかずいぶん「空疎」に思えた。それに比すと、改憲論には独特の生々しさと激しさがあった。憲法に対するただならぬ憎しみを感じた。これでは憲法に対してニュートラルな立場にある人たちは改憲論の方に引きずられるかもしれないと思った。
 そこで、「生まれつき護憲派」の立場から、どうして護憲論にはリアリティーがないのかということを考えた。
 考えたらすぐにわかった。
 日本国憲法を貫く理念は素晴らしいものであるが、これは日本人が人権を求める戦いを通じて自力で獲得したものではない。戦争に負けて、日本を占領したアメリカの軍人たちが「こういう憲法がよろしかろう」と判断して、下賜されたものである。日本人が戦い取ったものではない。負けたせいで転がり込んできたものである。人からもらったものを「護る」という仕事なのだから、あまり気合が入らないのも無理はない。
 私だってもちろん憲法が市民革命を通じて獲得されたものではないということは歴史的事実としては知っていた。にもかかわらず、それを「たいへんに困ったことだ」と実感したことはなかった。それは戦中派の人たちが憲法の制定過程に関してほぼ完全に沈黙していたからだ。こちらは子どもであるから、大人が決して話題にしないことについて、「それこそが問題なのだ」というようなことは言わないし、考えもしない。大人たちはうすうす知っていたのだろうが、日本政府とGHQとの間で、どういう駆け引きがあって、どういう文言の修正があって、現行憲法が制定されることになったのか、私たち子ども相手には何も説明がなかった。
 
 戦中派は二つのことがらについて沈黙していたと私は考えている。一つは戦争中における彼ら自身の加害経験について。戦時の空襲や機銃掃射の被害経験に関してはずいぶん雄弁に語ってくれたが、加害者として、中国大陸や朝鮮半島や台湾や南方において、自分たちが何をしたのかについては何も言わなかった。どういうふうに略奪したのか、強姦したのか、拷問したのか、人を殺したのか、そういうことについて子どもにも正直に語った大人に私は会ったことがない。
 それは戦争経験文学の欠如というかたちでも現れていると思う。以前に高橋源一郎さんに教えてもらったのだが、敗戦直後にはほとんど見るべき文学的達成はない。戦争から帰ってきた男たちが戦争と軍隊について書き出した最も早い例が吉田満の『戦艦大和ノ最期』で、これは46年には書き上げられていた。大岡昇平の『俘虜記』が48年。50年代になってからは、野間宏の『真空地帯』、五味川純平の『人間の条件』、大西巨人の『神聖喜劇』といった「戦争文学」の代表作が次々と出てくるが、加害経験について詳細にわたって記述した作品は私の世代は少年時代についに見ることがなかった。
 ただ、私は戦中派の人たちのこの沈黙を倫理的に断罪することにはためらいがある。かれらの沈黙が善意に基づいたものであることが分かるからだ。
 ひどい時代だったのだ。ついこの間まで、ほんとうにひどいことがあった。たくさんの人が殺したり、殺されたりした。でも、それはもう終わった。今さら、戦争の時に自分たちがどんなことをしたのかを子どもたちに教えることはない。あえて、そんなことを告白して、子どもたちに憎まれたり、軽蔑されたりするのでは、戦争で苦しめられたことと引き比べて、「間尺に合わない」、彼らはたぶんそう考えたのだと思う。子どもたちには戦争の詳細を語る必要はない。子どもたちに人間性の暗部をわざわざ教えることはない。ただ「二度と戦争をしてはいけない」ということだけを繰り返し教えればいい。戦後生まれの子どもたちは戦争犯罪について何の責任もないのだから、無垢なまま育てればいい。戦争の醜い部分は自分たちだけの心の中に封印して、黙って墓場まで持って行けばいい。それが戦後生まれの子どもたちに対する先行世代からの「贈り物」だ、と。たぶんそういうふうに考えていたのではないかと思う。戦争の罪も穢れも、自分たちの世代だけで引き受けて、その有罪性を次世代に先送りするのは止めよう。1945年 8月15日以降に生まれた子どもたちは、新しい憲法の下で、市民的な権利を豊かに享受して、戦争の責任から完全に免罪された存在として生きればいい。その無垢な世代に日本の希望を託そう。そういうふうに戦争を経験した世代は思っていたのではないか。そうでなければ、戦中派の戦争の加害体験についての、あの組織的な沈黙と、憲法に対する手放しの信頼は説明が難しい。
 
 例えば私の父親がどういう人間であるか、私はよく知っているつもりでいる。筋目の通った人だったし、倫理的にもきちんとした人だったから、彼が戦争中にそれほどひどいことをしたとは思わない。父は10代の終わりから30代の半ばまで大陸に十数年いたが、戦争中に中国で何をしていたのかは家族にさえ一言も言わなかった。北京の冬が寒かったとか、家のレコードコレクションが何千枚あったかとかいう戦争とは無関係な個人的回想も、ある時期から後はぱたりと口にしなくなった。戦争中についての出来事は語らないというのは、あの世代の人たちの暗黙の同意事項だったのではないかという気がする。
 自分たちの戦争犯罪を隠蔽するとか、あるいは戦争責任を回避するといった利己的な動機もあったかもしれない。しかし、もっと強い動機は、戦後世代をイノセントな状態で育ててあげたいということだったと私は思う。そういう穢れから隔離された、清らかな、戦後民主主義の恩恵をゆたかに享受する資格のある市民として子どもたちを育てること、それこそが日本の再生だ。この子たちが日本の未来を担っていくのだ。そういう希望を託されてきたという感覚が私にはある。それは私と同年代の人は多分同意してくれると思うのである。
 私が小学校5年の時の担任の先生がその頃で35歳ぐらいだった。もちろん戦争経験がある。私はその先生が大好きだったので、いつもまつわりついていた。何かの時に「先生は戦争行ったことある?」と聞いたら、ちょっと緊張して、「ああ」と答えた。で、私がさらに重ねて「先生、人殺したことある?」と聞いたら、先生は顔面蒼白になった。聞いてはいけないことを聞いてしまったということは子どもにもわかった。その時の先生の青ざめた顔色を今でも覚えている。大人たちにはうかつに戦争のことを聞いてはいけないという壁のようなものを感じた。
 
 戦争経験についての世代的な沈黙というのと対になるかたちで憲法制定過程についての沈黙がある。これも私は子どもの頃から聞いたことがない。学校の教師も、親たちも、近所の大人たちも、憲法制定過程について、どういう制定過程でこの憲法が出来たのかという話を私たちにはしてくれたことがなかった。大人たちがそれについて話しているのをかたわらで聴いた記憶もない。憲法制定は親たち教師たちの年齢であれば、リアルタイムで目の前で起きたことだ。1945年から46年にかけて、大人たちは何が起きているか、だいたいのことは知っていたはずである。憲法制定過程に関してさまざまな「裏情報」を聴き知っていたはずである。でも、子どもたちにはそれを伝えなかった。
 改憲派が随分あとになってから「押し付け憲法」ということを言い出した時に私は実はびっくりした。子どもの時はそんなこと考えたこともなかったからだ。憲法は日本人が書いたのか、アメリカ人が書いたのかについて、あれこれの説が憲法制定時点から飛び交っていたということを知ったのは、恥ずかしながらずいぶん大人になってからである。
 最初に結婚した女性の父親は平野三郎という人で、その当時は岐阜県知事だったが、その前は自民党の衆議院議員だった。その岳父が、当時はもう70歳を過ぎていたが、酔うと私を呼んで日本国憲法制定秘話を語ってくれた。私が日本国憲法の制定にはみんなが知らない秘密があるという話を個人的に聴いたのは彼からが最初だった。25歳を過ぎてからの話である。岳父は幣原喜重郎の秘書のような仕事をしていたので、死の床で幣原喜重郎が語ったことを、後に国会の憲法調査会で証言している。九条二項を思いついてマッカーサーに進言したのは幣原さんだと岳父は主張する。憲法九条二項は日本人が自分で考えたんだ。押し付けられたものじゃないとテーブルを叩きながら語った。
 そういう話を聞いて、どうしてこういう事実がもっとオープンに議論されないのか不思議に思った。憲法制定過程については、実にいろいろな説が語られている。「藪の中」なのだ。でも、憲法というのは国のかたちの根幹を決定するものである。その制定過程に関して諸説があるというのはいくらなんでもまずい。歴史的事実として確定する必要がある。国民全体として共有できる歴史的な事実を確定して、それ以上真偽について議論する必要はないということにしないといけないと思う。しかし、現代日本では、憲法制定過程に関して、「これだけは国民が事実関係に関しては争わない」ということで共有できるベースがない。
 なぜこんなことが起きたのか。それはリアルタイムで憲法制定過程を見ていたはずの世代の人たちが、それについて集団的に証言してくれなかったからだ。知っていることを言わないまま、沈黙したまま死んでしまったからだ。
 実際に戦争で多く死んだのは明治末年から昭和初年にかけて生まれた世代だ。この戦争を現場で経験したこの人たちは復員してきたあと、結婚して、家庭を作って、市民として生活を始めた。当然、これからの日本はどうなるんだろうということに興味をもってみつめていた。日本の行く末がどうなるか心から案じていたと思う。国のかたちを決める憲法については、その制定過程についても、日々どうなっているんだろうと目を広げて、日々話し合っていたはずである。でも、その過程で、「では、憲法はこういうふうに制定されたという『話』を国民的合意として採用しよう」ということをしなかった。
 日本国憲法には前文の前に「上諭」というものが付いているが、私はそれをずっと知らなかった。上諭の主語が「朕」だということも知らなかった。でも、日本国憲法は「朕」が「公布」している。天皇陛下が「枢密顧問の諮詢」と「帝国憲法73条による帝国議会の議決を経て」日本国憲法を公布している。日本国憲法を公布した主体は天皇なのだ。ちゃんと「御名御璽」が付いている。でも、私たちが憲法について教えられた時には、その上諭が削除されたかたちで与えられた。どういう法理に基づいてこの憲法が制定されたかという「額縁」が外されて、テキストだけが与えられた。
 憲法の個々の条項については、その適否についていろいろな意見があっても構わないと思う。でも、その憲法がどういう歴史的な過程で、どういう議論を経て制定されていったのかという歴史的事実についてだけは国民的な合意があるべきだと思う。その合意がなければ、憲法の個別的条項についての議論を始めることはできない。でも、日本人にはその合意がない。憲法制定の歴史的過程は集団的な黙契によって隠蔽されている。
 憲法についての試案があったとか、マッカーサー三原則があったとか、GHQの民生局が草案を作って、11日間で草案を作ったとか、さまざまな説があり、それについていちいちそれは違うという反論がある。どれかが真実なのかがわからない。「これが出発すべき歴史的事実」として国民的に共有されているものがない。
 憲法とは、われわれの国の最高法規である。その最高法規の制定過程がどういうものだったのかについて国民的な合意が存在しない。マグナカルタでも、人権宣言でも、独立宣言でも、どういう歴史的状況の中で、何を実現しようとして、誰が起草したのか、どういう議論があったのか、どういう風に公布されたかということは歴史的な事実として開示されている。それが当然だ。でも、日本国憲法については、それがない。制定過程が隠蔽されたしかたで私たち戦後世代に憲法は与えられた。それをなんの疑いもなく、天から降ってきた厳然たる自然物のように受け止めてきたのが今や70にならんとしている私らの世代の人間なのだ。改憲派の人たちに、「こんなもの押し付けられた憲法だ」、「こんなものはGHQの作文だ」と言われるとびっくりしてしまう。自然物だと思っていたものがこれは「舞台の書き割り」のようなものだと言われたわけなのだから。
 でも、この舞台の書き割りを自然物のように見せていたのは、先行世代の作為だった。戦中派世代の悲願だった。「書き割り」の日本国憲法を、あたかも自然物であるかのように絶対的なリアリティーをもつものとして私らに提示したのは彼らである。その戦中派の想いを私は可憐だと思う。私には彼らの気持ちがわかる気がする。もうみんな死んでしまった。父も岳父も亡くなった。大事なことを言い残したまま死んでしまった。だから、私らはそれに関しては想像力で補うしかない。

 護憲論を批判するのは簡単である。こんなもの、ただの空語じゃないか、「絵に描いた餅」じゃないか、国民のどこに主権があるのか、「平和を愛する諸国民の公正と信義」なんか誰が信じているのか、国際社会が「平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めている」なんて白々しい嘘をよく言えるな。そう言われると、まさにその通りなのだ。
 憲法前文には、「主権が国民に存することを宣言し、この憲法を確定する」と書いてあるが、そもそも「日本国民」というもの自体が擬制である憲法が公布された1946年の11月3日の段階では、事実上も権利上も、「日本国民」などというものは存在していなかったのだから。公布前日の11月2日までは、列島に存在したのは大日本帝国であり、そこに暮らしていたのは「大日本帝国臣民」であって、「日本国国民」などというものはどこにもいなかった。どこにもいなかったものが憲法制定の主語になっている。「この主語の『日本国民』というのは、誰だ?」と切り立てられたら、答えようがない。
 日本国憲法を制定した国民主体は存在しない。存在しない「日本国国民」が制定した憲法であるというのが日本国憲法の根源的な脆弱性である
 
 と言っておいてすぐに前言撤回するのもどうかと思うが、実は世の中の宣言というのは、多かれ少なかれ「そういうもの」なのだ。宣言に込められている内容はおおかたが非現実であるし、宣言している当の主体自体だって、どれほど現実的なものであるかは疑わしい。
 例えば1776年公布のアメリカ独立宣言は「万人は平等に創造された」と謳っているが、実際にはそれから後も奴隷制度は続いた。奴隷解放宣言の発令は1862年であり、独立宣言から100年近く経っている。むろん、奴隷解放宣言で人種差別が終わったわけではない。公民権法が制定されたのは1964年。独立宣言から200年経っている。そして、もちろん今のアメリカに人種差別がなくなったわけではない。人種差別は厳然として存在している。しかし、「独立宣言に書いてあることとアメリカの現状が違うから、現実に合わせて独立宣言を書き換えよう」と主張するアメリカ人はいない。社会のあるべき姿を掲げた宣言と現実との間に乖離がある場合は、宣言を優先させる。それが世界標準なのだ。
 日本は違う。宣言と現実が乖離している場合は、現実に合わせて宣言を書き換えろということを堂々と言い立てる人たちがいる。それも政権の座にいる。
 世界中どこでも、国のあるべきかたちを定めた文章は起草された時点では「絵に描いた餅」である宣言を起草した主体が「われわれは」と一人称複数で書いている場合も、その「われわれ」全員と合議して、承認を取り付けたわけではない。自分もまた宣言の起草主体の一人であるという自覚を持つ「われわれ」をこれから創り出すために宣言というものは発令される。それが宣言の遂行的性格である。
 それでいいのだと思う。日本国憲法制定時点では、「日本国民」なるものは現実には存在しなかった。でも、そこで掲げられた理念が善きものであるということが世の常識になり、「憲法を起草してくれ」と誰かに頼まれたら、すらすらとこれと同じ憲法を起草することができるような人々が輩出するなら、その時「日本国民」は空語ではなく、はじめて実体を持ったことになる。
 この憲法を自力で書き上げられるような国民めざして自己造型してゆくこと、それが憲法制定以後の実践的課題であるべきだったのだ。ただ、そのためには、日本国民が「われわれは『日本国民』にまだなっていない。われわれは自力でこの憲法を起草できるような主体にこれからならなければならない」と自覚することが必要だった。
 護憲論の弱さはそこにある。
 護憲派はそのようには課題を立てなかった。そうではなくて、「日本国民は存在する」「私たちは憲法制定の主体だ」というところから話を始めてしまった。それが最初のボタンの掛け違えだったと思う。
 たしかに憲法前文には、「日本国民」が集まって、熟議を凝らした末に、衆知を集めてこの憲法を制定したと書いてある。しかし、そういう歴史的事実はない。戦争に負けたのだから、そういう事実がなかったことは仕方がない。でも、いずれ衆知を集めて、このような憲法を自力で起草できるような国民主体として自己形成することを未来の目標に掲げるということはできたはずだし、しなければならなかったはずだ。しかし、戦後の日本人たちはそれをしなかった。「日本国民は存在しない」「われわれは憲法制定の主体ではない」という事実から目を逸らした。それがいけなかったのだと思う。
 日本国民が憲法を制定したわけではないという誰もが知っている事実を「なかったこと」にしたせいで、それ以後の護憲論・改憲論の「ねじれ」は生まれた。
 私たちは憲法制定の主体ではないと、素直に認めればよかったのだ。たしかに日本国憲法は日本国民が衆知を集めて起草したものではないが、仮にもう一度憲法制定のチャンスを与えられたら、自発的にこれと同じ憲法を自力で書けるような日本国民へと自己形成することはできる。それを遂行的な目標として掲げることはできたはずである。そうすべきだったと思う。
 もちろん、戦中派の人たちの中にも、それに似たことを考えた人はいたと思う。でも、それは多数意見にはならなかった。たぶん、そんな困難な国民的課題を引き受けるだけの気力・体力がなかったのだと思う。日本は負け過ぎた。再起できなくくらいに負けた。自力で敗戦の総括ができないくらいに、戦争責任の追及ができないくらいに負けた。国土は焦土と化し、明日の食べ物さえままならなかった。その状況で、「あるべき日本国民」に向けて、自己陶冶の努力をしようということを喫緊の国民的課題に掲げることはたぶん無理だったのだ。それよりはまず雨露をしのぎ、飢えを満たし、死者たちを弔い、傷ついた人たちを癒し、子どもたちを学校にやることの方が優先する。
 
 そうやって何年か経った。憲法は日本の風土に根づき始めたように見えた。戦後に生まれた子どもたちは憲法を「自然物」のように素直に受け入れ、民主主義社会の空気を呼吸している。それを見て、戦中派の人たちはこう考えた。後はこの子たちに任せておけばいいじゃないか。この子たちは「生まれつきの国民主体」なのだ。この子たちに「好きに憲法を制定していいよ」と言ったら、きっとすらすらと今あるような憲法を起草するに違いない。だったら、今さら「日本国民は存在しない」「私たちは憲法制定の主体ではない」などという痛ましい事実をカミングアウトするには及ばない。黙っていても、「日本国民」は育っている。もう大丈夫だ。あと数十年も経てば、列島住民のほとんどが「憲法制定の主体」たりうる日本国民になっているはずだ、と。たぶんそういうふうに考えたのだと思う。そうでなければ、戦中派世代の制憲過程についての集団的な沈黙は説明できない。

 でも、まことに残念ながら、歴史は彼らが予想したようには推移しなかった。
 私たちは戦後民主主義からの気前のよい権限委譲を享受するだけ享受したあげくに、あっさりと憲法のことを忘れて、あろうことか戦後民主主義の「欺瞞性」を罵倒するようになった。その時の戦中派の落胆はいかばかりであっただろうか。
 でも、もう遅かった。私たちは「生まれついての憲法の申し子」であり、戦後民主主義が提供してくれる「果実」を食いたい放題に食うことは許されたけれども、憲法の精神を血肉化する義務があるとは教えられなかった私たちにはもう「血肉化済み」だと思われていたのである。でも、そうではなかった。そして、何十年かして、私たちは改憲派に思い切り足をすくわれることになった。
 
 改憲派のアドバンテージはその一点に尽きる。憲法制定過程に日本国民は関与していない。これはGHQの作文だ。アメリカが日本を弱体化させるため仕掛けた戦略的なトラップだというのが改憲論を基礎づけるロジックだが、ここには一片の真実があることは認めざるを得ない。
 憲法制定過程に「超憲法的主体」であるGHQが深く関与したことが憲法の正当性を傷つけていると改憲派は言う。一方、護憲派はGHQの関与については語ろうとしない。「日本国民が制定した」という物語にしがみついた。
 繰り返し言うが、憲法を制定するのは「憲法条文内部的に主権者と認定された主体」ではない。憲法を制定するのは、歴史上ほとんどの場合、戦争や革命や反乱によって前の政治体制を覆した政治的強者だ。それは大日本憲法も同じである。
 大日本帝国憲法において主権者は天皇である。「大日本帝国ハ萬世一系ノ天皇之ヲ統治ス」と第一条に記してある。そして、その条項を起草したのも天皇自身であるということになっている。だから、大日本帝国憲法の「上諭」には「朕」は「朕カ祖宗ニ承クルノ大権ニ依リ現在及将来ノ臣民ニ対シ此ノ不磨ノ大典を宣布ス」と明記してある。
 でも、別に憲法制定の「大権」が歴代天皇には認められていたなどということはない。勅諭や綸旨ならいくらでも出したが、「憲法」という概念自身が近代の産物なのであるから、憲法制定大権なる概念を明治天皇が「祖宗」に「承クル」はずがない。実際に明治憲法を書いたのは伊藤博文ら元勲である。明治維新で徳川幕府を倒し、維新後の権力闘争に勝ち残った政治家たちがその「超憲法的実力」を恃んでこの憲法を制定したのである。やっていることはGHQと変わらない。
 憲法というのはもともと「そういうもの」なのだ。圧倒的な政治的実力を持つ超憲法的主体がそれを制定する。それが誰であり、どういう歴史的経緯があって、そのような特権をふるうに至ったのかという「前段」については、憲法のどこにも書かれていない。でも、書かれてなくても、知っている人は知っている。
 明治時代の人たちだって、憲法を起草したのが元勲たちで、それが近代国家としての「体面」を繕い、国際社会にフルメンバーとして加わり、欧米との不平等条約を改定するために必要だからということも知っていたはずである。薩長のエリートたちによる支配を正当化し、恒久化するための政治的装置だということも知っていたはずである。
 日本国憲法だって同じである。これもまた圧倒的な政治的実力を持つ超憲法的主体によって制定された。それが誰であり、どういう歴史的経緯があって、そのような特権をふるうに至ったのかという「前段」は、憲法のどこにも書かれていない。「上諭」にも書かれていない。でも、知っている人は知っていた。問題は、日本国憲法の場合は、制憲過程について「知っている人」たちがそれについて久しく口を噤んでいたことである。
 国民の多くが憲法を「ろくでもないもの」だと思い、一刻も早く改定すべきだと思っていたら、制定過程についての「裏情報」はもっと流布していただろう。でも、戦中派の人たちはそう思わなかった。すばらしい憲法だと思っていた。だから、制定過程についてあれこれと語ることで、憲法のインテグリティーに傷をつけたくないと思った。たぶんそうなのだろうと思う。
 戦中派は善意でそうしたのだと思う。私はそれを疑わない。彼らは戦後の日本社会を1945年8月15日以前と完全に切り離されたものとして、戦前と繋がる回路を遮断された「無菌状態」のものとして立ち上げようとした。だから、戦争の時に何があったのか、自分たちが何をしてきたかについて口を噤み、憲法制定過程についても語らなかった。それを語るためには、日本には、主権者である「日本国民」のさらに上に日本国民に主権者の地位を「下賜」した超憲法的主体としてのアメリカがいるのだが、それは自分たちが戦争をして、負けたせいだからだという痛ましい真実を語らなければならない。子どもたちに言って聞かせるにはあまりにつらい事実だった。
 
 戦争経験について、とりわけ加害経験について語らないこと、憲法制定過程について、日本は国家主権を失い、憲法制定の主体たり得なかったということを語らないこと。この二種類の「戦中派の沈黙」が戦後日本に修正することの難しい「ねじれ」を呼びこんでしまったのだと私は思っている。でも、私はそのことについて戦中派を責めるつもりはない。私たち戦後世代が戦争と無縁な、戦時における人間の醜さや邪悪さとも、敗戦の屈辱とも無縁な者として育つことを望んでいたからそうしたと思うからだ。
 だから、彼らの沈黙には独特の重みがあった。実存的な凄みがあった。「その話はいいだろう」といって低い声で遮られたら、もうその先を聞けないような迫力があった。だから、彼らが生きているあいだは歴史修正主義というようなものの出る幕はなかったのだ。仮に「南京虐殺はなかった」というようなことを言い出す人間がいても、「俺はそこにいた」という人が現にいた。そういう人たちがいれば、具体的に何があったかについて詳らかに証言しないまでも、「何もなかった」というような妄言を黙らせることはできた。
 歴史修正主義が出てくる文脈は世界中どこでも同じだ。戦争経験者がしだいに高齢化し、鬼籍に入るようになると、ぞろぞろと出てくる。現実を知っている人間が生きている間は「修正」のしようがない。それは、ドイツでもフランスでも同じだ。
 フランス人も自国の戦中の経験に関しては記憶がきわめて選択的だ。レジスタンスのことはいくらでも語るが、ヴィシー政府のこと、対独協力のことは口にしたがらない。フランスでヴィシーについての本格的な研究が出てきたのは、1980年代以降。それまではタブーだった。その時期を生きてきた人たちがまだ存命していたからだ。自分自身がヴィシーに加担していた人もいたし、背に腹は代えられず対独協力をして、必死で占領下を生き延びた人もいた。彼らがそれぞれの個人的な葛藤や悔いを抱えながら、戦後フランスを生きていることを周りの人は知っていた。そして、それを頭ごなしに責めることには抵抗があった。
 ベルナール=アンリ・レヴィが『フランス・イデオロギー』という本を書いている。ドイツの占領下でフランス人がどのようにナチに加担したのかを赤裸々に暴露した本だ。レヴィは戦後生まれのユダヤ人なので、戦時中のフランスの行為については何の責任もない。完全に「手が白い」立場からヴィシー派と対独協力者たちを批判した。しかし、出版当時、大論争を引き起こした。
 少なからぬ戦中派の人々がレヴィの不寛容に対して嫌悪感を示した。レイモン・アロンもレヴィを批判して、「ようやく傷がふさがったところなのに、傷口を開いて塩を擦り込むような不人情なことをするな」というようなことを書いた。私はそれを読んで、アロンの言うことは筋が通らないが、「大人の言葉」だと思った。「もう、その話はいいじゃないか」というアロンの言い分は政治的にはまったく正しくない。しかし、その時代を生きてきた人にしか言えない独特の迫力があった。アロン自身はユダヤ人で、自由フランス軍で戦ったのであるから、ヴィシーや対独協力者をかばう義理はない。だからこそ、彼がかつての敵について「済んだことはいいじゃないか。掘り返さなくても」と言った言葉には重みがあった。
 80年代からしばらくはヴィシー時代のフランスについてのそれまで表に出なかった歴史的資料が続々と出てきて、何冊も本が書かれた。しかし、ヴィシーの当事者たちは最後まで沈黙を守った。秘密の多くを彼らは墓場に持っていってしまった。人間は弱いものだから、自分の犯した過ちについて黙秘したことは人情としては理解できるが、結果的にヴィシーの時代にフランス人が何をしたのかが隠蔽され、歴史修正主義者が登場してくる足場を作った。戦争経験者の多くが死んだ後に、歴史修正主義者たちが現れて、平然と「アウシュヴィッツにガス室はなかった」というようなことを言い出した。そのあたりの事情は実は日本とそれほど変わらない。
 アルベール・カミュの逡巡もその適例である。カミュは地下出版の 『戦闘』の主筆としてレジスタンスの戦いを牽引した。ナチス占領下のフランスの知性的・倫理的な尊厳を保ったという点で、カミュの貢献は卓越したものだった。だから、戦後対独協力者の処刑が始まった時、カミュも当然のようにそれを支持した。彼の仲間たちがレジスタンスの戦いの中で何人も殺されたし、カミュ自身も、ゲシュタポに逮捕されたらすぐに処刑されるような危険な任務を遂行していたのである。カミュには対独協力者を許すロジックはない。しかし、筋金入りの対独協力者だったロベール・ブラジャックの助命嘆願署名を求められた時、カミュは悩んだ末に助命嘆願書に署名する。ブラジャックの非行はたしかに許し難い。けれども、もうナチスもヴィシーも倒れた。今の彼らは無力だ。彼らはもうカミュを殺すことができない。自分を殺すことができない者に権力の手を借りて報復することに自分は賛同できない。カミュはそう考えた。
 このロジックはわかり易いものではない。対独協力者の処刑を望むことの方が政治的には正しいのだ。だが、カミュはそこに「いやな感じ」を覚えた。どうして「いやな感じ」がするのか、それを理論的に語ることはできないが、「いやなものはいやだ」というのがカミュの言い分だった。
 身体的な違和感に基づいて人は政治的な判断を下すことは許されるのかというのは、のちに『反抗的人間』の主題となるが、アルベール・カミュとレイモン・アロンは期せずして、「正義が正義であり過ぎることは人間的ではない」という分かりにくい主張をなしたのである。
 レジスタンスは初期の時点では、ほんとうにわずかなフランス人しか参加していなかった。地下活動という性格上、どこで誰が何をしたのかについて詳細な文書が残っていないが、1942年時点でレジスタンスの活動家は数千人だったと言われている。それが、パリ解放の時には何十万人にも膨れ上がっていた。44年の6月に連合軍がノルマンディーに上陸して、戦争の帰趨が決してから、それまでヴィシー政府の周りにたむろしていたナショナリストたちが雪崩打つようにレジスタンスの隊列に駆け込んできたからだ。その「にわか」レジスタンたちが戦後大きな顔をして「私は祖国のためにドイツと戦った」と言い出した。そのことをカミュは苦々しい筆致で回想している。最もよく戦った者はおのれの功績を誇ることもなく、無言のまま死に、あるいは市民生活に戻っていった、と。
『ペスト』にはカミュのその屈託が書き込まれている。医師リウーとその友人のタルーはペストと戦うために「保健隊」というものを組織する。この保健隊は明らかにレジスタンスの比喩である。隊員たちは命がけのこの任務を市民としての当然の義務として、さりげなく、粛々として果たす。英雄的なことをしているという気負いはないのだ。保健隊のメンバーの一人であるグランはペストの災禍が過ぎ去ると、再び、以前と変わらない平凡な小役人としての日常生活に戻り、ペストの話も保健隊の話ももう口にしなくなる。カミュはこの凡庸な人物のうちにレジスタンス闘士の理想のかたちを見出したようだ。
 フランスにおける歴史の修正はすでに1944年から始まった。それはヴィシーの対独協力政策を支持していた人々が、ドイツの敗色が濃厚になってからレジスタンスに合流して、「愛国者」として戦後を迎えるという「経歴ロンダリング」というかたちで始まった。それを正面切って批判するということをカミュは自制した。彼自身の地下活動での功績を誇ることを自制するのと同じ節度を以て、他人の功績の詐称を咎めることも自制した。他人を「えせレジスタンス」と批判するためには、自分が「真正のレジスタンス」であることをことさらに言い立てて、彼我の差別化を図らなければならない。それはカミュの倫理観にまったくなじまないふるまいだった。ナチス占領下のフランスで、ヴィシー政府にかかわったフランス人たちがどれほど卑劣なふるまいをしたのかというようなことをことさらに言挙げすることを戦後は控えた。カミュは「大人」であったから。
 各国で歴史修正主義がそれから後に跳梁跋扈するようになったのは、一つにはこの「大人たち」の罪でもあった。彼らがおのれの功績を誇らず、他人の非行を咎めなかったことが歴史修正主義の興隆にいくぶんかは与っている。「大人」たちは、歴史的な事実をすべて詳らかにするには及ばないというふうに考えた。誇るべき過去であっても、恥ずべき過去であっても、そのすべてを開示するには及ばない。誇るべきことは自尊心というかたちで心の中にしまっておけばいいし、恥ずべき過去は一人で深く恥じ入ればいい。ことさらにあげつらって、屈辱を与えるには及ばない。「大人」たちは、勝敗の帰趨が決まったあとに、敗者をいたぶるようなことはしない。対独協力者たちを同胞として改めて迎え入れようとした。人間的にはみごとなふるまいだと思うが、実際には「大人」たちのこの雅量が歴史修正主義の温床となった。私にはそんなふうに思える。
 
 似たことが日本でもあった。それは戦中派の「大人たち」の私たち戦後世代に対する気づかいというかたちで現れた。憲法は自分たちで制定したものではない。日本国民なるものは空語であるということを彼らは知っていた。でも、自分たちに与えられた憲法は望外に「よきもの」であった。だったら、黙ってそれを受け容れたらよい。それを「日本国民が制定した」という物語に仕立て上げたいというのなら、あえて異論を立てるに及ばない。それは戦後世代の子どもたちに「親たちや先生たちがこの憲法を制定したのだ」というはなはだしい誤解を扶植することだったけれども、彼らはそのような誤解をあえて解こうとはしなかった。
 彼らのこの生々しい願いが憲法の堅牢性を担保していた。そして、その人たちが死んでいなくなってしまったとたんに、私たちの手元には、保証人を失った一片の契約書のごときものとして日本国憲法が残された。
 
 改憲派が強くて、護憲派が弱いという現実を生み出した歴史的背景はこのためだと思う。この事実がなかなか前景化しなかったのは、それが「起きなかったこと」だからだ。戦争における無数の加害事実・非人間的事実について明らかにする、憲法制定過程についてその全容を明らかにするということを怠ったという「不作為」が歴史修正主義者や改憲派が今こうして政治的勢いを有している理由なのである。「何かをしなかったこと」「何かが起きなかったこと」が原因で現実が変わった。歴史家は「起きたこと」「現実化したこと」を組み立てて、その因果関係について仮説を立てて歴史的事象を説明するのが仕事であるが、「起きなかったこと」を歴史的事象の「原因」として論じるということはふつうしない。
 でも、もし戦中派が戦争責任をきびしく追及し、彼らの加害事実を告白し、さらに憲法が勝者に「下賜」されたものであることを認めた上で「日本国民などというものは今ここには存在しない。これから創り出すのだ」と宣言した場合、戦後の日本社会はどのようなものになっていただろうか。戦中派の人たちはそのタスクの重さに、ずいぶん苦しんだだろう。そして、私たちの世代は、そのような親たちの世代に対して、嫌悪や軽蔑を感じたかも知れない。戦中派は人間はそれほどきびしい苦役に長くは耐えられないという常識的な人間理解に基づいて、「子どもたちには何も言わない」道を選んだ。
 
 護憲派はこの常識と抑制の産物である。だから、非常識と激情に弱い。
 護憲運動を1950年代や60年代と同じように進めることはもうできないと思う。当時の護憲運動の主体は戦中派だったからだ。彼らはリアルな生身を持っていた。「空語としての憲法」に自分たちの願望と子どもたちの未来を託すというはっきりした自覚を持っていた。でも、私たちは違う。私たちは「自然物としての憲法」をぼんやりと豊かに享受し、それに敬意を示すこともなくさんざん利用し尽くしたのちに、ある日「お前たちが信じているものは人工物だ」と言われて仰天している「年取った子ども」に過ぎない。
 これから私らが進めるべき護憲運動とはどういうものになるのか。これはとにかく「護憲運動の劣勢」という痛苦な現実を受け入れるところから始めるしかない。われわれの憲法は脆弱であることを認めるしかない。そして、その上で、どのような宣言であっても、憲法であっても、法律であっても、そのリアリティーは最終的に生身の人間がその実存を賭けて担保する以外にないのだと腹をくくる。憲法条文がどんなに整合的であっても、どんなに綱領的に正しいものであっても、そのことだけでは憲法というのは自立できない。正しいだけでは自存できない。絶えずその文言に自分の生身で「信用供与」をする主体の関与がなければ、どんな憲法も宣言も死文に過ぎない。
 死文に命を与えるのはわれわれの涙と血と汗である。そういう「ヴァイタルなもの」によって不断にエネルギーを備給していかなければ、憲法は生き続けられない。でも、護憲派はそういう言葉づかいでは語らない。護憲派は、憲法はそれ自体では空語だということを認めようとしない。でも、憲法に実質をあらしめようと望むなら、身銭を切って憲法に生命を吹き込まなければならない。そうしないと、憲法はいずれ枯死する。私はその危機を感じる。だから、護憲の運動にリアリティーをもたらすためには、この憲法は本質的には空語なのだということを認めなければならないと思う。戦中派はこの憲法が空語であることを知っていた。けれども、口にはしなかった。でも、知っていた。私たちは、この憲法が空語だということを知らずにきた。そして、身銭を切って、この憲法のリアリティーを債務保証してくれていた人たちがいなくなってはじめて、そのことを知らされた。
 それを認めることはつらいと思う。でも、私は認める。歴史修正主義者や改憲派がこれほど力を持つようになるまで、私はぼんやり拱手傍観していた。憲法はもっと堅牢なものだとナイーブにも信じていた。でも、改憲して、日本をもう一度戦争ができる国にしたいと思っている人がこれだけ多く存在するということは、私たちの失敗である。それを認めなければいけない。だから、もう一度戦中派の常識と抑制が始まったところまで時計の針を戻して、護憲の運動をはじめから作り直さなければならないと思う。戦中派がしたように、今度は私たちが身銭を切って憲法の「債務保証」をしなければならない。これが護憲についての私の基本的なスタンスである。