映画「ハナレイベイ」評

2020-07-11 samedi

映画『ハナレイ・ベイ』のためにコメントを頼まれた。2018年9月に書いたもの。

 村上春樹はエッセイの中で繰り返し「僕はオカルト的な事象には関心をほとんど持たない人間である」と書いている。「東京奇譚集」のまえがきにもこう書いている。
「まったく信じないというのではない。その手のことがあったってべつにかまわないとさえ思っている。しかしそれにもかかわらず、少なからざる数の不可思議な現象が僕のささやかな人生のところどころに彩りを添えることになる。」
 「あって当たり前」のことだから、村上春樹の小説にはきわめて頻繁に幽霊が出て来る。でも、それは村上春樹的には、人生に彩りを添えるけれど、いささか呑み込みにくい「現実」に過ぎないのだ。
 河合隼雄との対談の時に、村上春樹は『源氏物語』に出て来るさまざまな超現実的な現象(六条御息所の怨霊など)について、それは「現実の一部として存在したものなんでしょうかね」と質問した。河合はその質問にあっさりと「あれはもう、全部あったことだと思いますね」と回答している。(『村上春樹、河合隼雄に会いにいく』)
 河合のこの断定は村上春樹の背中を押した一言になったと思う。現に、この対談以後の村上春樹の作品では「超現実的な現象」があきらかに『源氏物語』の(より直接的には上田秋成の『雨月物語』の)「彩り」を色濃く帯びて、物語の前面に登場するようになったからである。
『ハナレイ・ベイ』を含む『東京奇譚集』は「村上春樹版『雨月物語』」として読むことが可能だろうと私は思っている。『ハナレイ・ベイ』にはだから幽霊が出て来る。ただし、この幽霊は『雨月物語』の死霊生霊たちとはずいぶん相貌を異にしている。
 彼はとくに現世に強い執着を残してもいないし、誰かにぜひ伝えたいメッセージがあるわけでもない。彼が好きな場所で、彼が好きなことをしている最中に、彼がひそかな敬意を抱いていた野生の力によって、「自然の循環の中に戻っていった」のである。おそらくそれほど苦しむこともなかったのだろう。「死に際して特に言うべきこともない」死というものがあるとすれば、そういう死だった。
 この「執着の薄さ」が生き残った者を微妙に苛立たせる。それがこの物語の「主題」と言えば、主題である。メッセージを遺さずに死んだ人に対する生き残った者の当惑
「もっと生きたかった」と言われたら、生き残った者は「あなたの分まで生きよう」と決意する。「どうしてもしたいことがあった」と言われたら、「自分が代わってかなえよう」と思うかも知れない。でも、「憾みを遺さず」に死なれてしまうと、生き残った者はどうしてよいかわからない。何をしてあげたら、何を告げることができたら、死者の「供養」になるのか、それがわからない。
 10年ハナレイ・ベイに通ったあと、ついに現れた幽霊は母親の眼には見えず、母親のかたわらに立っていながら、母親をではなく、波を見ている。「特にあなたにして欲しいこともないし、特にあなたに言いたいこともない」というのが10年間息子の死に場所に通い続けて「供養」してきた母親への、死者からのメッセージだった。ある意味でこれほど残酷なことはない。
 三島由紀夫の『豊饒の海』の最後の場面で、門跡に松枝清顕の記憶を否定された本田繁邦は「記憶もなければ何もないところへ、自分は来てしまった」という痛ましい覚醒をする。「憾みを遺した幽霊」はどれほど恨みがましい現れ方をしても、少なくとも生き残った人間の「私は生きている」という自覚だけは保証してくれる。でも、「憾みを遺さない幽霊」は生き残った人間に何も残さない。生きている自覚さえ与えてくれない。
『ハナレイ・ベイ』はその都会的で軽妙な外見とはうらはらに、とても残酷な、幽霊についての物語である。