Give democracy a chance

2020-01-07 mardi

毎日新聞に安倍政権の本質についてのインタビューを受けた。ブログにロングヴァージョンを公開しておく。

 安倍晋三首相の、戦後日本の自民党政治の中でも極めて特異な政治手法が、この「桜を見る会」で可視化されまたと思います。
 自民党が長期にわたって与党でいられたのはイデオロギー政党であるよりは、広範な国民の欲求を受け入れる国民政党を目指してきたからです。自民党の調整型政治の根底にあったのは「国民同士が敵対するような事態は何としても避けなければならない」という信念でした。国民は統合されていなければならない。国論が二分されるような状況が長く続くと、国力は衰微するという常識はひろく共有されていたと思います。
 戦後日本で国論の分裂が際立ったのは、1960年の日米安全保障条約改定の時です。当時は安倍首相の祖父・岸信介が首相でした。でも、これは戦後史上、例外的な事態だったと思います。ですから、その後に登場した池田勇人は、政治的対立を避けて、国民全体が政治的立場にかかわらず共有できる目標として「所得倍増」を掲げた。経済成長の受益者には右も左もありませんから。
 池田内閣の経済政策を主導したのは、大蔵官僚の下村治ですけれど、彼は「国民経済」という言葉をこう定義しました。
「本当の意味での国民経済とは何であろう。それは、日本で言うと、この日本列島で生活している一億二千万人が、どうやって食べどうやって生きて行くかという問題である。この一億二千万人は日本列島で生活するという運命から逃れることはできない。そういう前提で生きている。中には外国に脱出する者があっても、それは例外的である。全員がこの四つの島で生涯を過ごす運命にある。その一億二千万人が、どうやって雇用を確保し、所得水準を上げ、生活の安定を享受するか、これが国民経済である。」(下村治、『日本は悪くない 悪いのはアメリカだ』、文春文庫)
 今の自民党議員たちの過半はこの国民経済定義にはもはや同意しないでしょう。「外国に脱出するもの」をもはや現政権は「例外的」とは考えていませんから。
 今の政府が若い日本国民をその型にはめようとしている「グローバル人材」なるものは「日本列島以外のところで生涯を過ごす」ことも社命なら従うし、非正規雇用も受け入れるし、所得の上昇も生活の安定も望まないと誓言する代償に内定をもらった若者のことだからです。
 国民全体が同時的に潤う(あるいは「協和的な貧しさ」のうちに安らぐ)ということをもう現在の政府はめざしていません。「選択と集中」とか「トリクル・ダウン」とかいうのは、平たく言えば「勝てるやつに資源を全部集めろ(勝てないやつは「おこぼれ」を待ってじっとしてろ)」ということです。新自由主義的な政策は貧富の間で国民が分断されることをむしろ積極的に推し進めている。国民の分断を「危機的事態」と見るか、それともただの日常的風景と見るか、それがかつての自民党政権と安倍政権の本質的な差だと思います。
 池田政権は60年安保後のとげとげしい空気を鎮めるために「寛容と忍耐」というスローガンを掲げました。異論に対して寛容であれとして、岸内閣の下ではげしく対立した国民間の和解を説きました。そして、池田内閣のこの姿勢は国民に広範に支持されたと思います。 このような宥和的な態度が自民党が戦後長期にわたって与党であり続けられた最大の理由だと思います。それ以後も、自民党政権は国民の一部を「敵」とみなして排除するような態度は自制してきました。郵政民営化を強行した小泉純一郎も対話的な政治家とは言えませんでしたが、圧倒的な支持率を背にしていました。ですから、国の根幹にかかわる制度変更を断行したにもかかわらず、国論を二分するという最悪のかたちにはならなかった。
 安倍政権が先行者たちと決定的に違うのは、意図的に国民を分断することから政権の浮揚力を得ているという点です。今の選挙制度なら、有権者の30%のコアな支持層を固めていれば、残り70%の有権者が反対する政策を断行しても、政権は維持できることがわかったのです。
 これまでの自民党政権はウイングを広げて、支持者を増やすことが政権安定の基本だと考えていた。でも、安倍政権は違います。この政権は支持者を減らすことを厭わないのです。仮に70%の有権者が反対している政策でも、コアな支持層が賛成するなら強行する。強行しても政権基盤は揺るがない。そのことを学習したのです。
 そのためには、味方を徹底的に厚遇し、政敵の要求には徹底的にゼロ回答を以て応じる。そういうことを繰り返しているうちに、有権者たちは「自分たちが何をしても政治は変わらない」という無力感に侵されるようになります。その結果、有権者の50%が投票所に行く意欲を失った。低投票率になれば、コアな支持層を持つ自民党がわずかな得票数でも圧勝する。そういうことが過去7年繰り返されてきた。
 安倍政権は意図的に縁故政治を行っていますが、これは倫理の問題ではありません。これを単なる「長期政権のおごり」や「綱紀の緩み」だとみなすメディアの評価は本質的な見落としをしていると思います。安倍政権の縁故政治は日本国民を敵と味方に二分するために意図的に仕組まれているものだからです。味方になれば「いい思い」ができ、敵に回れば「冷や飯を食わされる」。そういう分かりやすい仕組みを官邸は作り上げました。それが長く続けば、「どうせなら、いい思いをする側につきたい」という人も出て来るし、冷や飯を食わされている側はしだいに無力感に侵される。
 僕の知る限り、過去の自民党にはここまで露骨に味方の縁故政治を行い、敵を排除した政治家はいません。スペインの哲学者、オルテガ・イ・ガセットが書いているようにデモクラシーというのは「敵と共生する、反対者とともに統治する」ことが本義ですが、安倍政権は反対者は決して統治機構に加えないという反民主主義を実践して、結果的にそれが政権を安定させた。
 有権者の50%が棄権してくれるなら、自民党は半永久的に権力を握り続けられます。だから、コアな支持層だけに気づかう政治をしていればいい。第1次安倍政権が失敗したのは、あちこちに「いい顔」をしよいうとしたせいです。その失敗から彼が学んだのが、敵と味方を截然と切り分けて、味方は厚遇し、敵は叩くという反民主的な手法です。
 この手法は日本だけではありません。トランプの米国も、プーチンのロシアも、習近平の中国も、エルドアンのトルコも・・・どこでも国民を敵味方に分断することを恐れない政治家が成功を収めている。健全な民主主義が機能している国を見つける方がむずかしいくらいです。
 背景にあるのは、経済のグローバル化が進み、国民国家が解体過程に入っているという歴史的局面です。多様な政治的立場をそれぞれ斟酌し、全員が同程度に不満足である辺りを「落としどころ」にするというのがデモクラシーの骨法ですが、そんな手間のかかることはもう誰もやりたがらない。変化の激しい時代ですから、合意形成に時間をかけたくないのです。それよりは誰か一人に権限を丸投げして、その人に決めてもらえばいい、そういうふうに考える人が増えて来た。国家も株式会社と同じように経営すればいい、と。
 CEOがひとりで経営方針を決め、従業員はそれに従う。トップに逆らう部下は排除され、イエスマンたちが重用され、経営の適否は社内的には議論しない、マーケットが判断する。そういう「株式会社みたいな仕組み」が最も効率的で、合理的だと信じる人たちが市民のマジョリティを占めるようになった。そんな社会にはデモクラシーが生き延びるチャンスはありません。
 今の若い日本人の多くは、生まれてから一度も民主主義的に運営されている組織に身を置いた経験がありません。家庭も学校も部活もバイト先も、彼らが知っているのはすべて非民主的なトップダウンの組織です。だから、トップが従業員に何ひとつ諮らずにすべてを決定する仕組みに対してさしたる違和感がない。それが最も見慣れた光景だからです。だから、首相を見ても「うちの社長とやっていることは別に変わらないんだけど・・・」という感想しか持てない。権力を持った人間が独断専行することがどうして悪いのか、わからない。自分にすり寄ってくるイエスマンたちだけに「いい思い」をさせるのがどうしていけないのか、自分に盾突く部下を左遷するのがどうしていけないのか、わからない。自分だって、社長になったらそうすると思っているから。
 だから、いまの若い人たちは権力者を批判することは「越権行為」だと思っています。それは株式会社の平社員が社長に向かって「あんたの経営方針は間違っている」と文句を言うようなものに見えるらしい。一介の市民風情が大臣相手に文句を言うのは「分際をわきまえない不敬な行為」に見えるらしい。
 小田嶋隆さんが麻生太郎財務大臣について批判的なコメントを書いたら、「そういうことは自分が財務大臣になってから言え」というリプライがいくつも来たそうです。僕でもそうです。「国政に文句があるなら、自分が選挙に出て国会議員になってから言え。その気がないなら黙ってろ」というタイプの「身のほどをわきまえろ」という批判がここニ三年増えてきました。
 そういう考えの人たちがもうマジョリティを占めているのかも知れません。だから、権力者が公金を使って自分の支持者を供応することがどうして悪いのかがわからない。公金を私的に流用できる立場になるためにずいぶん努力して政治家になったんだから、好きに公私混同する権利がある。そう思っている人が少なからず存在する。そういう人たちが自分のことを「リアリスト」だと思っている社会ですから、国力がここまで衰微するのも当たり前です。
 今年の『桜を見る会」の挨拶で、首相は「みなさんととともに政権を奪還して7回目の『桜を見る会』」と言いました。本来なら自民党とは政治的意見が違う人たちも多数招かれているはずなのに、そういう人たちはその場に一人もいないということを前提にした発言でした。首相はこの集まりを自分の支持者たちと自党の選挙の勝利を祝う「祝賀イベント」だと思っていたのです。デモクラシーがわかっていないという以前に、公人は集団全体を代表しなければならないという政治の基本がわかっていないということです。
 安倍首相は株式会社の経営者のやり方を国政に適用したという点で画期的だったと思います。経営者の目標は当期利益を上げて、株価を維持することです。時価総額を高めることだけが株式会社の存在目的です。安倍政権は株価を維持することに全力を尽くしてきましたが、それは株価が下がらない限り、職を失うことはないということを知っているからです。 
 しかし、株式会社と国民国家を同じようなものとして扱うことはできません。
 株式会社なら倒産しても、株券が紙くずになるだけです。従業員は他の職場を探せばいい。その会社が提供していた商品やサービスもすぐに他の会社が代行してくれる。でも、国家はそうは行きません。潰れたらおしまいです。代わりの国をどこかから持ってくるわけにはゆかないし、1億2600万人の国民にはこの国土以外に行くところがありません。株式会社の目標は利益を上げることですが、国民国家の目標は存続することです。日本列島に住む1億2600万人が、とにかく食えるようにすること、国土と国富を守って、次代に受け渡すこと。国の存在理由は尽きるところそれだけです。あらゆる政策は「それは日本国民が食えて、尊厳を持って生活することの存続に役立つかどうか」を基準に適否を判断すべきであって、それ以外のことはどうでもいいんです。
 でも、国民分断に抗って、国民統合を訴えるという運動は本質的な脆さを抱えています。それはその運動がややもすると「国民分断派」と「国民統合派」に国民を二分するかたちに堕してしまうからです。
 僕が安倍政権についていろいろ批判する。すると「要するにあなたは安倍さんが嫌いなんでしょう」といった反応が返ってくる。「敵だから批判する」というふうにしか考えない。逆もまたしかり。選挙では野党候補の応援演説をすることがあるんですが、ぼそぼそと「反対者とともに統治する」というようなことを言っても聴衆はさっぱり盛り上がらない。でも、「一日も早く安倍政権を打倒しよう」というようなシンプルなことを言うと、一気に盛り上がる。話を単純な敵味方の対立に落とし込むと、受ける。でも、「敵を倒せ」というのは本当を言うとデモクラシーじゃないんです。
 反対者を受け入れ、敵対者と共に統治するのがデモクラシーです。国民的な和解なくして、デモクラシーは成り立たないんです。反対者との「気まずい共生」こそがデモクラシーの本質なんです。
 立憲デモクラシーは、王政や貴族制より政体としてできがいいと僕は思っています、ですから、なんとかしてこれを守りたい。でも、分は悪い。刃物を振り回している人を手ぶらでハグするようなものなんですから。「敵対も分断も辞さず、敵は倒す」と言っている人たちに、そういうふうに国民を分断すると先行き国力が衰微しますから、ここは一つなんとか仲良くやりましょうよとお誘いするわけですから、まことに迫力がない。でも、デモクラシーが生き延びるためには、「デモクラシーなんか要らない」という人たちとも手を携えてゆくしかないんです。