20世紀の倫理-ニーチェ、オルテガ、カミュ

2020-03-02 lundi

『ペスト』がいきなり売れ出したということで、集英社の伊藤さんからカミュ論の旧稿をウェブに上げたいという提案を頂いたけれど、これがとてもそのままではお目にかけられるようなクオリティではない。その時にHDの筐底から「こんなもの」が出て来た。たぶん1995年くらいに大学のリレー講義の一部で、「20世紀の倫理」というのを3回くらい担当したことがあって、その時に作ったノートである。そのあと大学の紀要に載せたのだけれど、単行本には採録されていないと思う。カミュ論の部分はのちに改稿して『ためらいの倫理学』という論文になって、同名の論集に収録されている。前半の「倫理についての思想史的概説」は学生向けに書いたので、たいへんにわかりやすい。

                              

1・倫理なき時代の倫理

 神戸の小学生殺人事件のあと、あるトーク番組で「なぜ人を殺してはいけないんですか?」と発言した中学生がいて、物議をかもしたことがあった。おそらく、彼はそのときまで、その問いに対して納得のゆく答えをしてくれる大人に出会ったことがなかったのだろう。それだけ、この問いは「ラディカル」な問いかけだということである。その場に私たちが居合わせたとしても、限られた時間のうちに彼を説得できたかどうかは分からない。たぶんできなかっただろうと思う。
 しかし、この問いは立てられて当然の問いであると私たちは思う。思春期の少年がこの問いを立てることは、精神の成長にとってはしごく健全なことである。むろん、この問いに容易には答えが出せない。自分自身の責任において、暫定的な解答を絞り出してゆくほかない。自力でその答えを出すことが私たちの社会においては一種の「通過儀礼」に相当すると私は考えている。
 「なぜ人を殺してはいけないのか?」経験的に言って、この問いに対するとりあえず穏当な回答は「そういうふうに決まっているから」というものである。
 人間社会は、私たちが平和的に共存してゆけるようにさまざまな制度を整えている。言語や親族制度や貨幣はそのためにつくられた装置である。それがどういう「起源」に由来するのかは仮説でしか答えられない。なぜ人間は分節音声を言語として使うのか? なぜ人間は集団を作るのか? なぜ人間は「もの」を交換するのか? こういった問いには「そういうふうに決まっている」という以外に答えようがない。説明できないことについては説明しないのが大人の態度である。
 だからといって、この中学生の問いかけを「そんな問いを立てること自体が不道徳である」と圧殺することには私は反対である。それは「倫理とは何か?」という問いかけに対して「そのような問いかけは倫理的ではない」と答えるのに似たナンセンスである。というのも「なぜ人を殺してはいけないのか?」というのは、おそらくもっとも根源的な倫理の問いだからである。 
 議論を先に進める前に、まず「倫理」という術語の語義を確定しておきたいと思う。倫理とは「これをしなさい、あれをしてはいけない」という善悪の項目を列挙した「カタログ」のことではない。倫理とは、そのような「カタログ」を「そのつど決定するプロセスそのもの」のことである。文法用語を借りれば、成文化された道徳律が「決定されたこと」であるとすれば、倫理とは「決定する」の動詞形である。例えば、「人を殺してはいけない」という準則そのものは倫理ではない(それは倫理に媒介されて事後的に定律されたものである。)「なぜ人を殺してはいけないのか」と自らに問うこと、そのような思考の運動をこの論考では「倫理」と呼ぶことにする。
 私たちは重大な決定を前にして、たいていの場合、ためらい、迷う。なぜなら「なすべきこと、なしてはならないことの網羅的なカタログの決定版」が私たちには与えられていないからである。数学では、あることを真実であると証明するためには、それより上位の、より包括的な真実(「公理」と呼ばれる)による根拠づけが求められる。しかし、善悪、正邪、理非の判断については、万人に普遍的に妥当する「公理」のようなものはない。
 かつては「至高者」が君臨して、すべてを覆い尽くす「聖なる天蓋」を形成していた時代があった。行動の規範は「神」から私たちに絶対的命令すなわち「啓示」というかたちで与えられた。アブラハムはエホバの声を聞き、釈迦は菩提樹の下で成道を遂げ、マホメットはヒラー山の洞窟でアッラーの啓示を受けた。彼らが了解した「最初の言葉」は絶対的な真実であり、人知による懐疑の余地を残さない。この「啓示」という前提を受け容れるならば、人間の遭遇しうるすべてのケースを予測して、「なすべきこと」と「なしてはならないこと」の網羅的なカタログを作成することは、理論的には可能である。
 ユダヤ教の場合、行動規範は「・・・すべし」248条、「・・・すべからず」365条、計613条の網羅的戒律によって「カタログ化」されている。もちろんいくら古代とはいえ、613の条項で、あらゆるケースを網羅できるはずはないから、戒律だけからは判定しかねる係争が起きれば、ラビたちはどのような条文解釈によって決着をつける鳩首協議した。
カトリック教会には、「決疑論」の専門家がいて、複数の行動規範のあいだに矛盾がある場合の決定について議論を重ねた。(「名誉を守るために決闘に応じるべきか、殺してはならないという戒律に従うべきか」といったアポリアについては、神学者が考えてくれたのである。)しかし、そのような解釈学が可能であるのも、「啓示」という、真実性の最終的な保証があればこそである。
 時代や場所が変われば、人間は次々とあたらしい難問に遭遇する。道徳が網羅的なものであろうとすれば、「カタログ」は絶えず増補改訂されなければならない。その作業は容易ではない。しかし、「啓示」が根本にある限り、信仰が集団成員の全体に共有されている限り、「あらゆる場面を想定した行動規範についての網羅的なカタログ」を作るというアイディアは、理論的には可能だったのである。
 だから「神」が生きている時代には「なぜ人を殺してはいけないのか?」という問いは発せられることはなかった。十戒には、はっきりと「あなたは殺してはならない」と定めてあるし、仏教でも五戒(殺生、偸盗、邪淫、妄語、飲酒)の筆頭に殺人の禁止は挙げられている。しかし、私たちが生きている時代では、「啓示」や「戒律」をもってこの問いに答えることはほとんど説得力をもたないだろう。
 私たちの時代は「なすべきこと・なしてはならないこと」のカタログが存在しない時代である。けれども、それは倫理が不可能になったという意味ではない。神なき時代、戒律なき時代にあっても、私たちが具体的な決断の場に立ち会うたびに、そのつど善悪、正邪、理非を決せざるをえないという事実に変わりはないからだ。つまり私たちは仕事をふやしてしまったということである。
 とはいえ、網羅的なカタログがあった時代に、必ずしもすべての人間たちが道徳的ではなかったのと同じく、カタログがない時代でも、必ずしもすべての人間が野蛮であるわけではない。現代において、倫理とはかたちある規範ではなく、そのようなかたちある規範を希求する激しい欲求、あるいは「規範をつくり出さなくてはすまされない」という痛切な責務の感覚といった運動的なかたちをとって息づいている。その感覚が痛切なものであるかぎり、この「倫理なき時代」を「すぐれて倫理的な時代」へと鋳直してゆくことはつねに可能であると私たちは考える。
 私たちはさきに現代における倫理とは「決定する」の動詞形であると書いた。同じことをアルベール・カミュは次のように言い表している。
「私の興味はいかに行動すべきかを知ることにある。より厳密に言えば、神も理性も信じないときにひとはいかにして行動しうるのかを知ることにある。」(1)  
 以下の論考では、おもにヨーロッパにおける倫理の変遷をたどりながら、現代における倫理問題の緊急な主題である「なぜ人を殺してはいけないのか?」という問いにひとつの回答を試みたいと思う。

2・啓示はいつその効力を失ったのか?
 神の戒律がその効力を決定的な仕方で失ったがいつのことか、それは思想史にはっきり刻まれている。神の死を確認したのはフリードリヒ・ニーチェであり、それは1882年のことである。
 神は自然死したわけではない。殺されたのである。人間たちが「神」という倫理の根拠を抹殺したのである。しかし、その過激な言葉ゆえに多くの人に誤解されているのとはうらはらに、その死亡宣告は、まったく無秩序な世界を作りだし、世界を混沌のうちにたたき込もうという悪意によってなされたわけではない。ニーチェは神とは別の、神よりもっと堅固な基盤の上に倫理を根付かせようとしてそうしたのである。
「神は死んだ。」中世以来、ヨーロッパの文明を、ヨーロッパの人々の世界観、その日常の判断と経験のありかたを決定的な仕方で規定してきたキリスト教が、その支配的な影響力を失ったこと。これが現代世界の決定的な初期条件である。
「おれたちが神を殺したのだ-お前とおれがだ!おれたちはみな神の殺害者なのだ!」
 ニーチェの文章はそのあとこう続く。
「世界がこれまでに所有した最も神聖にして強力なもの、それがおれたちの刃で血まみれになって死んだのだ。おれたちが浴びたこの血を誰が拭いとってくれるのだ?どんな水でおれたちは体を洗い浄めたらいいのだ?どんな贖罪の式典を、どんな聖なる奏楽を、おれたちは案出しなければならなくなるのだろうか?こうした所業の偉大さは、おれたちの手に余るものではないのか?それをやれるだけの資格があるとされるには、おれたち自身が神々とならねばならないのではないか?」(2)
 単に「神は死んだ」のではない。「私たちが神を殺した」のであり、それは単なる無神論に落ち込むためではなく、「私たち自身が神となり」、「これまでのいかなる歴史もなしとげなかったような偉大な歴史」を構築するために必要だからだとニーチェは考えた。
 ニーチェの主張はふたつの命題にまとめられる。
ひとつは、「超越者」が否定され、空席になった「神」に代わるものとして「人間」(ニーチェは「超人」と呼ぶ)が置かれなければならないということ。ひとつは、神から下された「戒律」を祖型とする古典的な「当為」はすべて否定され、「超人」が体現する「悦ばしき知識」が人間の行動を律する新しい基準とならなければならないということ、これである。
「超人」とは何か?「悦ばしき知識」とは何か? この問いについて考えるためには、少し思想史を遡ってみる必用がある。
 
3・人間中心主義の流れ-ラブレー、モリエール、ラ・ロシュフーコー公爵

 この「反キリスト教=人間主義的」的な考え方はニーチェの創見ではない。中世以来、多くの思想家は、ときには暴力的な弾圧や迫害に耐えて、なお神の命じる道徳のうちよりも、それが抑圧しようとしている「人間の本能」の方に「善」を見出そうとしてきた。
 その代表的な思想家のひとり、フランソワ・ラブレー(1490?-1553) は『ガルガンチュア物語』(Gargantua, 1534)の中、彼が創造した理想の共同体である「テレームの僧院」にただ一つの戒律しか与えなかった。それは「汝自身の欲するところを為せ」(Fais ce que voudras.)である。
 ラブレーの陽気な世界観によれば、世界は善であり、人間は善であり、世界と人間はその本性の赴くままに行動するときにはじめて善き目的へと向かうことができる。自然に発生する生命の奔出こそが善であり、その生命ののびやかな流れをたわめたり、阻害したり、抑えつけるもの、それが「悪」である。ラブレーは「よきものとしての自然」(Physis)と「悪しきものとしての反自然」(Antiphysie)という単純な二項対立のうちに、世界のすべての矛盾を流し込んだ。
 ラブレーやモンテーニュ(1533-92)によって代表される人間中心主義思想は、モリエール(1622-1673)やラ・ロシュフーコー公爵(1613-1680)に受け継がれる。けれども17世紀の歴史的経験はこの自然礼賛の思想のうちに少し苦い味わいを加えた。すれっからしの近代人は人間の「本来的な善性」なる観念をラブレーのように手ばなしでは信じることができない。彼らは善なる人間本性と悪しき制約としての「道徳」という二項対立を信じるには、あまりにも人間の邪悪さを知りすぎたからだ。人間はもう少し屈折した手順を踏んで道徳とかかわっている、という新たな知見が登場する。
 彼らはこう考えた。道徳は利己的な欲望達成のために功利的に活用されている道具にすぎない。自己犠牲とか誠実とか無私とか呼ばれる「道徳的行動」は、それ自体が価値であるから実践されるべきなのではなく、実はそのような「非利己的行動」を迂回して、利己心に奉仕しているから価値があるとされるのだ。これが17世紀の人間観察者(モラリスト)たちの発見である。
 モリエールの芝居には、純粋な偽善者、どこから見ても悪人というような単純な登場人物は出てこない。単純そうな農夫は利己的で邪悪な本性を無邪気さの衣で覆っている。猫かぶりの女は純潔を装うことでうまみのある結婚相手をつかまえようとする。大酒のみで徹底的に現世主義者の従僕はミステリアスな主人を畏怖している。ドン・ジュアンは悪行を尽くしながらも、超人的な勇気と冷静さを失わない。アルセストは人間嫌いのくせに、社交的でコケッティシュなセリメーヌに夢中になる。
 モリエールの登場人物たちはいずれも「ひとすじなわではゆかない」人物たちである。別の言い方をすれば「外面から判断しては内面が推測できない」人々である。それは、彼らの外面的な行動が内面的な動機の忠実な反映ではなく、内なる動機が外なる行動に現れるまでの間に抑圧や屈折や迂回や偽装などが介在して、内面が見えにくくなっているからである。そのせいで生じた誤解や行き違いや勘違いや取り違えがモリエール流の笑劇の不可欠の要素となっている。
「人間の内面は(ある種の解読装置を使わないと)見えない」という考え方、あるいはもっと踏み込んで言えば、「人間には『内面』がある」という近代的な考想そのものが公的に承認されたことの、モリエールはひとつの指標であると言えるだろう。
 とはいえ、モリエールにはまだラブレー的な人間中心主義の流れが生きている。つまり、無垢なるものが「善」であり、人工的なもの作為的なものが「悪」であるという基本的な発想である。だから、作劇術の上では、「善」は無知で衝動的で健康な欲望に身を任せている若者たちによって、「悪」は社会の汚れにまみれ、打算でしか行動しない大人たちによって定型的に演じられることになる。しかし、無垢なるものは同時に無知であり無力であり、偶然の幸運がないかぎり、自力で運命を切り開くことも、おのれの正しさを承認させることもできないことをモリエールは熟知している。
 
 同時代のモラリスト、ラ・ロシュフーコーはモリエールよりもさらに人間について手厳しい。彼に言わせればこの世には利己心しか存在しない。もっともよく知られた彼の箴言をいくつか拾ってみよう。
「われわれの美徳は、たいていの場合、偽装された悪徳にすぎない。」
「美徳は虚栄心が同伴していなければ、それほど遠くまでは行けないだろう。」
「利己心はあらゆる言葉を操り、あらゆる人間を演じてみせる。無私の人さえも。」
「多くの人にとって、感謝とはより多くの恩恵を引き出そうとする密やかな願いに他ならない。」
 ラ・ロシュフーコーのこれらの嫌味な箴言に共通するのは「美徳の迂回構造」である。私たちが何かを譲ったり、与えてみせるのは、一度手放すことを通じて、もっと多くのものを取り戻すためであると彼は考える。これは道徳についての「近代的な」解釈といってよい。彼の考え方には、宗教的な道徳観から「離陸する」新しい知見が含まれている。
もし道徳が功利的な装置であるとしたら、道徳はそのつどの社会関係に即して、利己心の達成のためにもっとも効果的なすがたを「偽装」するはずである。(他人を密告することが有利な場では、「自分の気持に忠実であること」が道徳的とされ、面従腹背が有利な場では、「自分の気持を抑制すること」が道徳的であるとされるだろう。)道徳は終わりなきプロテウス的な変身をとげ、決して同一のものにはとどまらない。美徳と悪徳、正義と邪悪とを決定するのはそのつどの社会関係であるという「道徳の歴史主義」がここに出現する。

4・道徳の歴史主義-ホッブス、ロック
 善悪の観念はそれぞれの社会集団の歴史的・場所的規定性によって恣意的に決定されるという「歴史主義的」道徳観はトマス・ホッブス(1588-1679)、ジョン・ロック(1632-1704)、ジェレミー・ベンサム(1748-1832) らに代表されるイギリスの功利主義哲学においてもその基幹をなしている。
 ホッブスの「万人の万人に対する戦い」(bellum omnium contra omnes) という言葉が端的に語っているように、自然状態にある人間は、それぞれの自己保存という純粋に利己的な動機によって行動しているとするのが、功利主義の考え方である。自己実現と自己保存という「汝の欲するところ」は、人為的に定められた「実定的権利」に対して、いついかなる場所においても人間がその享受を要求できる権利ということで、「自然権」(natural right)と呼ばれる。
 この自然権の行使を万人が同時に求めた場合(ラブレーの夢想とは違って)、人々は自分のほしいものは他者から奪い取り、自分の欲求を暴力的に他者に強制することになる。この絶えざる戦闘状態にある社会では、自分の生命財産を安定的に確保することがきわめて困難であり、結果的には(ひとにぎりの圧倒的な強者をのぞく)ほとんどの社会成員が所期の自己保存、自己実現の望みを十分にかなえることができずに終わる。自然権行使の全面的承認は、自然権の行使を不可能にしてしまうというアポリアがここに生じる。
 それゆえ、とりあえず直接的・自然的欲求を断念し、そして社会契約(social pact)に基づいて創設された国家に自然権の一部または全部を委ねる方が結果的には利益が大きいと功利主義者は考える。 
 例えばロックは自然状態から社会契約による政治権力装置への移行を次のように説明する。
「人間たちが共同体を構成し、ひとつの政府に服従するとき、彼らがたがいに認め合った最も重要で基幹的な目的とは連帯し、自分たちの私有財産を保全することであった。というのは自然状態にあっては、私有財産の確保のためにはあまりにも多くのものが欠落していたからである。
 第一に自然状態には、共同的な同意によって定立され、認知され、受容され、承認された法律、生じうるさまざまな係争を終結させる共通の尺度として、これに基づいて正当な請求と不当な請求、正義と不正が判定されるような法律が欠けている。(・・・)第二に、自然状態には、公正な立場にあって、法律に則って係争を終結させるだけの権威を備えていると承認された裁判官がいない。(・・・)人々は自分の利害に関係することには夢中になるが、他人の利害についてはいい加減で冷淡である。これが際限のない不正と無秩序の原因となる。第三に、自然状態には下された判決を支援し、維持し、執行する力を持った権力が通常は存在しない。罪を犯したものであっても、可能であればまず実力を行使して、おのれの不正を押し通そうとするだろう。犯罪者の抵抗はときには彼を罰しようと企てるものをかえって危険にさらし、ときにはその命を失わせることもあるだろう。
 こういうわけで、人間たちは自然状態において享受していた数々の特権にもかかわらず、彼らのおかれていたきわめて不都合な条件のうちにいつまでもとどまることを止めて、社会を構成して暮らす方向へと強く押しやられたのである。」(3)
 この考え方は私たちにはそれほど抵抗なしに理解できる。ここにはラ・ロシュフーコーと同じ発想パターンが読みとれる。すなわち、「短期的・直接的な利益を断念することによって、より大きな長期的・間接的利益を回収する」という「迂回のメカニズム」である。人々は自然権の無制約な行使を断念する代わりに、社会契約の合意に基づいて形成された国家権力装置を通じて、より効果的に自分の私有財産を保全する。一時的に特権を断念するほうが、結果的にはより有効に特権を確保することができる。だから社会契約は、あくまでも私有財産の保全、個の自己保存、自己実現つまり自然権の最大限行使を目指しているのである。
 ホッブスによれば、たとえ国家主権といえども、その本義は国民の自然権の保障にある。だから、国民は自分たちが自然権を十分に享受できていないと判断した場合、「抵抗権」あるいは「革命権」という名目のもとに、現体制を他の政体に替える権利を保留している。17-18世紀の近代市民革命(イギリスの清教徒革命、アメリカの独立戦争、フランス革命など)がこのような理論に導かれて果たされたことは改めて指摘するまでもないだろうし、この社会契約理論は現在でも(日本国憲法をはじめとして)ほとんどの先進民主国家の憲法において、国家の正統性の根拠づけのために採用されているのも周知のことである。

5・道徳の系譜学へ
 近代の哲学者はホッブス、ロックからモンテスキュー、ルソー、エンゲルスに至るまで、道徳的な行動準則の成立について基本的には同じ考え方をしている。自然状態においては「社会が欠如」しており、そのために道徳は存在しないか、あるいはきわめて原始的なかたちでしか存在しない。そのような原始状態から社会契約によってテイク・オフが果たされる過程で、擬制としての道徳が法律に準じる仕方で成立した、とするのが彼らの近代的な倫理観である。
さて、このようにして(歴史学的にも考古学的にも実は根拠がない)「社会契約による社会の欠如から現存の社会への移行」という進化史観に与することは、ひとつの重要な態度決定-社会秩序の起源についてのある考え方を採用すること-を意味している。 
「人間の社会は契約から生まれると述べることは、結局あらゆる社会制度の起源がただしく人間的であり、人為的であることを宣言することである。それは社会は神の制度や自然の秩序の結果ではないと言うことである。それはなによりもまず社会秩序の基盤にかんする古い観念を拒否し、新しい観念を提出することである。」(4)
 ルイ・アルチュセールによると、社会契約説による説明は、社会は人間以外の原理(神あるいは自然)によって作られたとする「古い」仮説を退ける。この「古い」仮説はひさしく封建社会に固有の信念である「人間の本来的な不平等性」という考え方の根拠となってきたものである。人間の理解を超越し、人間の力によっては動かしようのない神や自然の摂理によって社会が成立したとする限り、ある人間が権力をもち、富を独占していたとしても、それはその人に帰された「本来的な社会性」によって説明される。(例えばボシュエの「王権神授説」)
 これに対して、社会契約説は社会的不平等を含む「自然」を欺瞞として退け、「諸制度を人間の約束の上に築き上げる。この思想は、人間に、古い制度を拒否し、新しい制度を立て、そして必要とあらばそれらの制度を新しい約束に基づいて廃しあるいは改革する機能を与えるのである。」(5)
「社会制度は人間の同意の上にはじめて成り立つ」という「新しい」考え方が「社会制度は人間を超える原理によって措定されたものである」という「古い」考え方にとって代わった。「道徳は神(あるいは自然)が制定したものである」とする「古い」考え方(哲学史的な術語で言えば「道徳の先験主義・絶対主義」)が退けられ、「道徳は人間が社会契約によって制定したものである。それゆえ「制定」することも「改正」することも、「廃絶」することも、集団の同意さえあれば可能である」とする「新しい」思想(「道徳の経験主義」)が支配的になったのである。
 しかし、私たちは「道徳についての二つの理念のあいだの覇権闘争は新しい理念の勝利のうちに推移した」という教科書的説明をそのまま鵜呑みにして済ませるわけにはゆかない。というのは、社会契約説は、それ自体が論争的、権利請求的な政治イデオロギーであり、目の前に現存する当の制度を革命するための論拠として要請されたものであり、その目的は「世界のあらゆる民族の制度を説明することではなく、既成の秩序を打破し、あるいは生まれつつあるかやがて生まれるであろう秩序を正当化することであった」からである。この説の唱道者たちは「あらゆる事実を理解することを望んだのではなく、新しい秩序を築く、つまり新しい秩序を提案し、正当化することを望んだのである。それゆえホッブスやスピノザのなかに、ローマの没落や封建諸法の出現の真の歴史をさぐることは間違いであろう。彼らは事実にはかかわりをもたなかったのだ。(・・・)彼らは自分が選んだ立場から歴史の理由そのものを作りだした、そして彼らが科学とみなしていた彼らの諸原理は、彼らの時代の闘争の中に組み込まれた-そして彼らが選んだ-諸価値にすぎなかった。」(6)
 アルチュセールの言葉をもう少し私たちの関心に即して言い換えると、「私利」をあらゆる行動の基本原理とする功利主義哲学の唯一の難点は、その哲学自体が、ひとつの党派的・階級的立場の「私利」に奉仕する哲学だったということである。
 ひとは「私利」によって動くということを論証しようとしている功利主義者自身が「私利」によって動いているとすると、これは論証すべきものを論証の前提に組み込んでいる「論点先取の虚偽」を犯していることになる。別にアリストテレスを持ち出すまでもなく、ある特定の社会集団にだけ選択的に有利な理説を、「一般的に妥当する学知」としていくら宣布してもふつうはあまり信用されない。
 いずれにせよ、19世紀の末に、近代の功利主義的な道徳観、すなわち「利己心の合理的な充足のための社会契約」としての道徳という前提をもう一度洗い直す学的な作業が思想的課題の日程にのぼることになったのである。
 その作業は一人の哲学者によって定式化された。
 あらゆる社会に妥当する、道徳を基礎づけているファクターとは何か?「人間を超越した」原理ではなく、また「人間に内在する」利己心でもないとしたら、それはいったい何か?超越でも内在でもなく、それとは別の水準にあって、人間を駆動しているものとは何か?
 この問いかけから始まる学的考究をニーチェは「道徳の系譜学」と名づけた。この学の原則は次のふたつのテーゼに集約される。
(1)「道徳の本来の問題たるものはすべて、多くの道徳を比較するところに始めて現れでるものである。」(7)つまり、道徳の系譜学は「比較道徳学」というかたちをとることになる。
(2)道徳が神の導きであるとする先験説も、道徳が合理的利己心の成果であるとする功利主義も、そのいずれをも認めない。「すべての道徳に本質的で貴重なことは、それが永年にわたる拘束だということである。」(8)
 こう宣言したニーチェによって『道徳の系譜学』(Zur Genealogie der Moral,1887)と題された書物が19世紀末に登場することになった。現代の倫理をめぐる根本的な問いはこの一冊の書物のうちに集中的に表現されているといってよい。この書物においてニーチェは彼の「人間中心主義」を極限にまで推し進めて、19世紀までのすべての道徳観を完膚なきまでに叩き潰した。
 ニーチェは、神や自然の介入を借りることも、利己心という怪しげな動機に依拠することも、ともに退け、「おのれ自身によっておのれ自身を主体的に根拠づけ、かつおのれの行動の理非を客観的に判定しうる方法はあるか」という19世紀までの思想家が問うことのなかった無謀な問題を設定し、その困難な問いに正面から取り組んだのである。ニーチェの回答の試みが成功したかどうかは別として、少なくともニーチェ以後、この問いを回避して倫理について語ることは誰にもできなくなった。

6・大衆社会の道徳
 功利主義者たちとニーチェを隔てる最大の状況的な差異は、前者が「市民社会」における、ニーチェが「大衆社会」における倫理について語ったということである。ニーチェの既成道徳批判は、つきるところ、「大衆社会において倫理的であるとはどういうことか」という、それまでの思想家が誰一人自らに問いかけることのなかった問いを引き受けたことにある。当然のことだが、それまで人類は「大衆社会」というものを知らなかったからである。
「大衆社会」とは何か?
 それは成員たちがもっぱら「群」をなし、「隣の人間と同じようであること」を指向して判断し行動するような社会のことである。そこでは、群がある方向に向かえば、全員が大勢に従って、批判も懐疑もなしに、同じ方向に雪崩打つ。そこではひとびとは自立的な個としてではなく、アモルファスで均質的なmasse(塊)をなしている。ニーチェ以前の思想家には切実な論件ではなかったこのような人間の集合的なあり方のもたらす災厄をニーチェはきわめて悲観的に予見した。
「群」をなして行動する人々をニーチェは「畜群」(Herde)と名づける。畜群の行動基準は「隣の人と同じことをする」「大勢に従う」ということである。集団から突出すること、特異であること、卓越していること、畜群的本能はそれを嫌う。畜群の理想は、「みんな同じ」という状態である。それが彼らの行動規範、「畜群道徳」となる。
「今日のヨーロッパにおける道徳なるものは、畜群的道徳である。」(9)
 畜群的道徳が目指すのは、なによりも社会の平準化・等質化である。
「万人が平等であること」こそ畜群の輝く理想である。だから彼らは「心をひとつにして、あらゆる特殊な要求、あらゆる特権や優先権に対して頑強に抵抗する」し、「ひとしく同苦(同情)の宗教を信奉し、およそ感じ、生き、悩むかぎりのすべてのものに同情する」。(10)
 こうしてひとびとは、互いに共感し合い、理解し合い、慰め合い、苦しみも喜びもひとしく分かち合いつつ、相互を隔て差異化する輪郭を失って、不定形的でねばねばしたマッスのうちに溶け込んで行く。もはやその成員たちが区別しがたいほどに等質的な集団を形成することを、畜群たちは「人間における極頂、人間の達し得た絶頂、未来の唯一の希望、現在のものたちにとっての慰めの具、過去のあらゆる罪過からの偉大な解放」と考えている。
 畜群的道徳もある意味では「功利的」である。けれども、それはホッブスやロックが考えていたような功利とは別種の功利である。「功利主義的」な道徳観によれば、個人は(慈善や謙譲や寛容や禁欲などの)「道徳的」行為をすることによってこうむる短期的な不利益と、結果的に獲得される長期的利益を「計量して」行為を決定する。この理論は、行為の決定者は、その行為が得か損かについて算盤をはじくことができる程度の知的能力をもっていることを前提としている。だから、仮にある一人の判断が集団成員の大多数の判断と一致したとしても、それは集団の成員全員が、彼と同程度に利己的であり、彼と同程度に計算高いというにすぎず、判断はあくまで個人の資格において、個人の責任において、主体的に下されたのである。
 しかるに、このような功利主義的判断は畜群には不可能である。なぜなら畜群とは(その定義からして)主体的には何一つ判断できないからである。畜群の関心はもっぱら「集団の保持」「集団の存続」に向けられている。つまり群をなし続けていること、いつまでも等質の集団のまま、塊として運動すること、それが最優先の目標なのである。そのためには全員がその隣人と同じ判断をし、同じ行動をすることが必要である。功利的な判断の結果がたまたま全員一致するのではなく、全員一致することそれ自体が自己目的化するのである。そのとき、ひとつの「倒錯」が発生する。畜群においては、ある行為が道徳的であるか不道徳的かについての判断は、その行為に内在する道徳的価値でもなく、その行為が行為者本人にもたらすはずの利益の多寡でもなく、「ほかの人々と同じであるか否か」によって決定されるからである。
 外部から到来する命令に集団的に屈服させられ、畜群化されるという事態は歴史的にはこれまでもいくらもあった。しかし、それと近代の畜群のあり方は似ているようで決定的に違っている。
「人間が存在するかぎり、あらゆる時代に人間畜群も存在したし(血族共同体、共同団体、部族、民族、国家、教会)、またつねに少数の命令者に対して、非常に多くの服従者が存在した。(・・・)今ではすべての人間が、一種の形式的良心として『汝すべし』と命ずるものに対する欲求を生まれながらに持っている。この欲求は満足を求めるし、その形式をある内容で満たそうとする。(・・・)それはだれかれとない命令者-両親なり教師なり法律なり階級的偏見なり世論なり-から吹き込まれるものを受け入れる。」(11)
 単に強権によって屈服させられ、同一の行動を強制されるだけではひとは「奴隷」(Sklave)にはならない。「奴隷」とは、強権に屈服するだけでなく、屈服することを幸福と感じ、そこに快楽を見出すようなもののことである。外部から強いられた思念を自分の内部からわきあがってきた自分自身の思念であるとシステマティックに取り違えるようなもののことである。
ニーチェによれば、この服従への欲求には歴史的淵源がある。ある特殊な民族集団とそれを母胎とする宗教がこのメンタリティを育み、それをヨーロッパ世界に持ち込んだのだ、とニーチェは論断する。
「ユダヤ人とともに道徳上の奴隷一揆は始まった」とニーチェは書く。
「ユダヤ人-タキトゥスや全古代世界のひとびとがいうところでは、『奴隷として生まれた民族』、また彼ら自身が言いもし信じもしたところでは『民族の中の選ばれた民族』-このユダヤ人が、価値の逆倒というあの奇跡劇をやってのけたのだ。(・・・)彼らの預言者たちは、〈富〉と〈背神〉と〈悪〉と〈暴戻〉と〈肉欲〉というものを一つに融け合わせてしまい、かくてはじめて〈この世〉(世界)という言葉を汚辱の言葉にしてしまった。価値のこの逆倒という点にユダヤ民族の意義がある。この民族とともに道徳における奴隷一揆が始まったのだ。」(12)
 ニーチェのいう「奴隷一揆」とは、奴隷たちが支配者に抵抗することを意味するのではない。そうではなくて「奴隷である」という「事実」を「奴隷であるのは幸福であり、勝利である。だから努めて奴隷にならなければならない」という「当為」に読み替える「倒錯」を指すのである。「弱者」であり、それゆえに私的な欲望の実現可能性を阻まれたものが、その不能と断念を、あたかもおのれの意思に基づく主体的な決意であるかのようにふるまい、「弱者であることが正統的な生き方である」と宣言したときに「価値の逆転」が始まる。
「惨めなるもののみが善きものである。貧しきもの、力なきもの、卑しきもののみが善きものである。悩めるもの、乏しきもの、病めるもの、醜きものこそ唯一の敬虔なるものであり、唯一の神に幸いなるものであって、彼らのためにのみ至福はある。」(13)
 だから、ニーチェによればキリストの教えとはユダヤのロジックを全面展開したものに他ならない。
「愛と福音の化身としてのこのナザレのイエス、貧しきもの、病めるもの、罪あるものに至福と勝利をもたらすこの『救世主』-彼こそは最も薄気味の悪い、最も抵抗しがたいかたちの誘惑ではなかったか。(・・・)この『救世主』、このイスラエルの疑似敵対者、似非解体者の迂路によってこそ、イスラエルはその崇高な復讐欲の最後の目標に到達したのではなかったか。」(14)

7・「超人」道徳
 ユダヤ=キリスト教に始まる「奴隷道徳」の根元的なメンタリティをニーチェは「遺恨(ressentiment)」と呼ぶ。「ルサンチマン」とは「遺恨・反感」を意味するフランス語であるが、語源は「反応する」(ressentir)という動詞である。「奴隷」は自己に先行し、自己よりも強大な、自己外部のなにものかによる「働きかけ」に対して「反応する」というかたちで存在する。「リアクション」というのが「奴隷」の行動元型なのである。
「奴隷道徳が成立するためには、常にまず一つの対境、一つの外界を必要とする。生理学的に言えば、それは一般に行動を起こすための外的刺激を必要とする。奴隷道徳の行動は根本的に反動である。」(15)
「奴隷」は「外界」を必要とする。「奴隷精神」とは「外界」から到来する「外的刺激」によって引き起こされた「反応」を、自分の「内面」から自然発生的に生まれ出た「本性の発露」であるというふうにシステマティックに錯認する知の構造のことである。この論断は暴力的な表現にもかかわらず、人間の存在論的構造についての深い洞見を含んでいることを私たちは認めなければならない。ここでニーチェはこんにちラカン派精神分析理論が「私」について教えていることとほとんど同じことを語っているからである。
 ラカン派の理説によれば、人間は発生的には無力で、根拠の不確かな存在として出発する。「私」は「私」の起源について厳密に自己言及することができない。(「私」は「私の誕生」に主体としては立ち会っていないからだ。)「私」は「私」いまここに存在していることの意味や根拠を「私」自身で構築した論理や言語では語りきることができない。「私」とは、ある精神分析家の卓抜な比喩を借りて言えば、自分の髪の毛をつかんで、おのれ自身を中空に吊り上げるような仕方でしか存在できないのである。
この根源的に無力な「私」は、あまりに無力なので、「おのれが無力である」という事実を受け容れることが出来ない。それゆえ、人間はおのれの無力を、自分の「外界」にあって「自分より強大なもの」の干渉の結果として説明しようとする。「私の外部」にある「私より強大なる者」が私の十全な自己認識や自己実現を妨害しているという「物語」を作り出すのである。「私」が弱いのではなく、「強大なる者」が強すぎるのだ。そのようにして私の外部に神話的に作り出された「私の十全な自己認識と自己実現を抑止する強大なもの」のことを精神分析は「父」と呼ぶ。「父」はそのような仕方で、「私」の弱さを含めた「私」をまるごと正当化し、根拠づける神話的な機能であり、それを私たちは場合に応じて「神」と呼んだり、「絶対精神」と呼んだり、「超在」と呼んだり、「歴史を貫く鉄の法則」と呼んだりするのである。
このラカン派の説明はそのままニーチェの「奴隷」精神の構造に適用できる。「奴隷」は「おのれが無力である」という事実を隠蔽しつつ説明するために、「強大なる父」の幻影を外界に作り出す。そして、この「父」のうちにおのれを教導し、おのれを救済するものを見出そうとするのである。そのときにおのれの無力さは一気に「父」による救霊をけなげに待望する「子羊の無垢性」に読み替えられる。
 こんにち、私たちは精神分析によるこのような人間の思考定型にかかわる説明を学術的には有効なものとして受け入れている。私たちの了解するところでは、ニーチェのいう「奴隷」とは人間という種に固有の存在論的構造なのである。フロイトの言葉を借りるならば、「私たちは全員が神経症患者」なのであり、それをニーチェ的な語法で言い換えれば、「私たちは全員が奴隷なのだ」ということになる。
 だが、ニーチェはそれを認めない。彼は「おのれをおのれの力では根拠づけられない人間」の対極にあえて「おのれをおのれの力で根拠づけることのできる人間」という仮説的存在を想定するからである。この不可能な仮説的存在をニーチェはさしあたり「貴族」と名づける。ここからニーチェの思想的迷走は始まる。
「貴族」の属性はすべて「奴隷」と反転している。「貴族」とはなによりも「外界を必要としないもの」「行動を起こすために外的刺激を必要としないもの」のことである。「貴族」の行動は熟慮の末に導き出されたものではないし、外部から強要された命令や戒律への盲従でもない。「貴族」とは、なによりもまず、イノセントに、直接的に、「自然発生的」に、彼自身の真の「内部」からこみあげる衝動に身を任せて行動するもののことである。
「騎士的・貴族的な価値判断の前提をなすものは、力強い肉体、若々しい、豊かな、泡立ち溢れるばかりの健康、並びにそれを保持するために必要な種々の条件、すなわち戦争・冒険・狩猟・舞踏・闘技、そのほか一般に強い自由な快活な活動をふくむすべてのものである。(・・・)すべての貴族道徳は勝ち誇った自己肯定から生ずる。(・・・)それは自発的に行動し、成長する。」(16)
 この貴族=騎士的存在者は「われら高貴なるもの、われら善きもの、われら美しきもの、われら幸いなるもの」という根源的な自己肯定から出発する。無反省的な自己肯定に立つがゆえに、当然にもこの貴族的・騎士的存在は、無思慮で単純で残忍で野蛮である。
 「ローマの、アラビアの、ゲルマンの、日本の貴族、ホメーロスの英雄、スカンジナビアの海賊」といった歴史上の貴族的種族は「通ってきたすべての足跡に『蛮人』の概念を遺した者たち」(17)
 彼らは「危険に向かって」「敵に向かって」「無分別に突進」する。そして「憤怒・愛・畏敬・感謝・復讐の熱狂的な激発」によってこの「高貴な魂」たちはおのれの同類を認知するだろう。
 ニーチェはこの「高貴な野蛮人」こそが「人間」の本来的なあり方だと考えた。彼らの行為は、いかなる局外者の介入もなしに、自然発生的に彼らの内部からのほとばしり出るエネルギーが具現化したものである。彼らの衝動は「奴隷」のそれのように「内面化された外部」ではなく、純粋な内部を淵源としている。その純粋性、真正性は、彼らの行為のすべてを浄化し、正当化するだろう。こうして、ニーチェは行為の正邪理非は、その行為が「自発的であるか」「反応的であるか」によって決すべきであるとするきわめてユニークな倫理観にたどりつく。
「高貴な人間」が自発的に行うこと、それが「高貴な行為」なのであり、「善い人間」の内部から止めがたく奔出するもの、それが「道徳的な行為」なのである。
「『よい』のは『よい人間』自身だった。換言すれば、高貴な人々、強力な人々、高位の人々、高邁な人々が、自分たち自身および自分たちの行為を『よい』と感じ、つまり第一級のものと決めて、これをすべての低級なもの、卑賤なもの、卑俗なもの、賤民的なものに対置したのだ。(・・・)上位の支配種族が下位の種族、すなわち『下層民』に対して持つあの持続的・支配的な全体感情と根本感情、これが『よい』と『わるい』との対立の起源なのだ。」(18)
 行為に外在する汎通的な道徳は存在しない。「主人」(すなわち貴族的=騎士的存在者)がなすことはすべて「善い」ことであり、「奴隷」(すなわち畜群的存在者)がなすことはすべて「悪い」ことである。問題は「誰が」その行為をするかであって、「何をするか」ではない。同じ行為であっても「善い人間」がすれば「善い行為」であり、「悪い人間」がすれば「悪い行為」なのである。
「道徳的な価値表示はいつでもまず人間に対してつけられ、それが派生的に転用されていった末に、ようやく行為に対してつけられるようになった」のである。(19)
「問題はつねに、自分が何者であり、他の者は何者であるか、ということなのだ。(・・・)われわれは道徳を強制して、なによりもまず位階の原則の前に身を屈せしめなければならない。(・・・)かくしてついには道徳をして『ある者にとって正しいことは、他の者にとっても正しい』と言うのは不道徳であることを、はっきり分からせねばならない。」(20)
こうして、行動に際して、局外の規範に準拠するものと、内発的な動機に身を任せるものという二分法によって、ニーチェは人間を「畜群」と「貴族」に二分し、それぞれのなすところを「悪い行為」と「善い行為」と名づける。行為の道徳性の判定は「何をなすか」ではなく、「何ものであるか」というかたちで立てられることになる。
では、「高貴なるもの」とは誰のことなのか?ここでニーチェの論理的迷走は深まる。なぜならニーチェが「高貴なるもの」を「当為」の語法で語ってしまうからである。
「およそ〈人間〉という型を高めることが、これまで貴族社会の仕事であった。-これからもつねにそうであるだろう。こういう社会は、人間と人間とのあいだの位階と価値差の長い階梯を信じ、何らかの意味での奴隷制度を必要とする。身分の差別がこりかたまって、支配階級が不断に隷従者や道具を眺め見下ろし、かくてまた不断に双方のあいだで服従と命令、抑圧と敬遠が行われることから生じるような〈距離の激情(pathos)〉がなかったならば、あの別のより秘密にみちた激情も決してうまれなかったであろう。それはすなわち、魂そのものの内部にたえず新たに距離を拡大しようとするあの熱望であり、いよいよ高い、いよいよ希有な、いよいよ遥遠な、いよいよ広闊な、いよいよ包括的な状態を形成しようとする熱望である。要するに、これこそは(・・・)絶えまなき、〈人間の自己超克〉の熱望である。」(21)
 ここでのニーチェのロジックは一見してそれと分かるほどに危うい。さきにニーチェは貴族の起源を「勝ち誇った自己肯定」だと断定していた。しかし「勝ち誇った自己肯定」を自己の根拠とする人間が果たして「おのれを高める」というような向上心を持つものだろうか? おのれの「低さ」「卑しさ」を自覚したものだけが「おのれを高めよう」とする自己否定・自己超克を指向するのではなのか? ニーチェの「貴族」についての最初の定義を受け容れる限り、「向上心を備えた貴族」「人間の自己超克を熱望する貴族」というのは形容矛盾である。 
 同じ背理は『ツァラトゥストラ』にも見ることができる。なるほど、ニーチェはそこでたしかに「超人」を語っている。しかし、そこでも彼は「超人が何であるか」ではなく、「超人は何ではないか」しか語らない。
「わたしはあなたがたに超人を教える。人間とは乗り超えられるべきあるものである。あなたがたは人間を乗り超えるために何をしたか。(・・・)人間にとって猿とは何か。哄笑の種、または苦痛にみちた恥辱である。超人にとって、人間とはまさにこういうものであらねばならない。」(22)
「超人」概念は「人間の超克」という「移行の当為」として語られる。あるいは「移行の当為」としてしか語られない。「超人」とは「人間を超えるなにものか」であるというよりは、「人間であることを苦痛であり恥辱であると感じる感受性、その状態から抜け出ようとする意志」のことである。超人とは「人間ではないもの」という否定形でのみ語られる記号であって、実体的な内容を持たない「超越への緊張」である。
「人間は、動物と超人のあいだに張り渡された一本の綱である-深淵の上にかかる綱である。(・・・)人間において偉大な点は、かれがひとつの橋であって、目的ではないことだ。人間において愛しうる点は、かれが過渡であり、没落である、ということである。」(23)
ツァラトゥストラは結局「超人とは何か」という問いにはついに回答しない。彼はひたすら「人間とは何か」についてだけ語る。堕落の極にある現代人について火を吐くような熱弁を揮う。しかし「超人とは何か?」という問いはそのつど「人間とは何か?」という問いにすり換えられ、「高貴とは何か?」という問いはそのつど「卑賤なものとは何か?」という問いにすり換えられる。
 このすり換えはニーチェのロジックの必然である。ニーチェは「自己超克」の動機を「より高いもの、より尊いものを指向する向上心」にではなく、「より低く、より卑しいものに対する嫌悪」のうちに求めているからである。貴族性とは高みをめざす指向ではなく、低く卑しく醜いものを激しく嫌悪し憎悪し破壊しようとする情熱、ニーチェのいう「距離のパトス」に他ならないからだ。
 ここから不思議な結論が導かれる。人間が高貴な存在へと、超人へと高まってゆく推進力を確保するためには、彼に嫌悪を催させ、彼をそこから離れることを熱望させるような、忌まわしい存在が不可欠だということになるからである。貴族社会が存立するために「奴隷制度」が不可欠であったように、超人が存立するためには、畜群が不可欠である。おのれの「高さ」を意識するためには、絶えず参照対象としての「低きもの」にそばにいてもらわなければならないのだ。人間を高めるという向上の指向は、不可避的に人間の一部を「畜群」として選別し、有徴化し、固定化することを要請する。
 超人「計画」にとってもっとも効率のよい体制は、ある人種が超歴史的、永遠的に「本来の賤民型」というものを体現している場合である。不変の参照項、「高さ」の観測定点としての「永遠に低いもの」がかたわらにいることは、おのれの「自己超克」の進み具合を計測するときにどれほど便利だろう! こうしてニーチェの超人道徳は、人類全体を「人種」に分類し、それぞれの遺伝的・生得的「本質」にしたがって、それが貴族人種か畜群人種かに分別するという暗鬱な作業に堕してゆくことになる。
「人間がその両親と祖先の固有の性質や偏愛を体内に宿していないということは金輪際ありえない。(・・・)もし両親についてそこばくのことが知られていたとすれば、その子について結論をくだすことがゆるされる。」(24)
「あらゆるヨーロッパおよび非ヨーロッパの奴隷階級の子孫たち、とりわけすべての先アーリア的住民の子孫たち。彼らこそ、人類の退歩を表しているものだ!」(25)
 遺伝的に畜群であることを宿命づけられている(ユダヤ人に代表される)「先アーリア土着民」と遺伝的に支配者であることを宿命づけられている「アーリア系征服種族」は髪の色、肌の色、頭蓋の長短といった生物学的な差異によって客観的に識別される。世界史とはこの非アーリア種族とアーリア種族の2000年来の確執の歴史のことであり、この和解なき闘争は近代にいたって前者の圧倒的な増殖の前に、後者が全戦線で後退を強いられている危機的状況として展望される。
「すべては目に見えてユダヤ化し、キリスト教化し、あるいは賤民化しつつある。この毒が人類の全身をすみずみまで侵してゆく成り行きは止めがたいものにみえる」(26)
 このニーチェの言葉はもう(ほぼ同時期に書かれた)エドゥアール・ドリュモンの『ユダヤ的フランス』の次のようなプロパガンダと選ぶところがない。
「ユダヤ人を他の人間たちとは違ったものにしている本質的特性とは何かをより注意深く、より真剣に考え、私たちの作業をセム人とアーリア人の民族的・生理学的・心理学的な比較から始めることにしよう。セム人とアーリア人は、はっきりと分かたれ、たがいに決定的に敵対し合う人種の人格化であって、この両者の対立が過去の世界を満たしており、将来においてさらに世界をかき乱すことになるであろう。」(27)
 ニーチェの超人道徳はこうしてその壮大な意図も空しく「反ユダヤ主義神話」のうちに崩落してゆく。たとえ本来の意図は人類の進歩であり、限界の超克であるとしても、その思想がある人間集団に劣等な「固有の本質」をあてがい、それを「否定する」というしかたで戦略化される限り、その思想に未来はない。そこから帰結されるものは排他的でエゴサントリックな暴力だけである。果たして、ニーチェのテクストはのちにドイツの国家社会主義者たちのうちに熱狂的な賛美者を見いだすことになる。
とはいえ、私たちがニーチェの「超人道徳」から学びうる教訓は決して少なくない。ニーチェは、大衆社会における倫理の可能性についてのつきつめた省察から、「精神の貴族がいなければならない」という結論を導いたところまでは間違っていなかったからである。私たちがニーチェと袂を分かつのは、そのあとのことである。
 私たちが希望をよせるのは、「卑俗なもの」たちへの嫌悪や排除による「斥力」をばねとして「距離」を稼ぐような相対的「貴族」ではない。さりとて、大衆から孤絶した脱俗の境地でひとりシリウスを仰ぐような絶対的「貴族」でもない。世俗の汚泥にまみれて、なお精神の貴族性を失わない人間に私たちはいかにして出会うことが出来るか、それがニーチェ以後の倫理の問いである。

8・大衆の反逆
 ニーチェの超人道徳は現代の倫理に二つの重要なアイディアをもたらした。
 ひとつは、倫理を静態的な「善い行為と悪い行為のカタログ」としては定立せず、「いま、ここにおける倫理的なる行動とは何か?」という問いを絶えず問い続ける休息も終わりもない絶望的な「超越の緊張」として、ひたすら前のめりに走り続けるような「運動性」として構想したことである。
 いまひとつは、倫理を、万人がめざすものではなく、「選ばれたる少数」だけが引き受ける責務として、「貴族の責務」(noblesse oblige)として観念したことである。
 ニーチェはこう書いている。
「高貴であることのしるし。すなわち、われわれの義務を、すべての人間に対する義務にまで引き下げようなどとはけっして考えないこと。おのれ自身の責任を譲り渡すことを欲せず、分かち合うことをも欲しないこと。自己の特権とその行使を、自己の義務のうちに数えること。(...)こうした種類の人間は孤独というものを知っており、また孤独がいかに強烈な毒を含んでいるかを知っている。」(28)
 義務についての激しい使命感、それが「孤独な」少数者にのみ求められていることについての自覚。このような意識のあり方を仮に「選び」(élection)の意識と呼ぶことにする。「選ばれた」人間は、倫理的な責務を「すべての人間に対する義務」にまで拡大することを求めない。それは彼ら「だけ」に求められている義務である。彼らに課せられた責務は「譲渡不能」であり、「分割不能」である。そのように過大な責務を割り当てられているという事実が、倫理的主体を「高貴」なものたらしめる。このニーチェ的発想それ自体は、これから論じるオルテガにもカミュにもほとんどそのままのかたちで受け継がれている。ニーチェと彼らの分岐点は、この「選ばれてあること」とは「他の人々よりも多くの特権を享受すること」とか「他の人々よりも高い地位を得ること」、つまり「奴隷」に対する「主人」の地位を要求する、というかたちをとらない点にある。それどころか、彼らにとって「選ばれてあること」の特権とは、他の人々よりも少なく受け取ること、他の人々よりも先に傷つくこと、他の人々よりも多くを失うこと、という「犠牲となる順序の優先権」というかたちをとるのである。
 ニーチェの獅子吼から30年後の大戦間期-ダダとシュールレアリスムとジャズ・エイジと「失われた世代」とボルシェヴィズムとファシズムとナチズムと世界恐慌の時代-に大衆社会のあり方を冷徹に分析した一冊の書物が公刊された。その書物が「超人道徳」と「倫理なき時代」を結ぶ、重要な論理的架橋を提供してくれる。その書物とはホセ・オルテガ・イ・ガセット(1883-1955)の『大衆の反逆』(1930)である。
 大衆社会論の古典とされる『大衆の反逆』はニーチェが「畜群」という名で罵り続けた社会階層「大衆」(masse)が、テクノロジーの進歩と民主主義の勝利によって、社会全体を文字通り空間的に占有するにいたった状況をきわめて悲観的に論じた書物である。この中でオルテガははっきりとニーチェの影響を受けた大衆社会論を展開する。それは、社会を「大衆」と「エリート」に二分し、「大衆」を徹底的に批判し、「選ばれたる少数派」の高い倫理性に人間社会の未来を託そうとする考想である。このオルテガの論の立て方は、とりわけ左翼的な知識人から「エリート主義」あるいは「貴族主義」として強い反感を買うことになった。しかし、私たちはオルテガの「精神の貴族主義」とニーチェの超人思想はまったく別ものである思う。それに、オルテガが『大衆の反逆』の中で予言したさまざまな事態-ナチズムとファシズムの勃興、革命ロシアの全体主義国家への変質、ヨーロッパの知的・政治的没落、アメリカ的ライフスタイルの世界制覇、さらには来るべきヨーロッパ統合までが、その後ことごとく現実のものとなったことを思うと、その炯眼に十分な敬意を払って然るべきだろうと思うのである。
 オルテガは大衆社会の本質をこう言い切る。
「他人と違うのは行儀が悪いのである。大衆は、すべての差異、秀抜さ、個人的なもの、資質に恵まれたこと、選ばれた者をすべて圧殺するのである。みんなと違う人、みんなと同じように考えない人は、排除される危険にさらされている。」(29)
 たしかにこの「大衆」は相互模倣を原理としている集団であるという点で、ニーチェの「畜群」に似ている。しかし、彼らの精神構造は、強圧的な支配者(「父」)を自己の外部に想定し、それへの隷従を幸福と感じる「奴隷」のそれとはかなり様子が違う。というのは、「大衆」らは近代のテクノロジーが可能にしたさまざまな物質的利便さと、民主政治によって提供された人権のおかげで、きわめて快適に生活を過ごしているからである。彼らの欲望は着々と充足されており、この欲望充足の営みを規制しようとするものにはなんであれ(たとえ「父」からの強圧的命令であれ)まるで従う気がないからである。
「いま分析している人間は、自分以外のいかなる権威にもみずから訴えるという習慣をもっていない。ありのままで満足しているのだ。べつにうぬぼれているわけでもなく、天真爛漫に、この世でもっとも当然のこととして、自分のうちにあるもの、つまり、意見、欲望、好み、趣味などを肯定し、よいとみなす傾向をもっている。(・・・)大衆的人間は、その性格どおりに、もはやいかなる権威にも頼ることをやめ、自分を自己の生の主人であると感じている。」(30) 
「勝ち誇った自己肯定」はニーチェにおいては「貴族」の特質とされていた。オルテガにおいて、それは「大衆」の特質とみなされる。ニーチェの「畜群」は愚鈍ではあったが、自分が自力で思考しているとか、自分の意見をみんなが拝聴すべきであるとか、自分の趣味や知見が先端的であるとか思い込むほど図々しくはなかった。ところがオルテガ的「大衆」は傲慢にも自分のことを「知的に完全である」と信じ込み、「自分の外にあるものの必要性を感じない」まま「自己閉塞の機構」のなかにのうのうと安住しているのである。ニーチェにおいては貴族だけの特権であったあの「イノセントな自己肯定」が社会全体に蔓延したのが大衆社会である。
 自己肯定と自己充足ゆえに、彼らは「外界」を必要としない。ニーチェの「貴族」は「距離のパトス」をかき立ててもらうために「劣等者」という名の「他者」を必要としたが、「大衆」はそれさえも必要としない。彼らは「外部」には関心がないのだ。
「今日の、平均人は、世界で起こること、起こるに違いないことに関して、ずっと断定的な《思想》をもっている。このことから、聞くという習慣を失ってしまった。もし必要なものをすべて自分がもっているなら、聞いてなにになるのだ?」(31)
 いまや大衆が権力者なのだ。彼らが「判断し、判決し、決定する時代」なのだ。
 自己充足と自己閉塞のうちにある「大衆」の対蹠点にオルテガは「エリート」を対置する。その特性は自己超越性と自己開放性である。
「すぐれた人間をなみの人間から区別するのは、すぐれた人間は自分に多くを求めるのに対し、なみの人間は、自分になにも求めず、自己のあり方にうぬぼれている点だ、(・・・)一般に信じられているのとは逆に、基本的に奉仕の生活を生きる者は選ばれた人間であって、大衆ではない。なにか卓越したものに奉仕するように生をつくりあげるのでなければ、かれにとって生は味気ないのである。(・・・)高貴さは、権利によってではなく、自己への要求と義務によって定義されるものである。高貴な身分は義務をともなう。」(32)
 なぜ「エリート」が存在しなければならないのか。オルテガはその問いに「野蛮」への退行を阻止するため、と簡単に答える。
 大衆社会とは、自己満足、自己閉塞というふるまいの結果、個人が原子化し集団が砂粒化した状態である。この「分解への傾向」をオルテガは「野蛮」と呼ぶ。
「あらゆる野蛮な時代とは、人間が分散する時代であり、たがいに分離し、敵意をもつ小集団がはびこる時代である。」(33)
 バルカン半島や中近東における民族的・宗教的な抗争や、アフリカにおける部族紛争のうちに私たちは「野蛮」の最悪のかたちを見る。これらの民族対立や宗教対立を駆動しているのは、「純粋」化、「純血」化、つまり同質な者たちだけから成る閉鎖的集団への細分化の指向である。そこで求められているのは、排除であり、差異化であり、断絶であり、内輪の言語である。そこには、自分とは異質な者と対話を試み、ある種の公共性の水準を構築し、コミュニケーションを成り立たせようとする指向が欠如している。オルテガはこれを「野蛮」と呼ぶ。
「文明」は自分とは違うものをおなじ共同体の構成員として受け容れること、そのような他者と共同生活を営めるようなコミュニケーション能力をもつものたちによってはじめて構築される。他者との共同生活を可能にするもの、それは愛とか思いやりとか想像力とか包容力とかいう個人レヴェルの資質ではない。そうではなくて、公共的な水準に擬制された制度である。
「手続き、規範、礼節、非直接的方法、正義、理性!これらはなんのために発明され、なんのためにこれほどめんどうなものが創造されたのだろうか。それらは結局《文明》というただ一語につきるのであり、《文明》はキビス(civis)つまり市民という概念のなかに、もともとの意味を明らかにしている。これらすべてによって、都市、共同体、共同生活を可能にしょうとするのである。(・・・)文明はなによりも共同生活への意志である。」(34)
「共同生活への意志」をもつもの、それが市民であり、オルテガのいう「貴族」である。オルテガによれば、「貴族」の条件は身分でも資産でも教養でも特権でもなく、この「自分と異質な他者と共同体を構成することのできる」能力、対話する力のことである。つまり、「貴族」とはその言葉のもっとも素朴な意味における「社会人」のことなのである。社会とはほんらい貴族たちだけによって構成されるべきものなのである。
「社会は貴族的である限りにおいて社会であり、それが非貴族化されるだけで社会ではなくなるといえるほど、人間社会はその本質からして、いやがおうでもつねに貴族的なのだということである。」(35)
 これで、オルテガのエリート主義がニーチェの貴族主義とまったく異質のものであることが明らかとなるだろう。ニーチェはエリートを定義するために、それが「何でないか」という否定形を重ねることしかできなかった。エリートの条件は最後には「人種」概念にまで矮小化した。いっぽう、オルテガは、はっきりと貴族がなにものであるかを語る。それは人間の特殊な形態ではなく、人間の「本来の」すがたである。だから、すべての人間が貴族になり、市民になり、公共性を配慮し、奉仕の生活を生きるすがたを「文明」の理想として語ったのである。
 ニーチェに比べるとオルテガの言葉はいかにも健全であり、凡庸であり、非浪漫的である。しかし、私たちはあえてオルテガの意見に与しようと思う。
 大衆社会は、それがどのようなテクノロジーによって満たされ、成員たちにどのような政治的特権を配分していようとも、自己開放、自己超克の契機をもたないかぎり、本質的に「野蛮」な社会である。なぜなら、大衆というのは本質的にきわだって「政治的」な存在仕方であり、大衆社会の究極の言葉は、「私には存在する権利がある。私は正しい」に集約されるからである。それに反して、貴族社会とは「私の存在する権利」と「私の正しさ」がつねに懐疑されるような社会のことである。「私」には「私以外のもの」に優先して存在する権利があるのかどうか、「私」には「私以外のもの」を非とする権利があるのかどうかを終わりなく思い迷うような人々によって構成されている社会である。ずいぶん平凡なことのように聞こえるだろうが、「私にはひとを殺す権利がない」といかなる状況においても言い切れるということこそが、「文明人」であり、「社会人」であり、「貴族」であることの唯一の条件なのである。
オルテガによってすらりと言い出されたこのテーゼは、しかし政治的暴力が吹き荒れる現場では貫徹することのきわめて困難な「正論」である。この「正論」を机上の論としてではなく、血なまぐさい政治闘争の経験の結論として振り絞るようにして語り出した思想家について、次節以下では検討してみたい。その思想家とはアルベール・カミュである。

9・不条理の風土
 アルベール・カミュ(1913-1960) の思想は「不条理の哲学」と呼ばれている。「不条理」(absurde)という言葉はニーチェの「神は死んだ」を別の言葉で表現したものである。別の哲学的な用語で言い換えれば「世界の無意味性の自覚」ということになるだろう。
 私たちが日常生活を無反省的に生きている時、世界は意味と現実感に充ちているように感じられる。それが不意に、とつぜん意味を失い、色あせ、不気味で、見知らぬ「異邦」の風景として感じられるようになることがある。私がここにいま存在することのたしかさが希薄になり、見慣れた人々が機械仕掛けの人形のように見えてくる。私たちが不意に転落する、この状態をハイデガーは「世界の適所全体性の崩壊」とか「世界の完全な無意義性」というふうに表現した。ある社会学者はこれを「規範喪失」と名付けて、そのあり方を次のように記述している。
「このような限界状況はよく夢や幻想のなかに生じる。それは、世界はその〈正常な〉面のほかにもうひとつの面があって、ひょっとすると、今までそれと認めてきた現実の見方ははかなくて欺瞞でさえあるのではないかという執拗な疑惑として意識の地平に現れてくる場合がある。(...)人間存在の限界状況は、すべての社会的世界がもつ内在的な不安定さを露わにする。社会的に規定されたすべての現実は、潜在する〈非現実〉によって脅かされ続ける。社会的に構成された規範秩序(nomos)はすべて、規範喪失(anomy)へと崩壊する不断の危険に直面しなければならない。(...)ノモスは、強力で異質なカオスの力にさらされながら建立された殿堂なのである。」(36)
「異邦」感覚とは、ノモスの壁に亀裂が入り、カオスの露出に直面したときの恐怖である。それはノモスの世界の足元に底なしのカオスが開口し、無底の闇のうちに呑み込まれる経験である。この「異邦」感覚それ自体は近代の発明ではない。同じように世界の脆さを感じていた人々は古代にも中世にも存在しただろう。しかし、それが時代全体に取り憑き、時代全体に共有される「世紀病」的な気分となって蔓延したのは近代以降のことである。
「予定調和的な世界の崩壊」感覚のグローバル化にはいくつかの理由があげられる。19世紀末から始まる都市化、産業化、技術革新。電気、無線、映画、自動車、飛行機といった「近代的テクノロジー」によるライフスタイルの激変。第一次世界大戦でそのテクノロジーが産み出した戦車、戦闘機、毒ガスといった効率的な人間抹殺装置。そして貨幣価値の暴落。
 ヨーロッパには、1918年まで「年金生活者」という一つの社会階層が存在した。祖先の建てた石造りの家に住み、祖先が使った家具を使い、祖先の買った債券の利子で一生労働することなしに暮らせるこの「高等遊民」はヨーロッパの文化資本の主要な生産者であり消費者でもあった。そのような生き方が可能であったのは、ヨーロッパの主要国の貨幣価値が17世紀から第一次世界大戦勃発までほとんど変動しなかったからである。彼らにとっての「世界」のイメージは、私たちがいま想像するよりもはるかに静的で、堅牢なものであった。だから「世界の崩壊」は迫真のリアリティを以て世紀の転換期の人々によって生きられたはずなのである。
 この時期の思想家たちが競うようにこの規範喪失状態の対象化を哲学的な優先問題としたことは考えてみれば自明のことである。ハイデガーの「存在論的不安」、ヤスパースの「限界状況」、サルトルの「吐き気」、バタイユの「体験」、レヴィナスの「il y a」といった哲学的な術語はいずれもこの規範喪失状態を指示している。カミュの「不条理」もそのような経験を記述する彼のオリジナルな用語法である。カミュは不条理の経験を次のように描き出している。
「異邦性、それは世界には『厚みがある』と気づくことだ。ひとつの石がどれほどまでよそよそしく、どれほど私たちの理解に抵抗するかを、どれほどかたくなに自然が、風景が私たちを否定するかを知ることだ。すべての美しいものの底には非人間的ななにものかが横たわっている。(...)世界の原初の敵意が数千年を超えて私たちに向かって立ち上がる。その一瞬、私たちはもはや世界が理解できなくなる。なぜなら私たちが何世紀もの間、世界について理解してきたものとは、実は、私たちがあらかじめ世界に仕込んでおいた形や図柄だったからである。(...)世界は世界それ自体となり、私たちの理解を超えてしまう。(...)この世界の厚みとよそよそしさ、それが不条理ということである。」(37)
 ノモスの崩壊とカオスの露出。図式的に言えば「不条理」とは規範喪失経験そのものである。このような経験が20世紀のヨーロッパ哲学者たちひとりひとりにその思想形成の初期条件として与えられた。彼らはそれぞれにこの規範喪失経験とどう立ち向かうかというかたちで彼らのオリジナリティを構築した。そして彼らの多くは、この規範喪失状況を「教化的契機」としてとらえるという解決策を選んだのである。彼らは規範喪失状況を、乗り越えられるべき過程、弁証法的な綜合に至るための否定的な契機というふうに生産的・功利的に解釈した。いわばそれは、人間を「成長」させる教育的な「迂回」あるいは「試練」として構想されたのである。試練をたくみに通過したものは、より包括的で全体的な「上位の知」に到達することになるだろう。
 規範喪失経験を、より包括的より全体的な上位規範の定立への過渡とみなすこの予定調和的な考想をカミュは「哲学的自殺」と呼ぶ。キェルケゴール、ハイデガー、フッサール、シェストフらの哲学的理説についてカミュは厳しい断罪を行っている。
「実存哲学について言うと、どの哲学も例外なしに私に逃亡を勧める。そして、奇妙なロジックによって、彼らは理性の瓦解する不条理という場所、人間たちだけしかいない閉じられた世界のうちにありながら、彼らを圧し潰すものを神聖化し、彼らから奪い去るもののうちに希望のてがかりを見出すことになるのである。」(38)
 これらの哲学においては、人間理性の挫折の経験は「人間理性を超えるもの」-それは「超在」「存在」「超越者」などさまざまな名で呼ばれる-の認知にただちにリンクしている。しかし、論理的に言えば、「人間理性に限界がある」という命題から「人間を超える超理性が存在する」という命題を導くことはできないはずである。カミュはこの論理的飛躍を、「逃避」、「屈従」、「休息の原理」として退ける。
「不条理が存在するのは、人間の世界のうちにである。不条理という概念が永遠性への跳躍台と読み換えられる瞬間に、この概念と人間の明晰性のあいだのつながりは断たれる。」(39)
カミュは「人間しかいない、人間だけの閉じられた世界」に踏みとどまることを選ぶ。
「この不条理の状態、ここに踏みとどまることが重要なのだ。」(40)
 それは「カオスの縁」に立ちつくして、超理性であれカオスであれ、永遠性の誘惑に抗し、眩暈をこらえつつ揺れ動く均衡状態である。
「不条理が意味を持つのはバランスのうちにおいてだけである。不条理はなによりも拮抗関係のうちにあり、この拮抗関係のいずれかの項にあるのではない。」(41)
 カミュは人間がとどまるべき領域とその知的課題を次のように限定する。
「私はこの世界が私を超えるような意味を持っているかどうかを知らない。しかし私は自分がそのような意味を知らないことを、さしあたり私にはそれを知ることが不可能であることを知っている。私の限界を超えた意味が私にとって何の意味があるのだろう?私は人間の言葉でしか理解することができない。私が触れるもの、私に抵抗するもの、それが私の理解できるものだ。」(42)
 規範喪失状況をそのねじれのままに、その不均衡のままに、その空虚さのままに、まるごと引き受けること。それを跳躍台として功利的に利用して、より安定的な上位のレヴェルに身をかわすのではなく、規範喪失状況そのものを日常的に人間の眼の高さで生きること、それをカミュは選ぶ。
「境界線までたどりついた精神は判断を下し、おのれの結論を選ばなければならない。あるものは自殺し、あるものは回答する。しかし私は探求の順序を逆転させ、知性の冒険から出発して、日々の営みに戻ろうと思う。」(43)
「道はいまや日常生活に通じている。道はふたたび匿名の『人々』の世界を見出す。しかし人間はこんどは反抗と明察を携えてそこに戻ってくるのだ。」(44)
 理性の極北までたどり着き、カオスの縁から世界の無底をのぞき込んだあと、自殺することも「跳躍」することも拒否した人間は「もとの世界に戻る」他ない。それがカミュの選択である。ただしそれは「不条理」以前のように、無反省的な酔生夢死をむさぼるための帰還ではない。ノモスは脆弱な仮設造営物にすぎないことがあばかれた。しかし、世界を超越する意味や永遠の秩序を夢見ることは「理性の自殺」にすぎない。このふたいろの明晰な断念を携えて不条理の人間は世界に帰ってくる。このような推論を経由して、カミュはニーチェが残した冒頭の問いを見出すことになる。
「上位審級なしに生きることが可能かどうかを知ること、それが私の関心のすべてである。私はこの問題領域から一歩もでるつもりはない。」(45)

10・異邦人の倫理
「上位審級なしに生きることは可能か」という問いの最も過激化したかたちは次のような問いになる。「人を殺すことは可能か?」
 人を殺すこと、それは「私」の自由の究極の発現形式、「私」の主体的可能性の限界である。だとすれば、上位審級なき世界での人間の行動準則を探求するカミュが「どういう場合に私は他者を殺すことができるのか(あるいはできないのか)」という問いを切実な思想的問いとして引き受けたのはことの必然である。もし「人を殺してもよい条件」というものを実定的に列挙しうるのであれば、それが「神なき時代」における正義と倫理の出発点となるだろう。だが果たして「人を殺してもよい条件」というものがありうるのだろうか。
『異邦人』という作品はこの問いに対するカミュの回答の試みであると私たちは考える。私たちは以下において、神なき時代の倫理を求めるカミュの悪戦の記録として『異邦人』というテクストを読んでみたいと思う。
 すでに多くの批評家が指摘してきたように、この小説の中で主人公がもっとも頻繁に使う言葉は「それには何の意味もない」(Cela ne veut rien dire)「私には分からない」(Je ne sais pas)「どちらでも同じだ」(Cela m'est égal)である。事物にはそれぞれに固有の意味があること、ある事物と他の事物のあいだには差異があること、そのような固有の意味や差異を保証する局外的、中立的な判定基準があること、これを主人公は一貫して否定する。差異づけを拒み、すべての価値を平準化し、ある種の「平衡状態」を実現しようとする強い意志、「差異」や「位階」を無化しようとする力がこの小説の全編を貫いていると私たちは考える。この「無差異」(indifference)をめざす力を私たちはとりあえず「均衡の原理」と名づけることにする。主人公ムルソーを海岸での殺人へと導くのはこの原理である。
 ムルソーは友人たち(レイモン、マッソン)と海岸へゆき、そこでレイモンに恨みをもつアラブ人のグループと三度にわたって、水準の異なる暴力行使を経験する。そのすべての機会において、彼らはつねにひとつの行動準則に忠実である。それは、暴力の行使に際しては条件の均衡を期すということである。
 最初の対決ではフランス人三人とアラブ人が二人が遭遇する。この人数上の不均衡はムルソーを戦闘要員からはずさすことで解決される。
 「レイモンは言った。『一悶着起きるようだったら、マソン、お前二人目のやつをやってくれ。俺はあいつを引き受ける。ムルソー、あんたは別にもう一人現れたら、そいつをやってくれ。」(46)
 結果は二対二の「平等な」殴り合いになる。フランス人たちは素手の戦いでは圧勝するが、ナイフを持ち出したアラブ人によってレイモンが腕を剔られ、口元を切り裂かれる。
 この「不均衡」の解消のためには二度目の遭遇戦が必然的に要請される。レイモンはナイフに対抗するために拳銃を持ち出す。人数は(今度はマソンが不在のために)二対二と均衡しているが、ナイフと拳銃の殺傷能力差による「不均衡」が生じる。この「不均衡是正」のために、臨戦態勢にあるレイモンに対してムルソーは三度にわたって「戦闘条件の均衡化」提案を申し出る。
 最初にムルソーは「むこうがまだなにも言い出さないうちに、いきなり撃つのは汚い」といっていきり立つレイモンに先制攻撃の不当であることを説得する。では、罵倒の応酬になったら撃ってもいいのかと訊ねるレイモンに、ムルソーは「ナイフを抜いたら撃ってもいい」と「正当防衛」の名分を求める。さらに緊張が増すと、「いや、男同士素手でやれ。君の拳銃はぼくが預かる。もし、他のやつが出てきたり、あいつがナイフを抜いたら、ぼくが撃つ」(47)と言ってムルソーは三度目の条件の吊り上げを行う。結果的に、アラブ人はひき揚げ、ことなきを得る。一度目の遭遇ではは負傷者が出たが、二度目はムルソーの必死の周旋のおかげで誰も傷つかずにすんだ。ここまでは、ムルソーの奉じる「均衡の原則」は暴力抑止にたしかに一定の効果を発揮したのである。
 しかし、これで終わってはレイモンの負傷という「不均衡」が解消されない。この居心地の悪さがムルソーを海岸へ誘い出す。ムルソーは無意識のまま拳銃を携行し、無意識のままアラブ人がいる可能性の高い場所へと近づいて行く。そして、三度目の遭遇戦が行われる。ムルソーは一対一でアラブ人と遭遇する。アラブ人はナイフを抜く。二度目の遭遇に際してムルソー自身が吊り上げた「条件」がこのときにクリアされてしまう。人数は拮抗し、攻撃の意思は予告され、武器は選ばれた。「均衡の達成」をもとめる力がムルソーに銃を撃つことを要請する。ムルソーはまさに「均衡の原理」によってアラブ人殺害を余儀なくされるのである。
 『異邦人』の世界は「均衡の原理」に支配されていると私たちは考える。それは経験的に、それが彼らの知る効果的な唯一の暴力制御の方法であるからだ。均衡さえ確保するならば、暴力は免責される。自分の死を代償とするならば、人を殺すことは正当化される。これが「異邦人の倫理」である。これはまたこの時期におけるアルベール・カミュ自身の現実的な行動準則であったと私たちは考える。

11.抵抗の理論と粛清の理論
 みずからの死を代償として与える用意のあるものはひとを殺すことができる。私たちはこれを「異邦人の倫理」と呼ぶ。この倫理は小説世界にとどまらず、カミュにとっては政治的状況への自身のコミットメントを支える根本原理であった。むしろ、彼のレジスタンスへの関与(それは要するに「敵を殺す」ということだ)を論理的に正当化するためには、『異邦人』におけるエクリチュールの訓練がなくてはすまされなかったとさえ言えるかも知れない。
 1942年、『異邦人』の完成とほぼ同時期にカミュはレジスタンスの地下出版活動に加わる。『異邦人』が空前のベストセラーとなり、カミュが時代の寵児となったまさにその時期に、カミュは非合法活動に決定的なしかたで参加しはじめるのである。ベストセラー作家になり、注目を浴びるようになったので、非合法活動から距離を置くようになったというのなら話は分かる。そうではなく事態は逆なのだ。だとすれば、『異邦人』の完成をまって始めて、「政治的暴力を正当化する思想」がカミュのうちでかたちをとったというふうに考えることはできないだろうか。
『異邦人』完成の直後、ドイツ占領下で地下出版されたレジスタンス文書『ドイツの友人への手紙』の中で匿名の書き手はこう書いた。
「私たちには長い迂回が必要だった。私たちには長い遅延が必要だった。それは真理への気遣いが知性に強い、友情への気遣いが感情に強いた迂回であった。この迂回が正義を護持し、みずからに問いかけ続けた側の人間たちに理ありとした。この迂回は高くついた。私たちはそれを屈辱として、沈黙として、苦痛として、監獄として、処刑の朝として、断念として、別離として、日々の飢餓として、やせこけた子供たちとして、そしてなによりも強いられた改悛として、支払った。それは順序として正しかった。(Cela tait dans l'ordre.)
 そういった時間があったからこそ、私たちは人間を殺す権利が自分たちにはあるかどうか、この世界の暴虐にさらなる暴虐を付け加えることが私たちに許されるかどうかを知ることができたからである。」(48) 
 ここでいう「長い迂回」にはドイツ占領下におけるフランス人同胞の受難だけでなく、おそらく『異邦人』の完成も含まれている。ともあれ、犠牲者の苦しみがドイツ人を殺すことを正当化し、フランス人が「汚れなき手」で戦争をすることを可能にするとカミュは書いている。これは死の相称性、暴力の相互性に基づいて正義を計量する「均衡の原理」に基づく「異邦人の倫理」そのものである。
 戦争には『異邦人』の「判事」に相当するような上位の裁定者は存在しない。それはある意味では徹底的に「平等性」が貫徹する領域である。だとすれば、「異邦人の倫理」はレジスタンス運動を論理的に正当化し、愛国的情熱を高揚させるという政治的目的に関する限り、きわめて効果的なプロパガンダだったはずである。事実、侵略者に対するフランス人の倫理的優位を保証し、抵抗に理ありとしたこのテクストは第二次大戦の軍事的勝利に少なからぬ貢献を果たしたのである。(フランス政府は戦後、カミュのレジスタンスの功績に対して叙勲の意を表した。)カミュが戦後の一時期に享受した神話的威信はこの軍事的功績に負っている。
 しかし「被害者」は「汚れなき手」をもってひとを殺す権利があるとするこの「均衡の原理」をおしすすめると、論理的にはあらゆる「報復」が正当化されることになりはすまいか。「異邦人の倫理」は戦争がフランスの勝利のうちに終わったときに深刻な難問に遭遇することになった。それは「粛清」の問題である。
 戦後のフランスでは対独協力者、戦争責任者の「粛清」がすさまじい暴力をふるった。フランス現代史の「恥部」ともいえるこの戦後の粛清事件についてはほとんど公式資料が存在しないが、数千人のフランス市民が裁判ぬきで処刑された。カミュはレジスタンス活動からの文脈上、戦争責任を追求し、均衡の回復を要求すべき立場にあった。アンリ・ベローという右翼のジャーナリストが戦時中の対独協力の罪で死刑宣告を受けたとき、慈悲を訴えるフランソワ・モーリヤックと正義を求めるカミュは激しい論争を展開した。
「粛清が話題になるたびに、私は正義について語り、モーリヤック氏は慈悲について語る」という言葉で始まるこの論説の中でカミュはつぎのように厳しい宣告を記した。
「私が氏に言いたいのは、私たちの国が死に至る二つの道があるということである。(・・・)それは憎しみの道と赦しの道である。私にはいずれ劣らず有害なものに思われる。私は憎しみが好きなわけではない。しかし赦しがそれよりましとも思えない。いま赦しを語ること侮辱しているのと変わらないだろう。いずれにせよ、私には赦す権利がない。」(49)
カミュのこの厳しい態度はしかし長くは続かなかった。同じ月の25日、弁護の余地のない対独協力者であったロベール・ブラジヤックの助命嘆願書にアルベール・カミュは逡巡の末、署名している。ブラジャックの助命嘆願書への署名をカミュに依頼しに来たマルセル・エメに対してカミュは翌日苦しい同意の返事をしている。
「あなたのせいで私は寝苦しい一夜を過ごすことになりました。結局、私はあなたが要請してきた署名を今日送ることにしました。(...)私はこれまでずっと死刑宣告というものを激しく憎んできました。ですから、私は少なくとも一個人としては死刑宣告には、棄権を通じてさえ、加担しまいと決意したのです。」(50)
同じく対独協力者であったリュシアン・ルバテの減刑嘆願に際してもカミュは同じ趣旨のことを書いている。
「私はこれまで彼のような人間と徹底的に戦った来ました。しかし今、私はそれよりもさらに強い衝動に突き動かされて、死刑宣告された彼の減刑を求めます。一人の人間を殺すことよりも、彼におのれの過ちを省察する機会を与えることのほうがより緊急であり、範例的であると考えるからです。(・・・)けれどもこれが私にとって決して容易な決断ではなかったことはご理解下さい。」(51) 
 カミュをとらえた「さらに強い衝動」とは、これもまた「異邦人の倫理」のうちにすでに含まれていたものである。レジスタンスにおいては表面化しなかったある問題が戦後粛清に直面して前景化してきたのである。
「均衡の原理」に基づく「異邦人の倫理」は「上位審級なき世界において倫理的に生きる」ためにカミュが工作した理論的装置であった。レジスタンス活動には「均衡の原理」が貫徹していた。敵の生命を要求するためには、まず自分自身の生命を賭金に差し出す必要があったからである。
 しかし、対独協力者の粛清は「均衡の回復」を求めているように見えているけれど、実体はまるで別ものである。死刑宣告はフランスの国権を背景にした「裁判」である。それは上位審級から下される裁定である。
 経験的に言って、「父」はしばしば「同胞」や「等格者」のような顔をして登場する。「父」はあたかも傷つけられ、失われた「均衡の回復」を求めるかのように裁きを求める。だが、それこそ詐術なのだ。「社会は償いを求めている」という常套句を「父」が口にするとき、償いを求めている「当事者」はじつは存在しないからである。「社会」というのは、自分自身は傷つくことも、何かを失うこともない「父」が高みから裁きの暴力を下すときに用いる戦略的な虚辞にすぎない。ムルソーは獄中でこう回想している。
「新聞はしばしば社会に対する借り(une dette qui était due à la société) について語っている。新聞によれば、その借りは償わなければならないのだそうだ。けれどもこれが何を意味するのか私にはぜんぜん分からない。」(52)
 負債とその精算が果たしうるのは、等格者たちの間、「ドイツの一友人と私」の間でだけだ。上位審級なき世界でのみ、均衡の原理は倫理の根拠たりうるのである。「均衡の回復」「負債の支払い」を「父」が求めるのは正義の実現のためではない。正義と倫理の裁定権を独占するためである。まさにそのような擬制と戦うためにカミュは彼の思想を構築してきたのである。
 粛清に直面したときのこの一時的なダッチロールはカミュに「異邦人の倫理」の脆弱性についてひとつのことを教えた。それは「均衡の原理」だけでは倫理の基礎づけには不十分だということである。「均衡の原理」にもう一つ条件を付け加えなければ、倫理の立場は「同胞の顔をした父」「受難者のふりをする強権者」「弱者の味方のふりをする三百代言」によってたやすく略取されてしまうだろう。
 いかにして「傷つけられた同胞のふりをする父」と「傷つけられた同胞」を判別するか、カミュはこの問いをそれ以後考え続けた。1940-60年代のフランスの左翼知識人たちが「犠牲を強いられたものには報復の権利がある」という単純なロジックによりかかって、うちそろって「階級闘争・民族解放闘争」に無条件の連帯を約束する中で、ひとりカミュは報復の応酬は憎しみの増殖にしか至りつかないことを指摘し、孤立を強いられた。しかし、その思想的にきわめて不遇であった時代に、カミュの中では倫理の基礎づけに関するより精緻な理論が熟成していったのである。

12・反抗の倫理
 東西冷戦、階級闘争、植民地解放闘争さまざまなレヴェルで「正義」の名における覇権闘争が激化していた1952年、カミュは「正義の名において人を殺すことは許されるか」という批判的主題のもとに長大な著作この『反抗的人間』を刊行した。この書物の主題は、さきに対独協力者たちの助命嘆願を前に逡巡したカミュの「中途半端性」そのものである。
 罪あるものを前にしても、それを断罪する資格が自分にあるとはどうしても思えない主体の苦渋。正義を明快な論理で要求しながらも、いざ正義の暴力が執行されるときになると正義があまりに苛烈であることに耐えられなくなる弱さ。そのようなカミュのあいまいなスタンスは私たちにはきわめて人誠実なものと映る。しかし、時代はそのような中途半端性を許容しなかった。彼はそのためにたった一人でおのれの立場を擁護しなければならなかった。この書物で、カミュは二正面の仮想敵と戦っている。
 一方には「歴史」の名において自らの革命的暴力を正当化するものたち(マルクス主義者、民族解放闘争主義者たち)がいる。一方には「すべては許される」をスローガンに「全的自由」を要求するものたち(シュールリアリストたち、イワン=カラマーゾフ的、ニーチェ的なヒーローたち)。前者は「歴史」という上位審級を根拠にして、後者はその不在を根拠にして、それぞれみずからの執行する暴力を正当化しようとした。これに対するカミュの反論は次のように(拍子抜けするほどに)常識的なものである。
 普遍的な行動準則は存在しない、だからと言って何をしてもよいわけではない。
 ただし、「何をしてはいけないのか」を「局外から」あるいは「上位審級」から判定することは誰にも許されない。私たちは全員、被害者であり同時に加害者であるよう仕方で暴力的世界のうちにインヴォルヴされているからだ。私たちの仕事は、自分にふるわれた暴力と自分がふるう暴力について、実現すべき正義とその正義の実現にともなって発生する不正について、その収支を冷静なあたまで定量することである。「どちらの暴力がより暴力的か」を判定する上で、少なくとも経験的には一つだけ準則が存在する。それは通常、みずからの暴力行使を正当であるとするものの方が、自らの行使する暴力を正当化しないものの暴力より、より広範かつ徹底的である、ということだ。「正義の実現」であれ「正義の不在」であれ、いずれにせよ「人間の範囲を超えた権威」「上位審級からの保証」を背負ってふるわれる暴力は、固有名において、私利のためにふるわれる暴力よりも圧倒的に大きな災禍をもたらす。したがって、優先的な仕事は「みずから全的自由を叙任し、ほしいままに暴力をふるうことを許さない」という政治課題として設定される。
 この「正当性を根拠にふるわれる暴力の制御」をカミュは「反抗」と名づけた。「反抗」とは限界を設定すること、いかなる名目のものであれ「他者を殺す」自由を認めないことである。
「極限的自由、すなわち殺す自由は反抗の準則とは相容れない。反抗とは全的自由の請求などではない。反対に、反抗は全的自由をこそ審問している。反抗はまさに無制限の権力に異議を申し立てる。それは無制限の自由がある優越者に禁じられた境界線の侵犯を許すからである。包括的な自由を請求するどころか、人間存在があるところはどこであれ、自由にはそれなりの限界があること、限界こそがこの存在の反抗の力そのものだということが認められることを反抗は望んでいるのである。」(52)
「私の自由」の極限的な発現とは、「他者の自由」の全的否定、すなわち殺人である。だとすれば、人間の自由に境界線があるとすれば、それは「殺してはならない」という「限界」に他ならない。自由の限界はまさに「汝、殺す勿れ」という「戒律」のかたちをとって到来するのである。
 この「戒律」は上位の立法者から由来するのではない。(誰であれみずからに「立法」権を賦与するような存在をカミュは認めないからだ。)そうではなく、その戒律はいままさに殺されようとしている被害者の「顔」から発されるのである。
「反抗者とは、抑圧者に顔を向ける(dresse face à l'oppresseur) そのただ一つの動作によって、生命を擁護し、隷従と虚偽とテロルに対する戦いに身を投じるもののことである。」(54)
 自らに全的自由を叙権する抑圧者に対して,「それを限界づけ、それを阻止する」顔を向けるもの、すなわち「他者」から戒律は到来する。
 この戒律は、いままさに殺されようとしている人間の、それでも「殺そうとしている私」を見つめ返すまなざしから、「自らを放棄せぬもの、身を委ねぬもの、私を直視し返すもの」のまなざしから、訴えとして、祈願として、命令として、私に到来するのである。「上位審級」なしになおかつ行動しうるための準則があるか、とカミュは自らに問うた。この問いに彼はとりあえず次のような答えを得たことになる。
 私の自由の前に立ちふさがり、私の暴力の対象となっているその瞬間に「私を見つめ返すもの」を恐れよ。これが唯一の戒律である。あらゆる倫理はこの戒律に基づいて築かれることになるだろう。こう考えると、『異邦人』でムルソーがアラブ人を殺すことができた理由が理解できる。ムルソーが殺人に踏み込むことが出来たのは、均衡が達成されたからだけではない。海岸での殺人の場面において、殺されるアラブ人の「顔」が訴えたはずの倫理的命令「汝殺す勿れ」はムルソーには届かなかったからである。アラブ人の「顔」を最後まで見ることができなかったからである。海岸を歩むムルソーは「灼けた大気」と「影」というふたつの遮断幕のせいでアラブ人の顔をうまく直視することができない。そのときアラブ人がナイフを出して太陽にかざす。
「まさにそのとき、私の眉毛にたまった汗が転がり落ち、生ぬるく厚いヴェールで睫毛を覆った。私の眼はこの涙と塩の幕で盲目となった。(Mes yeux
étaient aveuglés derrière ce rideau de larmes et de sel)」(55)
 拳銃を発射する前、ムルソーは瞬間的に「盲目」となった。より正確には「盲目になる」ことによってはじめてムルソーはアラブ人を殺すことができたのだ。ひとは盲目にならずには他者を殺すことができない。「私」を見返す者を「私」は決して殺すことができない。「異邦人の倫理」にこうして「抵抗の倫理」付け加えられた条件によって、とりあえずカミュにとっての倫理の基礎づけは果たされたのである。

13・ペスト患者あるいは紳士の礼節
 長々と書き続けてきたこの論考もそろそろ結論を導くべき段階に至った。私たちは「なぜ人を殺してはいけないのか?」というラディカルな問いの求めてこの論考を始めた。そしていま私たちはひとつの結論にたどりついたと思う。
「汝、殺す勿れ。」これが絶対的戒律である。その戒律の正統性は宗教的な起源によって保証されているのではないし、刑法の定める処罰への恐怖によって支えられているのでもない。その戒律の絶対的正統性は、「私」がまさに暴力をふるわんとしているそのとき、「私」をじっと見返す他者のまなざから由来する。「私」が他者を「殺そう」とするそのときに「私」を見つめ返すそのまなざしは端的に「私」の暴力性、「私」のエゴイズム、「私」が存在することの邪悪さを、「私」に知らしめるからである。他者のまなざしは、「私」が生き、呼吸し、空間を占拠し、太陽の光を浴びていることの正当性を揺るがす。私が存在することによって、迫害され、権利を奪われ、空間を占拠され、光を遮られている他者がいることへの「疚しさ」が「私」の中に兆す。「私」が存在することの自明性についての疑念と不安、「汝、殺す勿れ」の戒律が私たちのなかにひきおこす意識の攪乱はそのようなかたちをとる。
 この「自我の存在の正当性そのものへの懐疑」としての倫理の起動は、『ペスト』の中で登場人物の一人タルーの口から語られる。
 タルーが「ペスト患者」(pestiféré)と呼ぶのは「正義の暴力」の上に築かれる社会秩序に同意するものたちのことである。彼は死刑宣告の上に成立する正義に同意することができない。かといって「もはや誰も殺されることのない世界をつくりだす」ための革命闘争にも同意することができない。そこでもまた革命的正義の名において暴力が無制限に行使されているからである。正義の名において罪人に斬首を要求する裁判官も「暴力を廃絶するための暴力」を正当化する革命家たちも、ひとしく「ペスト患者」なのである。
「全員が自分の中にペストを抱えている。この世界では誰一人その感染をまぬかれることができない。」(56)
こうしてタルーは裁判官である父のもとを去り、ついで身を投じた革命運動からも脱落する。
「ぼくが殺すことを拒絶した瞬間に、ぼくは決定的にこの世界から追放されてしまったのだ。」(57)
 タルーが最後にゆきついたのはペストが隠喩としてではなく、災禍として経験されている都市である。そこで彼はそこでペストと戦う限り、自分もまたペストに罹患せずにはいないという出口のない状況におかれ、ある倫理的な覚知を達成する。それはペストとは「私」の「外部」にあって、戦い滅ぼすべき「悪」であるのではなく、「外部」なるものを想定し、そこの「悪」を凝縮させ、それと「戦う」という語法でしか「私」の生き方を語れないタルー自身の「症状」だということである。ペストとは自分の外側に実在する何かではなく、「私」の不幸の説明原理として、そのような「実体化された悪」をおのれの外部に探し求めずにはいられない「私」の思考の文法をそのものだということである。タルーはこのとき気づく。「私」が制御すべき最初で最大の暴力は、他でもない「私」自身が行使しているのである。こうしてタルーは一つの堅牢で美しい倫理の言葉を編み上げることになる。
「みんな自分の中にペストを飼っている。誰一人、この世界の誰一人、ペストに罹っていないものはいない。だからちょっとした気のゆるみで、うっかりと他人の顔の前で息を吐いたり、病気をうつしたりしないように、間断なく自分を監視していなければならないのだ。自然なもの、それは病原菌だ。(...)紳士とは、できるだけ誰にもペストをうつさない者、可能な限り緊張していられる者のことだ。」(58)
「ペスト」とは「私」が「私」として存在することを自明であるとする人間の本性的なエゴイズムのことである。おのれが存在することの正当性を一瞬たりとも疑わない人間、「自分の外部にある悪と戦う」という話型によってしか正義を考想できない人間。それが「ペスト患者」だ。私たちは存在しているだけですでに悪をなしている可能性がある。私たちが生きているだけですでに他者に害をなしている可能性がある。これがタルーの倫理の起点である。だから、私たちにできる最良のことは、あらんかぎりの努力をもっておのれの自分の邪悪さを抑えること、おのれを冒している病をこれ以上伝染させないことである。そのような控えめな抵抗でさえ決して容易なわざではないのだ。それを試みられる人間をカミュは「紳士」(l'honnête homme)と名づけた。
 人間は「他の人々と同じ」ように生きているだけでは、ペストへの加担から逃れることができない。人間は「より人間的になる」ためには、自らへの倫理的負荷を「他者よりも高く」設定しなければならない。そのことをこの語は含意している。自らの本性的邪悪さを浄化してゆく不断の「自己超越」(このような言葉遣いそのものはニーチェの「超人」思想とそれほど違うわけではない)しかし、この「自己超越」は「超人」や「貴族」という(やや浪漫的な)語と「紳士」という(凡庸な)語の語感の違いが正しく示しているように、決して同じものではない。カミュの「紳士」は何らかの種族的召命を地上に実現するためにいるのではない。そのような壮大な企図は彼とは無縁である。おそらく「紳士」が日常生活の中で実践するのは、老母を敬い、妊婦に思いやりを示し、一人の相手に二人がかりでかかってゆくのをとどめるくらいのことにすぎないのかもしれないし、ドアの前で「お先にどうぞ」と人に道を譲ったりすることにすぎないのかもしれない。しかし、この「日常的な営み」はある徹底した覚悟性に支えられている。つまりそれは難破する船の最後の救命ボートの最後の席についてさえ、にこやかに「お先にどうぞ」と言い切る決意をもって口にされているのである。これは「謙譲」であり、「礼節」であり、ある種の「やせがまん」でもある。
 そのようなほとんど死語に類する概念が「20世紀の倫理」の「最後の言葉」であることに意外の感を覚える方は少なくないだろう。けれどもカミュが「均衡の原理」つまり「暴力の相互性」の倫理から、私と他者の「責務の非相称性」の倫理へと進んだ行程は極度の知的緊張だけが可能にしたものなのである。それはニーチェ以前的な境位への退行でもなく、凡庸なストック・フレーズの再録でもなく、長期にわたる苦渋にみちた省察の結論なのである。そのことは、倫理について徹底的な省察を試みたもう一人の哲学者が、カミュとほとんど同じ言葉を用いて語っているという事実から推し量ることができるだろう。私たちはこの論考の最後をエマニュエル・レヴィナスの言葉で閉じたいと思う。
「他者を尊重するとは、他者に一歩を譲るということです。『お先にどうぞ』と道を譲ることです。つまり紳士の礼節なのです。ああ、この表現はとてもぴったりしています。自分よりも先に人を行かせること。このちょっとした紳士的礼節のきらめきが他者の顔へ接近する一つの仕方なのです。けれども、どうして譲るのは『私』であって、『あなた』ではないのでしょうか?これは難しい問題です。というのも『あなた』もまた『私』に向かって近づいてきているはずだからです。けれども、紳士の礼節、あるいは倫理の本義とは、そのような相称性については論じないというところに存するのです。」(59)

【引用出典】
(1) Albert Camus, Interview à《Servir》,1945,in Essais, Gallimard, 1965, p.1427)
(2) フリードリヒ・ニーチェ、『悦ばしき知識』、(ニーチェ全集、第八巻)信 夫正三訳、理想社、1962年、pp.187-189
(3) ジョン・ロック、『政治論』、第9章、124節-127節
(4) ルイ・アルチュセール、『政治と歴史』、西川長夫他訳、紀伊国屋書店、
1974、p.28
(5) 同書、p.29
(6) 同書、p.30
(7) ニーチェ、『善悪の彼岸』(ニーチェ全集、第10巻)、信夫正三訳、理想 社、1967年、p.142
(8) 同書、p.144
(9) 同書.164
(10) ニーチェ、『道徳の系譜』、(ニーチェ全集、第10巻)、信夫正三訳、p. 165
(11) 同書、p.158
(12) 同書、p.155
(13) 同書、p.32
(14) 同書、p.34
(15) 同書、p.37
(16) 同書、p.31
(17) 同書、p.42
(18) ニーチェ、『道徳の系譜』、木場深定訳、岩波書店、1940年、p.22-23
(19)『善悪の彼岸』、p.273
(20) 同書、p.203
(21) 同書、p.269
(22) ニーチェ、『ツァラトゥストラ』、手塚富雄訳、中央公論社、1966年、 p.64
(23) 同書、p.67
(24)『善悪の彼岸』、p.284
(25)『道徳の系譜』、p.359
(26) 同書、p.351
(27) Edouard Drumont, La France juive, Marpon & Flammarion, 1886, tome I, p.5
(28)『善悪の彼岸』、p.293
(29) オルテガ・イ・ガセット、『大衆の反逆』、寺田和夫訳、中央公論社、
1971年、p.394
(30) 同書、p.430
(31) 同書、p.438
(32) 同書、p.433
(33) 同書、p.442
(34) 同書、p.442
(35) 同書、p.395
(36) ピーター・L・バーガー、『聖なる天蓋-神聖世界の社会学』、薗田稔訳、 新曜社、1979年、p.35
(37) Albert Camus, Le Mythe de Sisyphe, in Essai, Gallimard, 1965,p.108
(38) 同書、p.122
(39) 同書、p.12
(40) 同書、p.128
(41) 同書、p.124
(42) 同書、p.136
(43) 同書、p.117
(44) 同書、p.137
(45) 同書、p.143
(46) Camus, L'étranger, in Théâtre, Récits, Nouvelles, Gallimard, 1962, p.1166
(47) Ibid.
(48) Camus, Lettres à un ami allemand, in Essais, p.223
(49) Camus, Combat, 11 janvier, 1945
(50) Olivier Todd, Albert Camus, une vie, Gallimard, 1996, p.374
(51) Ibid., p.375
(52) Camus, L'étranger, p.1202
(53) Camus, L'Homme révolté, in Essais, pp.687-688)
(54) Ibid., p.687
(55) Ibid.
(56) Camus, La Peste, in Théâtre, Récits, Nouvelles, p.1425
(57) Ibid., p.1420
(58) Ibid., p.1426
(59) François Poirié, Emmanuel Lévinas, Essai et Entretiens, Babel,
1996, p.108