サコ先生のこと

2020-07-20 lundi

 京都精華大学の学長(ということは私のボス)であるウスビ・サコ先生の『サコ学長、日本を語る』という本が朝日新聞出版から出た。頼まれて解説を書いた。以下に採録する。

 サコ先生のことを思いつくままに書いていたら、依頼された字数の二倍以上になってしまいました。だから、「なれそめ」とかその他のエピソードは全部省略。日本ではじめてアフリカ人・ムスリムの学長が誕生したことの教育史的意義についても、他の方がどこかできちんと書いてくれると思うので、それも割愛。「サコ先生はどうして日本で大学の先生になる気になったのか?」という問いだけに絞って書きます。
 
 僕はこれまで日本で暮らす外国人とたくさん会ってきましたけれど、サコ先生ほどナチュラルに日本語を話す人には会ったことがありません。大学教員の欧米人の中にはときどきば「意地でも日本語を話さない」という人がいますから、ほんとうに例外的です。どうしてなんでしょう?
 もちろん、サコ先生が語学の天才だということが第一の理由だと思います。なにしろ、一年間中国語をマスターして大学に入り、一年間で日本語をマスターして大学院に入った人なんですから。
 でも、それだけじゃないと思います。それだけでは、あんなにうまくならない。サコ先生には日本社会と日本文化を深く理解したいという思いがあったからだと思います。
「目標文化」と「目標言語」という言い方をしますけれど、ある外国語を学習するときのインセンティヴはふつうはその言語を用いる人々に対する関心です。サコ先生があるときに日本人と日本文化を理解したいという強い探求心に衝き動かされた。それは間違いないと思います。でも、どういうきっかけだったのでしょう?
 たぶん第一の理由は「日本人女性が好きになったから」だと思います(この本にはそうは書いてないけど、たぶん)。でも、それだけでは、その国の大学の学長になるほどまで深く社会に根を下ろすようなことはふつうありません。では、それ以外の理由というのは何だったのでしょう?
 中国留学中のサコ先生は「私にとって、『日本』は謎の存在だった」(45頁)と書いています。日本人留学生たちの「電化製品をいっぱい持っていて、いつもレトルトカレーを食べている」生活態度から「とにかく人工的に作られたものを好んで使っている日本人。きっと、合理的、機能的に作られた工業製品に囲まれて暮らしているのだろう」と思った。とくに好意的な記述ではないですね。でも、1990年の夏に日本を訪れて、サコ先生の日本の印象は一変します。
 パッチ穿いて「だらしなく過ごしている」お父さんや、ビール飲みながら「わけのわからんテレビ」を見て大笑いしているお母さんを見て、サコ先生は「いいな」と思います。

「パターン多いやん。面白い。
日本にもこういう明るい社会があり、社会性や地域性やコミュニティ感覚があって、人懐っこい人間たちがいる事実を、初めて確認した。」(47頁)

 サコ先生において「日本で暮らしてみたい」と言う欲望が起動したのはこの時でした。サコ先生の関心を日本に向けたのはまさにこの「面白さ」でした。そして、サコ先生をわくわくさせた「面白さ」は「だらしなさ」と「わけのわからなさ」でした。僕はここにサコ先生の真骨頂があるように思います。日本の魅力を語るときに、「だらしなくて」「わけがわかんない」ことを挙げた人は僕の知る限りサコ先生が初めてですから。
 教育を論じた章でも、サコ先生は「だらだらすること」のたいせつさを語っています。

「学校以外の、誰にも制約されない時間やだらだらした時間を使って考え、遊びや家庭での経験とシンクロさせて自分の中に落とし込んでいく、というプロセスも必要だ。個性は、そうやって伸ばしていくものであり、余暇の時間をしっかり使うということによってしか、自分自身は成長しないのではないか。」(140頁)

 教科以外のことにも子どもは関心を持った方がいいということは誰でも言います。けれども、それを「だらだらした時間」とは言いません。もう少し微温的な言葉づかいをする。特に胸を衝かれたのは、次の箇所です。ちょっと長いけど、サコ先生が珍しく怒っているので全文引用します。

「趣味といったら、まるで専門家のような勢いになるので、ビックリする。
『映画を見るのが趣味で』と言ったときには、映画オタクが近づいてきて、○○監督のあの作品のこのアングルが、取り方が・・・って、うんちくを垂れてくる。
 なんやねん! 知らんわ!
 コスプレーヤーのことをあまり知らずに軽い発言をしたときには、研究室に来た学生に、コスプレについて延々二時間教えられた。コスプレーヤーがいかにキャラクターに対する知識とリスペクトを持っているか、ということをご丁寧に教示してくれるのだ。
『あ、そうなんや。服着て遊んでるんとちゃうんか』というと、服を手作りしていること、それにかける時間とキャラクターとのコミュニケーションの重要性、思いを寄せ合っているんだとか、ものすごく細かく聞かされた。
『え、この子、どこでリラックスするの?』
 と、正直そんな気持ちにもなる。」(163-4頁)

 日本の学校教育には多くの欠点があります。僕もそれについてたくさん書いてきました。でも、サコ先生のように、子どもたちが十分に「だらだらしていないこと」にこれほど驚き、また悲しんでいる論者を僕は他に知りません。「もっと勉強しろ」という先生はいくらもいますが、「もっとだらだらしろ」と本気で怒る先生は稀有です。
 映画オタクも、コスプレーヤーも、別に社会的に特に有用な存在だとみなされているわけではありません。彼ら自身、自分たちが周縁的な、不要不急の文化活動にかかわっていることはよく自覚しているはずです。でも、それでも、あるいはそれゆえにこそ、彼らは自分たちの「こだわり」の領域について、ものすごく真面目に、トリヴィアクイズ的情報と深い技術知を身につけようとする。そして、そのことはその領域では高く評価される。
 それとは逆に、あれこれの分野について、ちょっとだけ興味があり、ちょっとだけ知っているという人は、日本社会では「半可通」とか「半ちく野郎」とか「ニワカ」とか呼ばれて、軽侮され、しばしば罵倒の対象にさえなります。だらだら映画を見たり、遊び半分に服着たりするのはダメなんです。ちゃんとしたプリンシプルがあって、深い理論的裏付けがあって、献身的にやらないとダメなんです。教科以外のものに対しても、やる以上は生真面目に、徹底的に、偏執的に関心を向けなければいけない。  中途半端に関心を持つくらいなら関心を持たない方がましだ。
 もしかしたら、多くの日本人はそう思っているんじゃないでしょうか。とりあえず親とか先生とかにそう断言されたれら、勢いに負けて、「あ、そうなんだ」と頷いてしまう人はかなり多いんじゃないかと思います。
 でも、ちょっと待ってくださいね。そんなことに簡単に頷いちゃっていいんですか? ほんとにそんなこと認めていいんですか? 中途半端な関心を持つくらいなら関心を持たない方がいい。よく知らないことについては口を出さない方がいいって、ほんとうに世界共通の真理なんですか?  とりあえず、サコ先生は「違う」と思っています。
 サコ先生の眼には、この信憑こそが日本人に取り憑いた一種の民族誌的奇習に見えている。 
サコ先生から僕はそのことを教えられました。
 実は、前から「なんか変だな」とは思っていたんです。僕自身がそういう人間だからです。いろいろなことにちょっとずつ興味がある。でも、ある一つのことを「とことん極める」ということができない。「この分野については誰にも負けない」というような気の張り方がどうしてもできない。ちょっとだけ興味があることに首を突っ込んで、ちょっとだけつまみ食いして、それぞれの場所で思いつき的なことを言って、専門家に嫌な顔をされる・・・僕はそういうことをこれまでずっとやってきました。そういう性分なんだから仕方がない。でも、そういう生き方を「良い」と言ってくれた人にこれまで一度も会ったことがなかった。だから、サコ先生の「なんやねん! 知らんわ!」で膝を打ってしまった。
 サコ先生、そうですよね! そんな一生懸命やって、いつリラックスするんだよって。ほんとうにサコ先生の言われる通りなんです。

 以前、学会に顔を出していた頃に、発表者に対してフロアーからなされる意地の悪い質問の定型として「あなたは・・・を読んだか」というものがありました。発表者が正直に「読んでません」と答えると、勝ち誇ったように「・・・を読んでもいない人間が、この論件で学会発表とはおこがましい」と切って捨てる。その「・・・」なるものが、この論件を扱うすべての研究者にとって必読である所以については何の挙証もせず、ただ「こんなことも知らない人間には語る資格がない」と一方的に宣告する。
 横で聴きながら、こうやって研究者であるためのハードルをどんどん高くして、「ちょっと興味がある」程度の若い人がこの分野に参入するのを妨害することで、この人たちはいかなる「よきもの」を創り出そうとしているんだろうと思いました。でも、その時には「そういうものか」と思って、黙っていました。そのうちに、こういうやり方にすっかりうんざりして、ほとんどの学会を辞めてしまいました(唯一の例外は日本ユダヤ学会で、この学会は「ユダヤ」と名がつけばどんな研究してもいいし、研究成果についてうるさい査定をしないというたいへん気楽な学会でした)。
 でも、そういうのは学会だけじゃない。先ほどの映画やコスプレみたいなサブカルチャーでも同じです。スポーツもそうです。
「ニワカ」というのは、サッカーやラグビーのワールドカップとかそういう祝祭的イベントがあると急に選手名やルールに詳しくなる人のことです。そういう人を「昔からのファン」が罵って、「お前たちにはボールゲームについて語る資格などない」と言って口を噤ませようとする。音楽でもそう。無名でライブハウスに客が数人しか集まらなかった頃からの古手のファンは、メジャーデビューしてから後についたファンを見下して、「何にもわかってないくせに」と冷たい目をする。
 こういう態度があまりにもすべての領域で起きているので、つい無感覚になってしまって、「人間、世界中どこでもそういうものでしょ?」と思っていましたけれど、違うらしい。どうやらこれは日本の「風土病」らしい。  いや、わかりません。別に網羅的にデータを取ったわけじゃないんですから。でも、サコ先生が日本の教育について一番気にしているのは「このこと」なんです。だということは、これはよその国ではなかなか見ることのない現象だということです。

 社会的有用性だけを基準にして子どもたちを格付けすることの弊は僕にもよくわかります。生産性とか実用性とかうるさく言わないで欲しいと僕も思います。でも、わが国では、社会的有用性のなさそうな領域においてさえ、うるさく専門知の格付けがなされる。ごくマイナーな領域においても、厳密な格付けがなされ、下位者にことさらに屈辱感を与え、発言権を与えないということが行われている。そのことを誰も「おかしい」と思っていないらしい。
 日本の学生たちにインタビューしたアメリカの雑誌Foreign Affairs Magazineの何年か前の記事に、学生たちが自分たちの大学生活の印象をどう語っているか取材したものがありました。彼らは自分たちの大学生活を三つの形容詞で表現していました。それはtrapped, stuck, suffocating でした(あまりにインパクトがあったので、メモしておいたのです)。「狭いところに閉じ込められて」「身動きできなくて」「息ができない」。これが現代日本の学生たちの身体実感なんです。気の毒だとは思いますけれど、もしかして学生さんたち、自分から進んで「狭いところ」に嵌り込んで、自分で自分を縛り上げて、自分で自分の息を詰めているんじゃないんですか?

 サコ先生の言う「だらだら」というのは、「査定されたくない」「格付けされたくない」「意味づけされたくない」という積極的な志向のことなんじゃないかと僕は解します。そして、サコ先生の語彙だと、それがたぶん「自由」ということなんだと思う。
次の引用もサコ先生の怒り爆発の箇所です。

「自由を実現するために必要なことを問うと、こんな答えが返ってくる。
『スクールバスの本数を増やしてほしい』
『休憩を増やしてほしい』
『授業を減らしてほしい』
 何もかもが『ほしい』なのである。
 どうやら、『他者が、誰かが自分に自由を与えてくれる』と、学生たちは誤解しているようだ。(...)
『誰か私を自由にして』って、なんでやねん!」(127-8頁)

 出ました、「なんでやねん!」 
 スクールバスの本数も休憩時間の長さも授業数もすべて数値的に考量できるものです。おそらく学生たちは自由というものさえ数値的に測れるものだと思っている。誰かが与えたり、奪ったりできるものだと思っている。だとしたら、これはたしかに病的です。
 自由であるというのは、簡単に言ってしまうと、広々としたところにいて、可動域が広くて、選択肢がたくさんあって、深く息ができることです。身体感覚的にはそういうことです。狭いところにいて、選択肢がなくて、息が詰まっているけれど、「自由です」というようなことはあり得ない。
 でも、たぶん学生たちは自由にも外形的な条件があると思っている。「授業もバイトもない時間」とか「好きに使える金」とか「顎で使える友人」とか「なんでも言うことを聞く恋人」とか・・・。これらの項目で高いスコアをとれた人は「自由」で、スコアの低い人は「不自由」だと思っているんじゃないかな。
 違いますよ。
 数値的に査定されるというのはそれ自体が「狭いところに閉じ込められる」ということなんですよ。他人が持ち込んできたできあいの「ものさし」で計られて、格付けされて、「お前のポジションはここだから、ここから出るな」と命じられて「はい」と答えることなんですよ。「査定されること」と「自由であること」は絶対に両立しません。  もちろん、現実の社会では、いかなる査定も拒否して生きるというようなことはできません。完全な自由はあり得ない。それくらいのことは僕だってわかります。でも、「査定されること」と「自由であること」の間には鋭い緊張関係があるということくらいは、大学生になったら自覚してもいいと思います。  つい興奮して力説してしまいましたが、サコ先生の「自由論」を読んで、いろいろなことが脳裏に渦巻いてしまったのでした。

 しまった。気がついたら、結局与えられた紙数を大幅に超えてしまいました。もう筆を止めます。
 サコ先生、これからも日本の大学と日本の若者のために、ときどき「なんやねん!」と雷を落としてください。お願いします。

2020年6月
内田樹