小津安二郎断想(9)「問うことの暴力」

2020-08-08 samedi

『東京暮色』に付したもの。

『東京暮色』は小津作品の中で際だって暗い映画である。常連のコメディ・リリーフである須賀不二男や田中春男や高橋貞二の癖のある芝居に、他の映画では笑いをこらえられない私だが、この映画に限ってはついに一度も笑えなかった。むしろ、しばしば鳥肌が立った。
 麻雀の卓を囲みながら、明子(有馬稲子)とその恋人の性関係と明子の妊娠を一場の笑い話にするときのノンちゃん(高橋貞二)の執拗な悪ふざけは、もしかすると俳優高橋貞二の生涯最高のパフォーマンスかも知れない。
 ノンちゃんは野球解説者小西得郎の「何とお、申しま~しょうか」という独特の口ぶりを真似て、(ときどき「ポン」と地声を挟みながら)何と映画のストーリーを三分に及ぶ長台詞で説明してしまうのである。これはきわめて異例のことである。小津映画では、観客が知り得ない重要な事実を俳優が台詞で「順序立てて説明する」ということはほとんど起こらないからである。それは「説明」という行為に含まれる本質的な暴力性を小津が嫌って(というより怖れて)いたからではないかと私は思う。
 人間のほんとうの気持ちや、行動のほんとうの意味は本人にもわからない。だから「どうして?」と説明を求められても絶句する他ない。そして、そのような出口のない沈黙に人を追いやる執拗な問いかけのうちには、何かしら生命力を萎えさせる邪悪さが存在する。
『東京暮色』の劇的緊張はどれも「回答を強要するもの」と「答えられずに絶句するもの」の対面状況のうちに展開する。周吉(笠智衆)は次女明子が堕胎費用を工面して回っているときに、「そんな金、何に要るんだい」という答えることのできない問いを向ける。明子は優柔不断な恋人のケンちゃん(田浦正巳)に「じゃあ、どうすればいいよ。私いったい、どうすればいいのよ」というやはり答えることのできない問いを向ける。刑事(宮口精二)は深夜喫茶で来るはずのない恋人を待っている明子に「何してんの、こんなとこで」と答えることのできない職務質問を向ける。明子は家族を捨てて駈け落ちした奔放な母(山田五十鈴)に「ねえ、お母さん、あたしいったい誰の子よ?」と母の自己同一性の根幹を揺るがすような問いを向ける。
 これらの問いはどれも答えを求めてなされているのではない。むしろ、人を底なしの不能感に追い込むためになされている。
 人にはそれぞれ他人には言えない事情がある。触れられただけで皮膚が破れ血がにじむほど深い傷を抱えている。あえてそれを問うのは「真実の探求」に似ていて、非なるものである。
「答えられない問いを向ける人たち」の中にあって、例外的に、雀荘の主人(中村伸郎)と中華そば屋の主人(藤原釜足)だけは劇中一度も「問い」を発さない。彼らだけが他人の言葉を遮らず、疑わず、底意を探らない。ただ相手が必要とするらしい言葉(と酒)を差し出すだけである。彼らはやがて、その気づかいにふさわしい報償を得ることになるのだろうか。私にはわからない。そうであればいいとは思うが。
「問わない」という気づかいが時には必要なのはほんとうである。「問わない」人にしか自分を託せないほどに疲れ切ることが時にはあるからだ。小津安二郎はそのような人間の疲れ方をほんとうによく知っていたのだと思う。