道徳の本

2021-11-18 jeudi

 みなさん、こんにちは。内田樹です。
 道徳の本を書くように頼まれました。
 何を書いたらよいのかわからないままに、「うん、いいよ」と引き受けてしまいました。ふつうは何を書くか決まっているから引き受けるんでしょうけれど、このときは何を書けばいいかわからないのに、引き受けてしまいました。書きながら考えてみようと思ったからです。
 この本はそういう本です。道徳について書かなければいけないのですけれど、何を書いていいかよくわからない。だから、「道徳について何を書いていいかわからないのはなぜか?」というところから書き始めることにします。
 どうして「何を書いていいかわからない」のか。それは「道徳」ということばの意味が僕にはよくわかっていないからです。いや、ある程度はわかっているのでしょうけれど、あくまで「ある程度」です。ちゃんとわかっているわけじゃない。だから、人に向かって「そもそも道徳とは・・・」というような説教ができる気がしない。
 でも、それって変ですよね。
 だって、「道徳」って、ごくごくふつうの、誰でも日常的に使うことばだからです。そういう「誰でも日常的に使うことば」の意味がよくわからないということがあるんでしょうか?
 あるんです。
 道徳ということばを僕も使います。まるで、その意味がよくわかっているかのような顔をして使います。
 でも、こうして改めて「道徳の本を書いてほしい」と言われると、自分がいったい道徳について何を知っているのか、どのようなことを言いたいのか、よくわからない。
 ふだんふつうに使っていることばなのに、改めて「それはほんとうのところ、どういう意味なんですか?」ときかれると、とっさには答えられない。
 きっとそれは、道徳というのがそれだけ手ごわいことばだからだと思います。
 簡単に扱うことを許さないこの「手ごわいことば」について、これから考えてみることにします。
 
 これからあと僕が書くのは、あらかじめ用意していた話ではありません。書きながら考えたことです。だから、あまりまとまっていないでしょうし、読み終わったあとに「なるほど、そうか」とすっきり気持ちがかたづくこともないと思います。
 でも、それでいいんじゃないですか。
 僕くらい長く生きてきた人間が、あらためて「道徳とは何か?」を考えたときに、うまく説明できないということそのものが、とてもたいせつな情報だと思うからです。

 世の中には、よく使われているのだけれど、実はそのことばのほんとうの意味をだれもよく知らないということばがあります。「あります」どころか、見渡すと、そんなことばばかりです。
 でも、意味についてみんなが合意していないと話が先に進まないということはありません
 たとえば「神さま」というのは、それがほんとうは何を意味することばなのか、誰も知りません。だって、誰も見たことがないんですから(「私は見た」という人がときどきいますけれど、それはちょっとわきに置いて)。そもそも「神さま」というのは「人知を超えたもの、人間の感覚や知力をもってしては感知することも理解することもできないもの」なんですから、「神さまというのは、これこれこういうものだよ」と人間に説明できるはずがない。
 でも、「神さま」ということばが何を意味するかよくわからないから、そういうことばは使ってはいけないということになるとむしろ困ったことになります(「『神さま』ということばって、何を意味するか、よくわからないですね」ということさえ言えなくなりますから)。
 だから、意味がよくわからないけれど、使う。意味がよくわからないけれど、教会に行ってお祈りしたり、お寺でお参りしたり、神社で柏手を打ったりすることが僕たちにはできます。そういうときには、自分がなにをしているのか、なんとなくわかっている。なんとなくわかっているなら、正確なことばの定義なんかできなくても、それでいいと思っている。
 僕もそれでいいと思います。なんとなくにしても、こどもの考える「神さま」と大人の考える「神さま」はたぶんずいぶん違うものです。いろいろなふしぎな経験をしたり、つらいことやたのしいことを経験したあとになると、大人たちは「神さま」について、ことばの意味はよくわからないままに、子どものころよりは深い考え方をするようになります。ひとによって「神さまはたしかにいる」と確信を深めたり、「神も仏もあるものか」とふてくされたり、さまざまですけれど、それらのことばには経験のうらづけがある。だから、深い実感がこめられる。
 意味は定義しがたいけれど、いろいろな経験を積んでくるうちに、「個人的にはこういうふうに理解することにした。私はこういう意味で使う」ということばがあります。ほかのひととそのまま共有することはできません。でも、ひとりひとりの個人が、自分自身の経験から引き出してきた「ことばの意味」はそれなりにずしりとした重さやたしかさがある。よく意味がわからないままに、使われることばというのは、たぶんそういうものではないかと僕は思います。

 道徳もそれと似ています。
 何を意味するのかよくわからないけれど、ひとりひとりなんとなく自分なりに「だいたいこういう意味かな」と思っているものがある。だから、ひとりひとりの個人的な経験によって、ことばの厚みや奥行きや手ざわりがずいぶん違ったものになる。
 もちろん、道徳にも辞書的な定義はあります。たとえば、手元の新明解国語辞典にはこうあります。
「社会生活の秩序を保つために、一人ひとりが守るべき、行為の規準」。
 なるほど、その通りですね。でも、ここにも書いてありますね、「一人ひとりが」って。一人ひとりが守ることであって、「みんないっしょに」守るべきものではない。ということは、僕たちの一人ひとりが、自分で、自分の責任で、その「行為の規準」を定めるわけで、どこかにいる誰かが僕たちに代わって定めてくれるものじゃないということになります。誰かが僕たちに代わって定めてくれる、一般的な「行為の規準」であるなら、それは「みんなで守る」べきものであって、「一人ひとりが守る」という限定は不要です。あえて「一人ひとりが」と書いてあるのは、決めるのも自分、守るのも自分、ということです。
「こういう考え方が道徳にかなっている。こういうふるまいが道徳的である」と自分で判断して、自分で行う。他人に判断してもらうことも、他人に押し付けることも、できない。
 もし、誰かが皆さんに「こういうふうにふるまうのが道徳的なのだから、そうしろ」と命令してきたら、(たとえ、その命令がなかなか正しそうに思えても)「そういうことは、やめてほしい。自分で決めるから」と言ってよい。そういうことです。
「道徳的であること」とはどういうことか。それは先ほどあげた「神さま」の場合と同じように、一人ひとりの経験の差によって、ずいぶん違ったものになります。
 こう言ってよければ、人によって、薄っぺらな道徳と厚みのある道徳がある底の薄い道徳と奥行きの深い道徳がある。手触りの冷たい道徳と手触りのやさしい道徳がある。軽い道徳とずしりと重たい道徳がある。でも、正しい道徳と間違った道徳があるわけではない
 どれもそれぞれの仕方で「正しい道徳」なのです。ただ、そこには程度の差がある。その程度の差をもたらすのは、こう言ってよければ、一人ひとりの成熟の差です。
 成熟した人の道徳は深く、厚みがあって、手触りがやさしくて、ずしりと重い。未熟な人の道徳は、そうではない。それだけのことです。そして、できることなら、成熟した人間になって、成熟した道徳にしたがって生きてゆきたい。僕はそう思います。

 具体的な事例をあげたほうがわかりやすいかもしれないですね。こんな場面を想定してみましょう。
 電車が満員で、座席がありません。そこに片手に赤ちゃんを抱いて大きな荷物をもった女の人が乗ってきました。誰か席を譲ってあげればいいのにと見回してみたら、高校生たちがおしゃべりに夢中になっていて席を譲る様子がありません。
 そこでひとりのおじさんがその高校生の一人に向かって、「この人に席を譲ってあげなさい。君は若いんだから」と言ったとします。
 そういうこと、ときどきありますよね。
 ところが、そしたら、席を譲りなさいと命じられた高校生が、きっと顔を上げて、「あなたはいま僕を指さして『立て』と言われたけれど、どうして僕が席を譲らないといけないんですか」と口をとがらせて反論してきました。
 さあ、大変です。
「高校生だって疲れ切っていて、あるいは外からは見えにくい身体的不調のせいで席を立ちたくないということだってあるでしょう。あなたは僕の健康状態について何をご存じなんですか?この車両にいる他のすべての座っている人たちの中からとりわけ僕に座る権利を放棄するように命じたことにあなたの側に何か合理的根拠があるのですか?」と反問してきました。まあ、ふつうの高校生はこんなしゃべり方をしませんけれど、話をわかりやすくするためです。
 たしかに、おじさんとしても、そう言われると困ります。電車の中で誰が席を譲るべきかについての一般的な基準なんかないからです。外から見ただけでは、誰が「立っても平気」な健康状態にあるのかなんてわかりゃしません。
 でも、言ったおじさんは、こういう場合は平均的にいちばん体力がありそうな高校生くらいが席を譲るべきだという彼なりの道徳的判断に従ってそう発言したわけです。
 それに対して高校生の方は「それは、あなたが勝手に作った、主観的なルールに過ぎない。誰でも納得できるような、一般性のあるルールによって裁定して頂きたい」という異議を申し立てた。さあ、どちらの言い分に従うべきでしょうか。
 たしかにいずれも言うことは正しいのです。おじさんも正しいし、高校生も正しい。でも、二つの「正しさ」がかみ合ってしまった。二人ともたしかに道徳的に考え、道徳的にふるまっているんです。にもかかわらず、当面の問題(「誰が子連れの女性に席を譲るか?」という問題)はまったく解決していない。むしろ、おじさんと高校生がにらみあっているせいで、車内は険悪な雰囲気になってしまった。子連れの女の人も、自分のせいでそんなことが起きたので、かえっていたたまれない気持ちになった。「もういいですから、私は立ってもぜんぜん平気ですから」とおじさんと高校生にむかって小さな声でつぶやくのですけれど、その声は頭に血がのぼったふたりには届きません。

 おじさんが「道徳的」にふるまい、高校生が「道徳的」に応じたことで、事態は誰も何もしなかったときより悪化してしまった。よくあるんです。こういうこと。せっかく人々がそれぞれのしかたで「道徳的」なふるまいをしたのに。
 それは先ほど書いたように、道徳の規準が「ひとりひとり」に委ねられているからです。しかたがないことなんです。
 道徳の規準を自分ひとりだけに限定的に適用している限りはこういうトラブルは起きません。道端に落ちている空き缶を拾うとか、同時にドアの前に立った時に「あ、お先にどうぞ」と道を譲るとか、雪の降った朝に早起きして家の前の道の雪かきをしておくとか、とか。
 こういうのは一人で「やろう」と決めたら、誰の許可も同意もなしに、できることです。そして、ささやかだけれど世の中の役に立ちます。
 でも、そういう「よいこと」でも、他人にも押し付けようとするとだいたいうまくゆかなくなります。見知らぬ他人から「おい、おまえ、そこのゴミ拾えよ。世の中、住みやすくなるから」と命令されると、「かちん」と来ますよね。
「道徳的な行い」は、自分ひとりで、黙ってやっている分には「社会秩序を保つ」役に立ちますが。でも、同じ行いでも、それを人に強制しようとすると、むしろ「社会秩序が乱れる」ことがある。なかなか難しいいものです。

 では、どうすればいいのか。
 車内ではおじさんと高校生のにらみあいがまだ続いております。そこにもう一人の人物が登場してきました。
 これまでのやりとりをじっと聞いていたひとりの紳士が席を立って「あ、私、次で降りますから。ここ、どうぞ」と女の人に席を譲ってくれたのです。いや、よかったです。みんなほっとしました。女の人も素直に「あ、そうですか、どうもありがとうございます」と空いた席に子どもを膝にのせて座ってくれました。高校生はまた居眠りに戻り、説教したおじさんは、いささかばつが悪そうですけれど、まあ「子連れの女性に座席を提供する」という本来のミッションは果たしたわけですのでそれなりに満足しました。
 よかったですね。
 でも、この席を譲ってくれた紳士は実は「次の駅で降りる」わけじゃなくて、もっと先まで行く予定だったのです。おじさんのやや高圧的な態度と高校生のきびしい反論のせいで車内がちょっと気まずくなったので、とっさに、緊張緩和のために「次で降ります」と嘘をついたのです。そして、その気づかいが他の人に知れないように、次の駅で降りて、ひと電車後のに乗ることにしたのでした。
 この紳士のふるまいもやはりとても道徳的だと僕は思います。でも、この人の道徳はさっきのおじさんや高校生の道徳とはちょっとレベルが違うように思われます。良し悪しではなく、ちょっと手ざわりが違う。微妙に深くて、微妙にやさしい。
 その第一の理由は、この紳士が自分の気づかいが他の人に知れないようにしたからです。
 ここが「深い」と僕は思います。
「私、次で降りますから」と言って席を譲った紳士が、駅のベンチに座って次の電車を待っている姿をもし車内の人から見られてしまったら、「あら、あの人はこの場をおさめようとして、自分の席を譲り、自分の時間を少し犠牲にしたんだ」とわかってしまいます。そうなると、おじさんも高校生も気恥ずかしくなりますし、譲られたお母さんもかなり申し訳ない気分になります。みんなちょっとずつ気持ちが落ち込んでしまいます。ですから、席を譲った紳士は「その気づかいが他の人に知られないように」します。他の客たちにまぎれて、いっしょに改札口に向かってみせるような細かい演技までしてみせました。そして、電車がホームを離れてから、「やれやれ」とベンチに戻って次の電車を待ったのでした。

 道徳的なふるまいにおいてたいせつなことは、「その気づかいが人に知られないようにする」ことです。でも、これはなかなかわかりにくい話なんですよね。
 ふつうは「いいこと」をしたら、それをできるだけみんなにアピールして、できることなら「おほめのことば」を頂きたいと思う。そうですよね。でも、「いいこと」をしても、黙って、そっと立ち去るということも時には必要なんです。「時には」どころか、できればあらゆる機会にそうである方が、世の中は暮らしやすくなるんじゃないかな・・・と僕は思います。

 例えば、こんな状況を考えてください(例えば、というのが何度も出てきますけれど、こういう問題は具体的な事例を想定しないと、なかなかぴんとこないんですよ)。
 ある人が村のはずれの川沿いの道を歩いていたら、堤防に小さな穴が開いていて、そこからちょろちょろと水が漏れているのを見つけました。そこで、小石を拾って、その穴に押し込んで、水を止めました。そのおかげで、しばらくして大雨が降った時に、その堤防は崩れず、村は水没をまぬかれました。
 でも、その人は自分が押し込んだ石が堤防の決壊を防いだことを知りませんし、村人たちもその人が村を救ったことを知りません。
 こういう人のことを指す英語があります。「アンサング・ヒーロー(unsung hero)」というのです。「その功績が歌に歌われて、称えられることのない英雄」という意味です。たいへんな功績をあげたのだけれど、人々はそのことを知らない(場合によっては、その人自身も自分がたいへんな功績をあげたことを知らない)。
 実際に、歴史上そういう人はたくさんいました。その人たちの目に見えない気づかいのおかげで、多くの人が、多くの街や、多くの文明が救われた。でも、その人を「英雄」として称える歌は誰も歌わない。知らないから。
 でも、これは僕の個人的な意見ですけれど、みんながその功績を知っていて、みんなに「称えられる英雄」よりも、「誰も(本人さえ)その功績を知らない英雄」の方が、ほんとうの英雄ではないかと思います。
 というのは「アンサング・ヒーロー」たちは、たぶん自分たちの英雄的行為を、なにげなく、とくに「こういうことをすれば、これこれの結果が導かれるかもしれない」というような予測もせずに、ごく日常的なふるまいとして行ったはずだからです。
 例えば、雪の降った日に、朝早起きして、雪かきをした人がいたとします。その人は一通り雪かきを終えると、家に入ってしまいました。あとから起き出して通勤通学する人たちは、なぜか自分の歩いている道だけは雪が凍っていないことにも気づかずに、すたすた歩いてゆきました。でも、この人が早起きして、雪かきしてくれなかったら、その中の誰かが滑って、転んで、骨折したりしたかもしれません。さいわいそういうことは「起こらなかった」。起こらなかったことについては、誰もそれについて感謝したり、それを称えたりはしません。でも、たしかに雪かきした人はこの世の中から、起こったかもしれない事故のリスクをすこしだけ減らしたのです。
 この人もまた「アンサング・ヒーロー」です。
「アンサング・ヒーロー」とはどういう人か、これで少しわかったと思います。それは誰かがしなければいけないことがあったら、それは自分の仕事だというふうに考える人のことです。誰かが余計な責任を引き受けたり、よけいな仕事をかたづけたりしないといけないなら、自分がやる。そういうふうにふだんから考えている人。そういう人は高い確率で「その功績を歌われることのない英雄」になります。

 誰かがしなければいけないことがある。それは誰がやるべきか。
 ふつうはそういうふうに問いを立てます。もちろん、その問いの立て方で正しいのです。少しも間違いではない。でも、そういう問いの立て方は道徳としては「浅い」ということです。
 繰り返しご注意申し上げますけれど、それは「間違い」ではないんですよ。ただ「浅い」「薄い」「軽い」というだけのことです。
 誰かがしなければならないことがあるなら、それは私の仕事だ。こういう考え方をする人はそれほど多くありません。そして、実際にそれほど多くの人がそういう考え方をする必要もないんです。30人に一人、いや50人に一人くらいの割合でそういうふうに考える「変な人」がいてくれたら、それだけで、もうこの世の中はじゅうぶんに住みやすいものになります。そういう人は、道に落ちている空き缶を拾ったり、席を譲ったり、雪かきをしたりというのは「誰の仕事でもないのだから自分の仕事だ」と思っている。それが当然だと思っている。
「だって、誰かがやらなくちゃいけないわけでしょう。だったら、『誰かがやらなくちゃいけない』と最初に気がついた人がやればいちばん効率がいいんじゃないですか?」
 こういう人は満員電車で席を譲るのと同じように、床に落ちているゴミを拾い、エレベーターで先を譲り、そして、たぶんふだんと同じような口調で「難破船から脱出する救命ボートの最後の席」を間にした時も「あ、お先にどうぞ」と言えるんじゃないかと僕は思います。
 というのは、「救命ボートの最後の席」を誰が譲るべきかなんてむずかしい問いは頭で考えて結論が出るものじゃないからです。いくら考えたって、納得のゆく結論なんか出るはずがない。こういうのは、「そういうときには『あ、どうぞ』と言うこと」がもうすっかり習慣になっていて、身体にしみついてしまって、自動的にそういうことを言ってしまう人にしかできません。たぶん本人も言ってしまった後になって、「あれ、今オレ、救命ボートの最後の席を譲っちゃったけど、それってオレが死ぬってことじゃん・・・」とちょっとびっくりしたんじゃないかと思います。そして、「でもまあ、言っちゃったことはいまさら取り消せないしなあ」と涼しく諦めたんじゃないかと思います(見て来たわけじゃないので、知りませんけれど)。
『タイタニック』という映画がありましたね。レオナルド・ディカプリオ君とケイト・ウィンスレットさんが主演した恋愛パニック映画です。それ以外にも、これまでもタイタニックの沈没を描いた映画はいくつもあります。生存者がずいぶんいましたから、沈没間際に何が起きたのかについては、かなり信頼性の高い証言が残されていて、それに基づいてそれらの映画は作られていたはずです。僕も何本か見ましたけれど、どれも沈没間際に、「お先にどうぞ」と救命ボートの席を譲った人たちが出てきました。そのほかにも、最後まで自分の持ち場を離れずに仕事をやりとげた人たち(『タイタニック』では管弦楽を演奏する音楽家たちが印象的でした)が描かれていました。「そういう人」が実際に少なからぬ数いたんだと思います。「お先にどうぞ」とふだんの勢いでつい言ってしまった人たちが。

 それでは、そろそろ「まとめ」に入りたいと思います。
 道徳的であるというのは、ひとことで言ってしまうと、「誰かが引き受けなければならない仕事があるとしたら、それは私の仕事だ」という考え方をすることです。というのが僕の意見です。
 それは別に合理的ではないし、フェアでもありません。でも、そういうふうに考える人が集団の中に何人か含まれていないと、人間は共同的に生きてゆくことはできません。これは断言します。でも、全員がそうである必要はない。何人かでいいんです。ほとんどの人は「誰かが引き受けなければならない仕事があるとして、それを誰がやるかは、みんなで相談して決めればいいんじゃないの」というふうに考えます。それでぜんぜん構わないのです。でも、そうやりかたは、場合によっては、それほど合理的ではない。
 だって、ものすごく簡単なこと、例えば、床に落ちているゴミを拾うとかいうことについて、それを誰がやるかについて、「みんな」で集まってもらって、「このゴミは誰が拾うべきか」について相談するなんて非効率すぎるでしょう。みんなに声をかけて、時間を調整して、会議室をおさえて、「誰がゴミを拾うべきか」会議を開くくらいなら、その暇にみつけた「私」がすいと拾って、ゴミ箱にぽいと放り込めばいい。
 あるいはものすごく難しいこと、さきほどの「タイタニック号の救命ボートの最後の一席」を誰が譲るかのような問題って、「みんなで相談」なんかしている暇なんかあるわけがない。即決しないといけない。そういうときは、いつもの調子で、エレベーターの入り口で先を譲るような口調で、「お先にどうぞ」とすぱっと言う人がいてくれないとどうにもならない。助かる命も助からない。
 そういうことです。
 
 最後にひとつだけ。それはどうしたらすぱっと「お先にどうぞ」って言えるようになるのかということです。どうしたら、そういう習慣が身につくようになるのか。
 それは別にむずかしいことではありません。
 ハッピーな人生を送っていればいいんです。
 これまでの人生、とっても楽しかったなあ。いいこといっぱいあったなあ。他の人よりもずいぶん恵まれた人生を送ってきたんじゃないかな。そういうふうに思えたら、どんなときも、自然に「あ、どうぞお先に」って言えると思うんです。自分はもう十分に幸福だったから、これ以上幸福であろうと願うのはちょっと欲張り過ぎかな・・・というふうに思えたら、人間は「お先にどうぞ」ということばを自然に口にすることができる。僕はそんなふうに思います。
 逆に、今の自分は不幸だ。これまでも不幸つづきだった。だから、こんなところで人に先を譲るほどの余裕はないぞ。そう思う人は決してよけいない「雪かき仕事」はしてくれません。しかたがないですよね。少しでも生き延びて、幸福になるチャンスを求めたいわけですから。自然な感情ですもの、そう思って当然です。
 だから、世の中を住みやすく、気分のいい場所にしようと思ったら、「お先にどうぞ」とすらっと言える人の数を増やせばいい。そして、「お先にどうぞ」と言える人になるためには幸福になればいい。簡単ですよね。
 ですから、道徳の本をここまでずらずらと書いてきて、最後にたどりついた結論は僕にとってはすとんと納得のゆくものでした。
 みなさんは「自分の人生はいいこといっぱいあったなあ。他の人たちよりもずっと恵まれ人生だったな」と思えるように生きてください。それが道徳にかんする僕からの唯一のアドバイスです。
 みなさんのご多幸を願っています。