国語教育について

2020-01-06 lundi

去年国語教育について、国語科の教員の先生たちの集まりで講演した。もうだいぶ前のことである。同じようなことはこれまでもブログに書いてきたけれど、たいせつなことなので、何度も繰り返して言い続ける。


 今日は国語教育についてお話しいたします。多分、現場の国語の先生たちはとても苦しい立場に置かれて、これから先、どのようにして国語教育を進めていったらいいのか、正直言って分からないというところにいるのではないかと思います。今度、学習指導要領の改定がありまして、これまでとずいぶん違った形で、国語教育を進めなければいけなくなりそうだということこの間ずっと話題になっています。論理国語と文学国語という区分が何を意味しているのかよく分からない。
 先般、今日の講演の打ち合わせのためにいらっしゃった先生方と早速その話になりまして。「論理国語って何ですか、一体。意味が分からないです」と伺いました。ネット上では、かなり批判的なことが書かれていましたけれども、「論理国語」の実体が分からないので、コメントしようがない。
 そうしたら、そのときにいらっしゃった先生が、論理国語の模試の試験なるものを見せてくれました。ご存じの方も多いと思うのですけれども、生徒会の議事録と生徒会の規約が掲載されていて、その議事録と生徒会の規約の文言を読んで、年度内に生徒総会を開くことは可能かどうかについて答えよというのが「論理国語」の模試問題でした。思わず、天を仰いで絶句しました。
 どうやら、論理的な思考力というのを、契約書を読んだり、例規集を読んだり、マニュアルを読んで理解する能力のことだと考えた方が作問したようです。これはいくら何でも「論理」というものについての理解が浅すぎます。
「論理的にものを考える力」それ自体はたいへんけっこうなものです。文章の階層構造を理解したり、断片から全体の文脈を推理する力は複雑な文章を読む上では必要不可欠ですから。でも、申し訳ないけれど、規約とか契約書というのはまったく「複雑な文章」ではありません。誤解の余地のないように、一意的に理解されるように書かれたものです。そういう「可能な限り簡単に書かれたテクスト」を読むために、わざわざ「論理国語」というかたちで教育内容を分離して、従来の国語では教えられなかったことを教えるということの意味が僕にはわからない。そんなものを「論理」とは呼ばないだろうと思いました。
 論理国語の問題を読まされて、「論理とは何のことか?」と改めて考えました。まずその話をします。

「論理的に思考する」というのは、僕の理解では、断片的な情報を総合して、一つの仮説を立て、それを検証し、反証事例に出会ったら、それを説明できるより包括的な仮説に書き換える・・・という開放的なプロセスのことだと僕は思います。
 僕自身の子ども時代のことを回顧すると、最初に「論理的に思考する知性」に出会ったのは、エドガー・アラン・ポウの『黄金虫』だったと思います。小学校4年生ぐらいのときのことです。
 主人公は砂浜で拾った羊皮紙の断片をキッド船長の宝物の地図だと仮定して、暗号を解読し、ついに海賊の宝を見付けるという話です。ポウ自身が暗号の専門家であったせいで、この暗号解読のプロセスは本当にどきどきします。
 ポウはオーギュスト・デュパンという名探偵も造形しています。『モルグ街の殺人』と『盗まれた手紙』でデュパンは大活躍しますけれど、これもまた、胸躍る読書経験でした。どちらの物語でも、ふつうに考えたら「ありえない仮説」をデュパンは立てるのです。でも、断片的な事実を総合すると、「それ以外の仮説では、このすべてを説明することができない」というふうに推理する。
 名探偵の推理が凡庸な警察官の推理と違うのはそこです。警察官の推理がある限界を超えられないのに対して、名探偵はその限界を軽々と超えてしまう。「たしかに論理的にはそういう仮説もありうるけれど、常識的に考えて、そんなこと、あり得ない」というふうに凡庸な知性はある時点で立ち止まって、論理をそれ以上進めることを止めてしまう。論理が「この方向に進め」と命じているのに、「常識的に考えて、それは無理」という縛りにとらえられて、足を止めてしまう。
 名探偵の名探偵たる所以は、そこで「足を止めない」ということです。論理がそちらを指すなら、どんな「あり得ない」仮説であっても、とりあえずそれを受け入れて、検証してみる。この「大胆さ」が実は論理性ということの実体なのだと思います。
『黄金虫』の「私」が最終的に海賊キッドの宝を見つけることができたのは、最初に羊皮紙を拾ったときに、「これは海賊の宝の地図ではないか」という「あり得ない仮説」を立てたためです。確率的には散歩していて、海岸で海賊の宝の地図を拾うというようなことはあり得ません。でも、「私」は「そういうことも万が一あるかも知れない」というふうに解釈可能性を広げて現実を観察した。確率的にどれほど低くても、論理的にはあり得るなら、「あり得る」という可能性を捨てない。それが論理的知性というものの本質的な働きだと僕は思います。

 そうやってポウから推理小説に入って、当然、その後は、コナン・ドイルのシャーロック・ホームズに行きつくわけです。10歳から12歳くらいのときに、僕はホームズを耽読しましたけれど、そのときに僕はたぶん「論理的に思考する」とはどういうことかということの基本を刷り込まれたと思います。それは「大胆さ」ということです。
「ある前提から論理的に導かれる帰結」のことを英語では「コロラリー(corollary)」と言います。日本語にはこれに当たる適切な訳語がありません。コロラリーはしばしばわれわれの常識を逆撫でし、経験的な知識の外側にわれわれを連れ出します。僕は「論理的に思考する」というのは、それがどれほど非常識であろうと、意外なものであろうと、論理がその帰結を導くならば、自分の心理的抵抗を「かっこに入れて」、それをとりあえず検証してみるという非人情な態度のことだろうと思います。
 シャーロック・ホームズの推理がまさにそうです。ホームズとスコットランドヤードの刑事たちは犯罪現場で同じ断片を前にしています。そこにある全ての事実を説明できる「ストーリー」をホームズはみつけようとする。警察官たちは、そうではありません。いくつかの事実については、それらを「なかったこと」にして、残った事実を説明できる「よくある仮説」を選好する。ホームズとの違いはそこです。ホームズはすべての断片がぴたりと収まる「ストーリー」を探す。警官たちは、まず蓋然性の高い「ストーリー」を考えて、それに当てはまる断片だけを拾い上げて、当てはまらない断片は捨てる。
 ホームズの論理性と、警官たちの論理性の違いは、そこにあり、そこにしかありません。すべての断片を説明しようとすると、探偵はしばしば「あり得ないような、とんでもない仮説」を採用しなければならない。警官たちは、それを恐れます。できるだけ「よくある話」に回収したい。でも、ホームズは「よくある話」に収めることには何の関心もない。すべてを説明できる仮説がどのような法外な物語であっても、それを恐れない。

 途中までは論理的に思考しながら、ある時点でそれ以上の可能性を吟味するのが怖くなって、思考停止すること、それが「非論理的」ということです。それが探偵小説に出てくるすべての凡庸な警察官たちに共通する弱点です。あるところまでは、名探偵と一緒に論理的に思考するのだけれど、ある限界に達すると、目を背けて、思考を停止する。「こんなこと、あるはずがない」という自分の日常的な感覚を論理よりも優先させる。
 論理的にものを考える人間と考えられない人間の違いはここにあると僕は思います。
 論理的に思考するというのは幅跳びの助走のようなものです。ある程度速度が乗って来て、踏み切り線に来た時に、名探偵はそこで「ジャンプ」できる。凡庸な警官たちは、そこで立ち止まってしまう。まさに「ここで跳べ」という線で立ち止まってしまう。論理性とはつきつめていえば、そこで「跳ぶ」か「跳ばない」かの決断の差だと思います。
 長じてから、これは探偵小説に出て来る名探偵たちだけでなく、すべての卓越した知性に共通する特性だということに気づきました。卓越した知性と凡庸な思考の決定的な差は知的能力の量的な違いではありません。「跳ぶ」勇気があるかどうか、大胆であることができるかどうか、それだけなのです。

 例えば、ジークムント・フロイトがそうです。フロイトの『快感原則の彼岸』は間違いなく20世紀で最も読まれ、最も頻繁に引用されたテクストですけれど、この中でフロイトは徹底的に論理的に思考することを通じて、「強迫反復」と「タナトス」というわれわれの常識を逆撫でする概念を提起しました。
 フロイトの立てた問題は「なぜ人間は不快な経験を反復するのか?」という問いでした。不快な経験は不快なわけですから、快感原則に従うなら、不快な過去の記憶は忘却された方がいい。けれども、トラウマ的な経験をした人たちはそれを繰り返し悪夢に見て、悲鳴を上げて起き上がる。なぜ人は不快な経験を反復するのか。
 その症例研究から始めて、フロイトは「反復すること」への固執は「快・不快」よりも優先するという命題を「論理的」に帰結します。そして、そこから「タナトス(死への欲動)」というまったく「非常識な」仮説を導き出す。
 観察したすべての症例を説明するためには、人間には死への欲動があると仮説せざるを得ない、と。このときにフロイトは「跳んだ」わけです。
 このときに、フロイトは「思弁」という言葉を使います。これから、私が述べることは思弁的である。現実の生活実感の裏づけがない。市民的常識を逆撫ですることかも知れない。けれども、症例研究からの論理的帰結はこれしかない、と。「死への欲動」は厳密なコロラリーである、と。
 僕が『快感原則の彼岸』を読んだときに、一番震えたのは、結論の「死への欲動」という概念そのものの意外性のもたらす衝撃ではなく、フロイトが具体的な症例研究から始まって、「強迫反復」と「タナトス」に至るときに、ある踏み切り線を「跳び越えた」ことについてです。「すごい」と思いました。「勇敢だなあ」と思った。この人は自分の論理性に体を張っていると思った。「こう、こうなら、論理的帰結はこうしかないか。世間の人が何と言おうと、常識が何と言おうと、論理的にはこう結論するしかない」というフロイトの豪胆さに、僕は震えたのです

 カール・マルクスもそうです。マルクスは『共産党宣言』で歴史上の四つの社会的対立の事例を取り上げて、歴史の動力は階級闘争であるという結論に一気に持ってゆく。四つの個別的な事例から「すべての・・・は・・・である」という全称言明を導くのは帰納的推理の仕方としてもいささか乱暴に過ぎるんですけれど、手順としては「これらすべてを説明できる一般的な法則はこれしかない」というかたちで「跳ぶ」わけです。
 マックス・ウェーバーもそうです。『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』の冒頭で、ウェーバーは「これから資本主義の精神とプロテスタンティズムの倫理の関連について話そうと思うが、『資本主義の精神』というのは単なる仮説にすぎない」と断定します。「資本主義の精神」というのは自分の脳内に浮かんだ一つのアイディアに過ぎない。これまで誰もそんなものがあると言ったことがない。でも、自分はそれを思いついてしまった。何だか知らないけれども、「資本主義の精神」というものがあるのではないかという気がしてきた。もし、そのようなものがあるのだとしたら、それがどのようなかたちを取って現れてくるのか、その具体的な事例をいくつか例示してゆこうと思う、と。そういうふうに話を始めるわけですね。
 これは名探偵の推理の仕方の本質を、いわば裏側から明らかにしているんだと思います。結論がいま頭の中にぽっと浮かんだ。どういう根拠でそういうアイディアが浮かんだのか、まだ自分にはわからない、というところから話を始める。推理が逆転しているのです。どうして自分はこんな結論を思いついたのか、何を見てそう直感したのか、それを逆方向に遡行してゆく。それが『資本主義の精神』におけるウェーバーの手法なのですけれど、これはたしかに名探偵の推理の本質なんです。
 さきほど名探偵は「散乱している断片をすべて説明できるストーリーを見つける」というふうに言いましたけれど、ほんとうは違うんです。名探偵はなぜか最初に「犯人はあいつだ」ということがわかってしまうんです。わかった後に「どうして私はあいつが犯人だとわかったのか」という問いを遡行していって、自分が直感した根拠となった「断片」を列挙してゆくのです。
 これは卓越した知性についてはだいたいそうなんです。たしかに論文を書くときには、いくつかの実証された事実を前にして、それらをすべて説明できる仮説を立てる、という順序で進むんですけれど、実際に脳内に起きているのは「結論が先」なんです。いきなりアイディアが浮かぶ。どうしてその結論に自分は立ち至ったのか、何を見て、私はそう思ったのか、・・・というふうに時間を遡って、自分が着目した断片的事実を列挙してゆく。
「資本主義の精神」というアイディアがふとウェーバーの頭に浮かぶ。きっとそういうものがあるに違いないという気がする。でも、どうして「そんなこと」を思いついたのだろう。おそらく、何かを見て、そう思ったのだ。さて、私は何を見たのか。これがウェーバーの推理の順序です。

 シャーロック・ホームズにはモデルがいるということをご存じでしたか。コナン・ドイルがエンジンバラ大学の医学部の学生だった頃の先生でジョセフ・ベルという人がいました。その人がホームズのモデルです。
 ベル先生は初診の患者が診察室に入ってきて、椅子に座るまでの数秒間の観察だけで、その人がどこの出身で、職業が何で、家族構成がどうで、どういう既往症を患っていて、今回どういう病気で診察に来たのかをずばりと言い当てたそうです。コナン・ドイルたち医学生は後ろでベル先生の超人的な診断を聴いて肝をつぶしたそうです。
 ホームズがワトソン博士とはじめて会ったときに、アフガニスタンから負傷して戻ってきた軍医だということをずばりと言い当てる『緋色の研究』の冒頭シーンはベル先生の診断を下敷きにした逸話です。
 ベル先生の場合は「どういうわけか」わかってしまう。医学生たちが「どうしてわかるんですか?」と質問したらあるいは何を観察してそう判断したのか、二三の断片を示して教えてくれたかも知れませんけれど、実際には数秒間のうちに患者が発信している膨大な量の断片的情報をスキャンして、そういう結論に達していた。結論はわかった。でも、自分がどうしてそういう結論に達したのか、自分は何を「見た」のか、それは時間をかけないと言えない。

「論理国語」を別建てにするというのでしたら、「論理的に思考するとはどういうことか」ということについてこの程度のことは考えて欲しいと思います。過去の卓越した知性がどのように論理的に思考してきたのか、それについて一秒でいいから考えてから「論理」というような言葉は口にして欲しい。「論理」という語を生徒会規約と議事録を読んで年度内に生徒総会の開催が可能かどうかを「推理」するというような知性の行使について使うのは、言葉の誤用だと僕は思います。そんな「推理」のためには論理的知性なんか要らないから。論理的知性というのは、「跳ぶ」能力のことだからです。

 レヴィ=ストロースもやはり「20世紀で最も頭のいい人」の中の一人だと僕は思っています。レヴィ=ストロースも論理的に助走してから「跳ぶ」人です。
『悲しき熱帯』は彼がブラジルのマト・グロッソのインディオたちの生活を観察したフィールドワークですけれど、レヴィ=ストロースは観察しているうちに、文化人類学者である自分自身の思考形式、自分自身の論理形式そのものが実はヨーロッパに固有の「民族誌的偏見」ではないのか、という疑問に取り憑かれます。この世界には、自分たちがしているのとは違う論理形式で思考している人がいるのではないか・・・と思い始める。インディオたちは、未開人だから、文明人であるヨーロッパ人よりも幼児的な仕方で思考をしているので、いずれ「開花」されると、ヨーロッパ人と同じように思考するようになる。というのが進化論以後の「ふつうの考え方」でしたが、レヴィ=ストロースはそれを退けます。彼らの理解しがたい様々な制度や習慣は「幼児的」であるのではなく、われわれとはまったく独自の体系と論理をそなえてすでに完成された一つの世界理解の方法に基づくものではないのか。彼らの「野生の思考」もまた人間が達成した堂々たる文明史的な到達点の一つであり、その知的な尊厳・威信に対して、われわれはそれにふさわしい敬意を示すべきではないのか、と。
観察事例を説明できる仮説を論理的に求めているうちに、「自分が現に思考しているプロセスそのものが一個の民族誌的偏見ではないのか」という懐疑にとらえられる。現実にレヴィ=ストロースが観察したことを論理的につきつめてゆくと、それが導くコロラリーは「われわれヨーロッパ人が『論理的』だと思っている思考の仕方とは別の仕方でも人間は論理的であり得る」というものでした。おのれの論理性の極限において、おのれの論理性の限界に出会い、そこから翻って、おのれの思考を律している臆断そのものを可視化してゆく。レヴィ=ストロースはそういうアクロバティックなことをしてみせたわけです。僕はこういうものを真の論理性と呼びたいと思います。
 レヴィ=ストロースは目の前の事象を説明しようとして、手持ちの論理を限界まで駆使した結果、この「手持ちの論理」そのものが、一般性を要求することのできない、地域限定・時代限定のものではないかという懐疑に囚われました。
 フロイトのタナトスにしても、マルクスの階級闘争にしても、マックス・ウェーバーの資本主義の精神にしても、レヴィ・ストロースの「野生の思考」にしても、ある思考の枠組みの中から出発して、論理的な手順をていねいに踏んで、そして、自分たちを規制している思考の見えざる枠組み、自らの思考を律している臆断を可視化する。真の知性の働きはそこにあると思います。
 子供たちに学校教育を通じて何を教えようとしているのか。もし、子供たちの中で知性が活発に働くことを教えようとしているのだとしたら、子供たちに教えるべきことは「知性はジャンプする」ということだと僕は思います。

 しかし、実際に、子供たちも「ジャンプ」しているのです。それは子供を観察しているとわかります。子供たちを自然の中に連れていって、そこにしばらく放置していると、わかる。子供たちの知性は「論理的に」活動し始めるのが観察されます。
 養老孟司先生が、「子供たちなんて学校で教育なんかすることないんだ。自然の中に放り込んどきゃいい」と割と乱暴なことをおっしゃいますけれども、これは一理あるのです。子供たちを自然の中に連れて行って、ゲーム機や携帯やマンガや玩具の類を全部取り上げてしまう。何も持たせずに、ぽんと自然の中に放り出しておく。するとどうなるか。子供たちは死ぬほど退屈する。まず退屈するというのがとてもたいせつなのです。
 退屈しのぎに、子供たちは必ず何かを観察し始めます。ほうっておいても、そうなります。退屈しているんだけれど、手元に退屈をまぎらわすための道具が何もない。そんなとき、人間は何かをぼんやり観察し始めます。空の雲を見たり、鳥の声を聴いたり、虫を眺めたり、川の流れを見たり、海の打ち寄せる波を見たり。何か自分の好みの対象を選んで、それをぼんやりと観察し始める。
 最初のうちは、ただぼーっと見ているだけです。自然をぼんやりと観察している。でも、そのうち、何かの弾みで、子供の目がきらりとする瞬間がある。それは「パターン」を発見したときです。
 自分の前に展開しているランダムな自然現象の背後に、実は法則性があるのではないか・・・というアイディアが到来したときに、子供の目がきらりと光る。そういうものなんです。一見するとランダムに生起する事象の背後に数理的な秩序があるのではないか、という直感が到来する。雲の動きでも、虫の動きでも、波の動きでも・・・ずっと観察しているうちに、そこに繰り返しある「パターン」が再帰しているのではないかというアイディアがふと浮かんでくる。そうするといきなり集中力が高まる。もし自分の仮説が正しければ、「次はこういう現象が起きるはずだ」という未来予測が立つからです。果たして、その予測通りの現実が出来するかどうか・・・子供だって、そのときは息を詰めるようにして、次に起きることに意識を集中させます。
 うちの娘は、子供の頃、とても植物が大好きでした。小学校はすぐ近くで、子供の足で歩いても5分もかからない一本道でした。学校が終わって、友達が遊びにきて、うちの娘は、るんちゃんというのですけれど、「るんちゃん、いますか?」と訊くから「え、まだ帰ってないよ」と言うと「おかしいなあ。一緒に出たのに」と言う。自分たちは一度家に帰って、ランドセルを置いて、それからうちに遊びに来ているのに、学校から一番近いうちの娘だけがまだ帰っていない。
 気になって、とことこ坂道を降りて学校の校門の方に向かったら、坂の途中にいました。しゃがみ込んでいる。何をやっているのだろうと思って、遠くから見ていたら、道ばたの雑草をじっと見ているのです。ずいぶん長いこと見ていて、そのうちに、「ふう」とため息をついて、立ち上がって、歩き出す。でも、また数歩歩いて違う雑草を見付けると、立ち止まって、座り込んで、また観察を始める。
 遠くから娘の姿を見ながら、ちょっと声をかけるのがはばかられました。それくらいに深く観察対象にのめり込んでいたから。きっと、何か植物学的な仮説を立てて、それを実物に即して検証していたところなんだと思います。ある法則性を発見したことに興奮して、友だちと学校が終わったら遊ぼうねと約束していたことも忘れて、植物の観察にのめりこんでいた。そういうものだと思います。
 自然の前に子供を長時間放置しておくと、いずれ何かを選んで観察し始める。そして、パターンや法則性を発見したと思うと深く対象に沈潜してゆく。自分で仮説を立てて、その仮説を実験的に検証しているときの顔は、それが子供でも、ノーベル賞級のアイデアを思いついて実験で検証しているときの科学者の顔とあまり変わらないんじゃないかと思います。たぶんそれこそ人間が最も知的に高揚するときだから。ふと思いついた仮説が現実に適用できるかどうか、実験してその結果を待っているときの高揚感にまさるものはありません。

 子供たちを知的に成長させるために必要な経験は、極言すれば、それだじゃないかと思います。世界の背後には数理的で美的な秩序が存在する。そう直感して、その秩序の一部を自分がいま発見したという高揚感。これは探偵の推理と同じですね。断片的に散乱している事象の背後に、きれいな1本のストーリーが見えたと感じたときに探偵が感じる達成感。平たく言えば、これが論理的であることの「報奨」だと思うのです。
 自然科学というのは、まさにそういうものです。ある仮説を思いつく。実験でそれを検証する。反証事例が見つかる。仮説を書き換える・・・この無限のサイクルが自然科学的に思考するということです。信仰を持つこともそうです。一見するとランダムに見える事象の背後に「神の摂理」が働いていると感じること。宗教的知性と科学的知性は構造的には同じものなのです。だからニュートンのライフワークが聖書解釈であり、伝道の実践だったということには少しも不思議はない。
 ネガティヴなかたちでは、陰謀史観もそうです。すべての政治的・経済的事件の背後にはユダヤ人の世界政府がいる、フリーメーソンがいる、イリュミナティがいる、コミンテルンがいる・・・という類の理論は思考パターンとしては同一です。一見すると無関係に見えるさまざまな事象が「すべてを差配している張本人」を仮想するとみごとに説明がついてしまう。その高揚感と全能感があまりにも大きいので、人々は簡単に陰謀史観にアディクトしてしまう。
 でも、これは確かに責められないわけで、「複雑に見える事象の背後にはシンプルなパターンがある」という直感ほど人をわくわくさせるものはないからです。だから、陰謀史観というのも、幼児的ではあるけれど、ひとつの知性の活動ではあるのです。ただ、そういうものに溺れるのは、子供の頃から世界を観察して、繰り返し自力で仮説を立て、そのつど知的高揚を味わった・・・という仕方で論理を突き詰めた経験を持たなかった人たちなんだと思います。子供の頃から「知的興奮」をし慣れていたら、こんな薄っぺらな仮説には何の知的高揚も感じないはずだからです。そんな単純な説明のどこが面白いのか、さっぱりわからないから。だから、そんなものは相手にしない。子供のころから繰り返し「宇宙の真理を発見した!」とひとり興奮しては、「あ、違った・・・」という落胆を味わうということを繰り返ししてきた人は、こんなシンプルなストーリーにはひっかかりません。

 学校教育で教えるべきことは、「跳ぶ」ことの喜びだと先ほど申し上げました。目の前に散乱している断片的な情報や事実を観察しているうちに、すべてを説明出来る仮説を思いつく。おお、ついに統一的で、包括的な真理を発見したと思って、欣喜雀躍する。論理的思考が導くならば、それがどれほど法外な「コロラリー」であっても、それを検証しようとする。それが「跳ぶ」ことです。
 でも、「跳ぶ」ためには勇気が要ります。ある程度までは論理的に思考しながら、最後に「そんな変な話があるものか・・・」と言って、立ち止まって、論理が導く結論よりも、常識の方に屈服してしまう人たちがいます。彼らに欠けているのは、知性というよりは勇気なんです。
 今の日本の子供たちに一番欠けているのは、こう言うと驚かれるかも知れませんけれど、知力そのものではなくて、知力を駆動する勇気なんです。自分の知力に「跳べ」と言い切れる決断力なんです。
 でも、子供たちに向かって「勇気を持ちなさい」と語りかける言葉を学校で聞くことはほとんどありません。文科省がこれまで書いた教育についての指示や提言を読んでも、そこに「勇気を持て」という文言はまず出て来ません。逆です。文科省が教員や子供たちに語って聞かせているのは、いつでも「怯えろ」「怖がれ」ということです。学力がないと社会的に低く格付けされ、人に侮られ、たいへん不幸な人生を送ることになる。それがいやなら勉強しろ・・・というタイプの恫喝の構文でずっと学習を動機づけようとしてきました。
 知性は勇気によってドライブされるという言明を過去に日本の教育行政が認めたことは一度もないと思います。でも、僕が見て来た限り、すべての卓越した知性は、世間の誰もが同意しないアイディアについても、自分の直感を信じて、それを現実で検証してみせた。

「勇気」という言葉で、最も印象に残っているのは、スティーブ・ジョブズのスタンフォード大学の卒業式の式辞です。今もYouTubeで検索すれば見られます。感動的なスピーチでした。
 ジョブズがスタンフォード大学の卒業生たちに向かって言ったのはこういう言葉でした。The most important is the courage to follow your heart and intuition, because they somehow know what you really want to become
「最も重要なのは、あなたの心と直感に従う勇気です。なぜなら、あなたの心と直感は、あなたが本当は何になりたいのかをなぜだか知っているからです。」
 このステートメントでのキーワードは「勇気(courage)」です。気をつけてください。ジョブズは「あなたの心と直感に従うこと」が最も大切だと言っているのではありません。「あなたの心と直感に従う勇気」が最も大切だと言っているのです。それは「あなたの心と勇気に従う」ことを周りが許さないからです。「何をバカなことを言っているんだ」「そんな非常識なことを誰が認めるものか」。必ず反対される。ほとんどの若者たちは、ある時期になると「こういう生き方をしたい」「こういうことを学びたい」「こういう仕事をしてみたい」というアイディアを抱きます。その多くはたしかに「心と直感」がもたらしたものです。でも、ほとんどの若者はそれを実現することができません。周りが反対するからです。「そんな夢みたいなことができるものか」「分相応の生き方をしろ」という言葉で回りが冷水を浴びせかける。そして、実際に、多くの若者はそれでしょんぼりして、自分の「心と直感」が教える「自分がほんとうになりたいもの」になれずに終わる。彼らに欠けていたのは何でしょう。こういうふうに生きたいというアイディアはあったんです。こういうことがしたいという欲望はあったんです。でも、それに従う勇気がなかった。
 心に浮かんだ夢を実現するためにはいろいろな社会的能力が要ります。お金やコネクションや、幸運も要ります。でも、心と直感に「従う」ためには、とりあえず勇気さえあればいいんです。そこからしかものごとは始まらない。最初の一歩は「勇気」なんです。
 子供たちにほんとうに伝えなければいけない言葉は、「親が反対しても、教師が反対しても、友だちが反対しても、世の常識が反対しても、それでも自分の直感と心に従う勇気を持ちなさい」ということなんです。でも、おそらくそれは今の学校教育で最も教えられていないことだと思います。(後略)