『お早よう』に付したもの。
『お早よう』は私にとって懐かしい映画である。それが私の生まれた街を舞台にしているからである。実と勇の兄弟が登下校のために歩く多摩川の土手は、私が毎朝犬と散歩した道であり、家出した二人が手づかみで飯を食べるその階段で、私も凧揚げをし、草滑りをして遊んだ。
この街は戦前戦中軍需産業で栄え、それゆえ空襲で徹底的に破壊された。その焼け跡に戦後になって地方出身者が流れ込んだ。私の両親も、近所の人々もそうだった。だから、この街には守るべき祭りも、古老からの言い伝えも、郷土料理も、方言もなかった。
『お早よう』の住民たちもまたそれぞれの出自の徴を残したまま、偶然に導かれてここに集住している。共同体らしきものは「婦人会」しかないが、それは地域の連帯を深める上で機能しているようには見えない。男たちはときおり近所の居酒屋で出会うが、話題は弾まない。わずかな行き違いから隣家との間に深刻な対立が生じることもある。「うまく言葉が通じない人たち」が軒を接するこの住宅地では、それゆえコミュニケーションの成否が死活的に重要となる。
小津はコミュニケーションの不毛地帯で起きたいくつかの寓話的エピソードをこの映画で重ね塗りしてみせた。
印象的なエピソードを二つだけ。一つは「おならによるコミュニケーション」。善之助(竹田法一)のくぐもった放屁の音に、そのつど妻(高橋とよ)は台所で働く手を休めて「あんた、呼んだ?」と訊ねに来る。三度目の「呼んだ?」のとき、善之助は「今日亀戸の方に行くんだけれど、くず餅でも買って来るか」とささやかな謝意を以て応じる。それに対して妻は「ああ、ほんとうにいいお天気」と夫の勤労の一日への祝福を贈り返す。おそらく映画館が爆笑に包まれたであろうこの場面で、小津はコミュニケーションについての奥の深い知見を語っている。それは、「最初の一撃」が無作為のノイズであったとしても、それを自分宛てのメッセージだと思った人間が出現したとき、コミュニケーションは創始されるということである。
もう一つは「挨拶」。父親に多弁をたしなめられた実はこう言って反論する。「大人だってよけいなことを言っているじゃないか。『こんにちは』 『おはよう』『こんばんは』『いい天気ですね』・・・」
幼い合理主義者である実は、コミュニケーションの本義はメッセージを過不足なく伝えることにあると信じている。だから、「テレビが欲しい」という意思を伝えるためには「テレビが欲しい」と大声でわめき立ててみせることがもっとも合理的なふるまいだと考える。けれども、そのようなメッセージは、どれほど一義的であっても、軋轢以外の何も生み出さないことを彼は知らない。
それに反して、ひそかに惹かれ合っている平一郎(佐田啓二)と節子(久我美子)は自分たちの「心のコンテンツ」を決して口に出さない。彼らは「いつだって翻訳のことかお天気の話ばっかりして、肝心なことは一つも言わない」カップルである。映画の最後に駅で出会うときも、ふたりは相変わらずお天気の話に終始する。しかし、この美しいほど無意味なリフレインに小津安二郎は日本映画史上もっとも純度の高い愛情表現を仮託したのである。
(2020-08-08 17:38)