小津安二郎断想(7)「戦争について語らない男の話」

2020-08-08 samedi

『秋刀魚の味』に付したもの。

 小津安二郎は軍人が嫌いだった。戦争末期、参謀本部に戦意高揚映画の制作を命じられた小津はシンガポールに派遣されたが、何も撮らず、ひたすら押収したハリウッド映画を見続けたという。戦中の『父ありき』、『戸田家の兄妹』にも、小津は軍人を通行人としてさえ登場させなかった。
 逆に、戦後の作品では戦争の影が不吉な鳥のように画面の隅を横切ることがある。『長屋紳士録』や『風の中の牝鶏』のように直接的な戦争を扱ったものはむしろ例外的で、平穏な生活者たちの退屈な日常に不意に戦争の影が切り込む、という描き方を小津は選んだ。
 遺作となった『秋刀魚の味』は1962年の作品だから、敗戦からすでに17年が経過している。日本は復興を遂げ、男たちは仕立ての良い背広を着て、外車に乗り、銀座の割烹で夜ごと飽きることなく美酒を酌み交わし、娘の縁談話に興じている。けれども、娘を嫁に出したあとに一人残される老父の孤独に話題が及ぶたびに、戦争のイメージが一瞬だけ画面を横切る。
 瓢箪(東野英治郎)が老嬢(杉村春子)と暮らすみすぼらしい店は軍隊の補給基地のようなドラム缶と有刺鉄線で囲われた泥濘の路地裏にある。そこで娘を嫁がせる機会を逸した瓢箪の前に立ったとき、平山(笠智衆)は、彼の職業軍人という過去を思い出させる坂本(加東大介)に出会い、十数年忘れていた「艦長」という官名で呼ばれる。
 坂本に誘われて行ったバーで、軍艦マーチが鳴り響く中で、平山は(おそらくは戦災で)失った妻に相貌の似た女(岸田今日子)に出会い、喪失感を新たにする。
 物語の終わり近く、娘の結婚式を終えて木偶人形のように虚脱した平山はふたたびそのバーを訪れる。「今日はどちらのお帰り、お葬式ですか?」と女は平山の喪失感を狙い撃ちするような間違いを犯す。それに平山は「まあ、そんなもんだよ」と笑顔で応じる。そして、また軍艦マーチが鳴り響くと、カウンターにいた客の一人(須賀不二男)が開戦の日のアナウンサーの声色を真似て「大本営発表」とつぶやく。すると隣で飲んでいた別のサラリーマンが「帝国海軍は今暁五時三十分、南鳥島東方海上において」と続ける。それを遮って須賀不二男は「負けました」と言う。「そうです。負けました」ともう一人が応じる。二人はそのまま正面に向き直って、また見知らぬ同士のように穏やかな顔でウイスキーのグラスを啜る。この場面には何か有無を言わせぬ迫力がある。
 かつて兵士だった男たちの「戦争のとき、私は誰にも話せない経験をした」という舌のしびれと、家族が成長して立ち去り、最後にひとり残される老父の「人間は結局ひとりぼっちだ」という独白は対旋律のように絡み合っている。
 誰にも話すことのできない経験を持ってしまったことを思い出すたびに人はおのれの絶対的な孤独を思い知らされる。
 泥酔した平山が膝を叩きながら歌う「守るも攻めるも鉄の・・・か。浮かべる城ぞ頼みなる・・・か」の吐き捨てるような「か」に小津は戦争が平山のうちに残した癒されることのない底なしの孤独を託したように私には思われる。