『早春』に付したもの。
小津安二郎は勤め人の経験がなかった。だからサラリーマン生活は小津にとっては一種の「ファンタジー」だった。背広を着て、満員電車に詰め込まれ、日々オフィスに通うサラリーマンが何のためにそんなことをしているのか、小津にはうまく想像できなかった。小津の描くオフィスが妙に非現実的なのはそのせいである。
どの映画でも、男たちは一列に並んで書類をめくり、女たちは一列に並んでタイプを打つ(ときどき鉛筆やペンで線を引く)。それだけである。たまに重役に書類を届けるだけで、説明も相談もしない。会議もしないし、営業もしない。実際、小津にはそう見えていたのだろう。
けれども敗戦から10年が経ち、日本人のほとんどが会社勤めになる時代が来た。彼らをいつまでも空疎な記号、命のない操り人形のままにしておくことはできない。誰かがサラリーマンを祝福し、彼らを「受肉」させなければならない。『早春』は小津安二郎が(ゼペット爺さんがピノキオにそうしたように)「9時から5時までのサラリーマン」を生身の人間に改鋳する試みだった(それはその6年後に『ニッポン無責任時代』で植木等が生身のサラリーマンをマンガ的にキャラクター化してみせたのとみごとな対をなしている)。
小津は杉山夫婦にきわだって身体性の希薄な俳優二人をキャスティングした。彼らはまるで水墨画で描かれた人物のように端正で透明だ。杉山(池部良)は真夏の一日の労働の後でも、汗もかかず、髪の乱れもない。外泊した翌日もワイシャツは皺がなく、無精髭も生えていない。昌子(淡島千景)はまっすぐ背を伸ばしたまま眠り、寝間着を訪問着のように隙なく着付けている。彼らがなけなしの身体性をあらわにするのは「食事をする」という行為においてのみである。だが、夫婦が食卓を囲む場面は映画の中にはない。杉山が「食べる」という行為に接近できるのは金魚(岸恵子)がいるときだけである。ところが、その二人はなかなか食物を摂取することができない。弁当をいつ食べればいいのかわからないハイキングでも、壁に向かってまずそうに中華饅頭をちぎる昼休みでも、焼け過ぎたお好み焼きをへらでいじりまわす不倫の夜でも、うどんパーティの「査問」の席でも、送別会のときでも、いつも何かが彼らの嚥下を妨害する。
杉山と金魚との間で繰り返される「食べようとするが、飲み下せない」がエロス的な表象であることは明らかだ。だとすれば、杉山が妻に向ける「おい、飯」という呼びかけだけがあって、いつまでも始まらない食事は長男の死のあと、夫婦の間で性的な交渉が久しく絶えていることを暗示している。たぶん、この夫婦は自分が身体をもつことそれ自体に身体的な嫌悪を感じていたのである(矛盾した話だが)。
映画は夫婦がそれぞれのかたくな自己防御を解除し、身体を持つこと、「受肉」を決意するところで終わる。再生を誓った杉山と昌子が窓から並んで汽車を見送るラストでの二人は最初に比べると、少しだけ陰翳が濃くなり、体温が上がり、言葉の響きが深くなっているように見える。それは小津安二郎から彼らへの贈り物である。
(2020-08-08 17:43)