小津安二郎断想(6)「少年の図像学」

2020-08-08 samedi

『彼岸花』に付されたもの。

 女子大の教師をしていると、学生から結婚についてよく訊ねられる。
「どういう人が夫としてふさわしいのでしょう。」
 この問いに私はいつもこう答えている。「男なんて、結婚してしまえば、みんな同じだよ。」 
 男の社会的成熟度は「社会」において(つまり男が背広を着ているときには)際だつが、家に戻って服を脱いで下着姿になってしまうと、「できる男」も「できない男」も言うことやることにさしたる差はない。結婚した後、女性が見せつけられるのは男なら誰でも違いのないところ、端的に言えば男のいちばん無防備で、幼児的な部分ばかりである。だから、「結婚してしまえば、みんな同じ」なのである。
 小津安二郎は成熟と幼児性が矛盾なく同居しているそんな男たちのありようを残酷なほどに写実的に描いた。それは「そのとき何を着ているか」によって男たちのふるまいや物言いや判断さえ変わるというかたちで映像的に示されている。
 男たちが服を脱ぐ場面を私たちは戦後小津映画のがほとんどすべてで見ることができる。玄関で帽子を脱ぎ、鞄を妻や使用人に渡し、背広を脱ぎ棄て、ポケットの中のものをちゃぶ台に落とし、ネクタイをゆるめ、ズボンとシャツを放り投げ、最後に下着だけになる。そのプロセスで男は「大人」から「幼児」に退行してゆく。仕立ての良い背広姿から、ステテコ一丁になるにつれ、男たちは感情の抑制力を失って、不機嫌になり、わがままになり、言うことが非論理的になる。『彼岸花』では平山(佐分利信)が妻(田中絹代)の前で幼児性を剥き出しにするのは、節子(有馬稲子)と谷口(佐田啓二)との結婚に「おれは反対だね」と不貞腐れるときであるが、服を脱ぐにつれ抑制を失ってゆく平山の変化を小津はほとんどコミカルに描いている。
 一方、平山が長者の風を示すのは、結婚式で鮮やかなスピーチをするモーニング姿のときと、親友の娘(久我美子)に人の道を説くときである(このときは室内であるにもかかわらず帽子まで着用している)。
 フォーマルウェアでは大人、下着姿になると子どもという平山には、だがその「中間」状態が存在する。幸子(山本富士子)を日曜の自宅宅にノーネクタイのカーディガン姿で迎えるとき、クラブハウスでゴルフウェアの親友河合(中村伸郎)と娘の縁談についての打ち合わせをするとき、中学の同級生(笠智衆)らと浴衣姿で「青葉茂れる桜井の」を歌うとき、平山は「大人」と「幼児」の中間、つまり「少年」のポジションにいる。「少年」であるときの男の特徴は「はにかみ」と「とまどい」と「率直」である。大人と幼児の中間状態にあるとき、男たちは奇跡的にその性格のいちばん良質な部分を垣間見せる。小津は男たちの幼児性に対しては残酷なほど写実的だったが、男たちの少年性については、これを少しだけ浪漫的に脚色した。
 映画のラストで平山は長女夫妻と和解を決意する。そのとき裾の詰まった「旅館の浴衣」を着せられている平山は、原っぱで泥んこになって遊んでいた彼の少年時代のシルエットを一瞬再現しているかのようである。