映画『Workers被災地に起つ』神戸・元町映画館でのアフタートーク

2020-03-02 lundi

去年の10月に元町映画館で『Workers被災地に立つ』というドキュメンタリー映画のアフタートークをした。ひどい風邪をひいている時で、微熱はあるし、咳は出るし、たいへんつらいトークだった。それでも必死に話をした。

 古くからの友人・平川克美君に頼まれて、映画『Workers 被災地に起つ』を2回観ました。2度見ると「なるほど、こういうことだったのか」と気づくことがありました。
 平川君は、国や地方自治体に頼ったり、力ある人から支援を引き出すのではなく、「弱者を支援するのは弱者である」とよく言っています。僕も同じ意見です。「公共を支えるのは公共ではなく、私人である」。
 公共というのは、そこに自然物のようにあらかじめ存在するものではなく、私人が「身銭を切って」立ち上げる他ないものです。
 ホッブスやロックの近代市民社会論によると、未開状態においては、全員が私的利害を排他的に追求する「万人の万人に対する戦い」が展開していたということになっています。しかし、全員がわれがちに私利私欲を追求していると、私利私欲が安定的に満たされない。それよりは私権の一部、私有財産の一部を「公共」に供託して、共同管理する方が私権・私有財産の保全上はむしろ有効だということに経験的に気がついた。そうやって人々が私権・私有財産を少しずつ供託することで「公共」が立ち上がり、近代国家ができた・・・というのがホッブスやロックが考えた近代市民社会論のアイディアでした。歴史的事実として「万人の万人に対する戦い」というようなことがあったのかどうかは定かではありませんが、近代国家、近代市民社会を基礎づけるアイディアとしては、僕はこれはよくできたストーリーだと思います。
 映画『マッド・マックス』や漫画『北斗の拳』は国家や市民社会が崩壊して、法律も実効力のある司法機関もない無法の世界を描いています。そこでの主人公のミッションは、弱い人たちを守り、理非の筋目を通し、じわじわと局所的に秩序を回復させてゆくという物語です。
 ハリウッド西部劇もそうです。無法者が支配する町にヒーローがやってきて、強きを挫き弱きを助けて、その町に局所的な秩序を立ち上げる。そういう物語が繰り返し量産されたということは、人々が「そういう物語」を求めていたということだと思います。
 これらの物語が教えているのは、誰かが自分の生命身体や財産や自由を公共のために差し出すことで、はじめてそこに公的秩序が生まれるということです。私人が公共を立ち上げるのであって、どこかから出来合いの公共がやって来るわけではありません。
 でも、実際には「公共なるもの」が自分の外側に自存していると信じている人があまりに多い。そして、何か困ったことがあると「公的機関が何とかすべきだ」と口を尖らす。もちろん、公的機関はそのために存在するのですから、そう権利請求は正当なのですけれど、それと同時に自分たちが「身銭を切る」ことでまず公共は成立したという前後関係を忘れてはいけないと思います。
 よく「タックス・ペイヤーとしての自覚を持て」ということを言いますが、これを「税金を払っているんだから、払った分だけ回収する権利がある」というふうに考える人はいささか底が浅いと僕は思います。私人たちが「払った分」を全額回収したら、公共は崩壊してしまうからです。「タックスペイヤーとしての自覚」とはむしろ「公共を適切に機能させる責任は自分たちにある」という自覚を持つことだと思います。  
 私物を公共的な場に供託して、そこに「コモン(共同管理地・入会地)」を立ち上げるという場面が映画『Workers 被災地に起つ』の中にはいくつも出てきました。映画の中で被災者の一人は「生き残ったことは、天から命を与えられたこと」だと語っていました。自分の命はもう「私物」ではない、それは公共のために活用すべきものだ、と。
 わずかな手持ちの資源、命や体力、善意を公共のために差し出そうとする人たちを映画は描いています。例えば限界集落化して、存亡の瀬戸際にある山里に行って、生業を受け継ごうとしている人々。
 真面目な社会派ドキュメンタリーなのですが、実は『マッド・マックス』や『北斗の拳』と同じ物語なのだと思います。映画の冒頭に登場する「ねまれや」の女性は、多世代の居場所をつくろうとして役所に支援を頼みに行くと、「人口が減っていく地域に、そんな施設など作ってどうするのか? そんな施設に経済合理性があるのか?」と言われて、「ムカついた」と感情的になるシーンがあります。この映画の中で「怒り」を表した場面は、たぶんこれが唯一だったと思います。しかし、この「怒り」は、この映画のテーマを集約的に表現していたと思います。彼女は「何のために公共があるのか?」という根源的な問いをここで提出していたのです。
 残念ながら、多くの役人たちは「公共は初めから、盤石のものとして、そこにある」と信じています。自分たちが私権の制限や私有財産の供託によってかろうじて存立しているという自覚がない。だから、自分たちの組織や既得権益を必死になって守ろうとする。ひどい場合には、公職にある人たちが、公的権力を私的に利用し、公共の財産を私物化している。
 僕が問題だと思ったのは、「公」と「私」についての基本的な常識が、日本ではほとんど教えられてないことです。ごく稀に、大きな事故や天変地異に遭遇したときに、人々は「公共」とは何かについて改めて考えさせられるけれど、ふだんはまず考えません。「ねまれや」の女性は公共は誰かに頼って、作ってもらうものではなく、身銭を切って、自分で立ち上げるしかないものだと自覚して、手持ちのものを差し出して、「小さな公共」を創り出しました。この映画では、すべてのエピソードが「小さな公共」を手作りした話です。

 僕は神戸市住吉に凱風館という道場を開いています。1階が道場で、2階が自宅です。それまでは市の体育館や大学の道場を使って稽古していましたけれど、稽古しようと思えば1年365日24時間いつでも利用できる場所がどうしても欲しかったので自分で作りました。主に合気道の稽古に使っていますが、その他の武道の講習会や伝統芸能の上演、映画会、シンポジウムなどにも活用しています。
 僕が凱風館を建てたのは、公共の場所として開放するためです。公共施設は使用に制約が多い。開館時間も短いし、休みも多いし、複数の団体とバッティングして取れないこともある。個人の道場であれば、僕が「いいよ」と言えば、早朝から夜遅くまで、休日でも盆や正月でも、使おうと思えばいつでも使える。私物の方が公共物よりも公共性が高いということがあり得る。だから、僕は私財を投じて公共的な空間を作ることにしたのです。
 凱風館は「貸しホール」ではありません。凱風館を使うためには条件があります。条件は一つしかありません。それは「この場に敬意を示す」ということです。
 この道場は、ここで稽古しているみんなが、それぞれ手持ちのものを差し出してできた公共の場です。ですから、利用するときはそれに対して敬意を払ってもらいたい。それはただ道場に入るときに、一礼するというだけのことです。でも、それは絶対に必要なことです。場に対する敬意、公共に対する敬意を示して欲しい。
 僕は稽古の前に門人たちと対面して「お願いします」と一礼し、稽古が終わったときには「ありがとうございました」と一礼します。これは「場」に対する礼のつもりで行っています。「これからよい稽古ができますようにお願いします」と道場にお願いし、「よい稽古ができました。ありがとうございます」と道場にお礼を申し上げている。
 野球では試合開始のときにピッチャーが帽子をとって一礼します。あれと同じです。あれはアンパイヤに「審判よろしく」と礼をしているのではなく、ボールに向かって「これからしばらくの時間、最高のボールゲームができますように」と祈願しているのです。それと同じです。
 公共を立ち上げるためには、敬意が必要です。ただ私財を投じ、私権を委譲しただけでは「コモン」はできません。プラス「場に対する敬意」がなければ公共は成立しません。

 21世紀の日本はこれから急激な人口減と高齢化局面を迎えます。予測では、21世紀末の日本の人口は上位推計で6450万人、中位推計で4950万人、最少では3800万人となります。今1億2700万人ですから、中位推計でも7000万人減る。
 人口減は世界中で進行しています。日本が高齢化では世界一ですが、欧米もアジアもすぐ後に続いています。韓国も少子高齢化局面に入りましたし、中国は「一人っ子政策」のせいで、このあと劇的な人口減局面に入ります。15億人でピークアウトした後に世紀末には7億人に半減すると予測されています。これほどの人口減を人類は経験したことがありません。だから、何が起こるかわからない。
 今の社会システムはすべて「右肩上がり」の経済成長を前提にしています。人口減局面を生き延びるためには選択肢は2つしかありません。
 一つは都市一極集中。今の日本の政官財が考えているのはこれです。すべての資源と人口を首都圏の狭い範囲に集める。人口が減っただけ集住する地域を狭くする。そうすれば、仮に人口が半減しても、都市の風景は今と変わりません。その代わり首都圏の外には無住の地が広がることになる。無住の地には交通や通信や上下水道のようなインフラを整備する必要がありません。行政コストは限りなく抑制できる。「人を狭いところに集める」、今政府が考えている人口減対策はそれだけです。小泉進次郎環境大臣が先日語った「もう人口減少、嘆くのやめませんか」と言うのは、具体的にはこのことです。
 シンガポールは人口560万人、面積720平方キロ。人口は日本の4%、国土は日本の0.2%しかありませんが、一人当たりGDPは世界8位で、26位の日本の1.6倍です。土地もない、自然資源もない、食糧も飲料水さえ自給できないシンガポールがこれだけ繁栄しているのは「経済成長」が国是だからです。それだけではありません。シンガポールは建国以来一党独裁で、治安維持法があって令状なしに反政府的な人物を逮捕拘禁できて、反政府メディアも労働運動も学生運動も存在しません。この国がおそらく今の政権にとっての「人口減局面でのモデル」だと思います。
 行政コスト削減のために、首都圏以外を無住の地にするというのが基本構想ですから、東日本大震災の復興が進まないのも当然です。「ねまれや」の女性に行政が告げたように、「人口が減っていく地域に、そんな施設など作ってどうするのか?」ということです。
 政府は東京オリンピックを「復興五輪」などと言っていますが、隠された目的は東京にすべての資源を集中させて、地方を枯渇させることです。政府は東北の復興に予算を使う気はないし、福島の原発の除染も本格的にやる気はありません。「どうせいずれ誰も住まなくなる土地なんだから、そんなところを『人が住めるようにする』のはまるで無駄だ」と思っているからです。
 地方の無住化・日本のシンガポール化しか政府に策はありません。たしかに人口減局面でなお経済成長しようという無理なことを実現するならシンガポールモデル以外に選択肢はないのです。でも、政府や財界は彼らが「シンガポール化」をめざしていることを決して公言しません。東北復興や福島の除染をだらだら進めているうちに、東北の人口が減ってゆく。やがて「人が減ってゆく地域に予算を投じるのは金をドブに棄てるようなにものだ」という世論が形成されるのを待っているのです。でも、今それを言ったら地方の選挙区では自民党に入れる有権者はいなくなる。あっとうまに政権は倒壊する。だから、その方向に政策を着々と手を打ちながら、自分たちが何を目指しているのかについては口を噤んでいる。
 でも、もうひとつのシナリオがあります。それは「経済成長をもう目指さない」ということです。そらなら東京への資源一極集中の必要はありません。むしろ、地方に離散する。
 今、若い人たちが地方に移住して、第一次産業に就く動きが出てきました。こちらの方が生活の質を考えたら、明らかにアドバンテージがある。東京一極集中ということになると、生業の選択肢は資本を持たない若者には賃労働以外にはありません。定型的な賃労働と定型的な消費生活を強いられる。快適で文化な生活を維持しようと思うならむしろ地方にチャンスがある。そのことを直感しているからこそ若者たちの地方移住が続いているのだと思います。
 今、僕たちは人類の文明史的転換点に来ています。僕の周りでも、若い人たちがどんどん地方移住を始めて、農業林業のような第一次産業に就いたり、本屋やカフェを営んだり、図書館を開いたり、出版社を立ち上げたり・・・いろいろな仕事を始めています。
 日本には温帯モンスーンの豊かな風土があり、植物相も動物相も多様だし、温泉やスキー場などの観光資源も豊かだし、食文化も芸能も世界的レベルですし、教育も医療も高水準です。経済成長にこだわらずに、この豊かな資源を活用する仕方に知恵を使うべきだと僕は思います。
 この映画は、林業を営む限界集落の再生という話も取り扱っています。鱒淵という中山間地に、年間2世帯ずつ人が戻ってくれば、人口は定常化するという話が出てきます。この「定常化」ということがこれから先の地方再生の基本になると思います。もう右肩上がりで人口が増えたり、右肩上がりで経済成長することはあり得ないのです。それでも定常的な経済活動を維持することはできます。
 定常経済というのは新規の需要が発生せず、買い替え需要しかない経済のことです。だから、投機的に株を買っても儲からない。それじゃ意味がないと思う人がいるかも知れませんけれども、それでも出資する人はいるはずです。その商品やサービスが安定的に供給されることそれ自体を「配当」として受け取る人たちが株を買う。自分が出資することで「必要なものが、必要な場所で、必要なときに手に入る」のならそれ以上は求めないという人たちが経済活動を動かしている限り、経済成長の必要はありません。
 今日本の政官財は東京一極集中プランにはっきり舵を切りました。日本の農業や林業も切捨てるつもりです。しかし、多くの国民は、故郷が無住の地になり、地方が切り捨てられるというシナリオの現実性にまだ気が付いていません。この流れに抗して、もう一度地方を住みやすい場所、住み甲斐のある場所にしてゆくことが、これからのわれわれの仕事だと思います。