今年の10大ニュース

2019-12-31 mardi

今年の十大ニュース

恒例により、大晦日に一年を回顧してみる。

1・古稀のお祝いをしてもらう
 満で69歳になったので、凱風館の門人たちが中心になって神戸シェラトンホテルで1年前倒しで古稀のお祝いをして頂いた。
「人生七十古来稀」である。古来稀なりの年齢になってしまったけれど、あまり実感がない。
 いや、身体のあちこちにガタが来ていることはわかる。以前だったら軽々とできたことが「よっこらせ」と自分を励まさないと始められない。そろそろ「お迎え」に向けて覚悟を決めなければいけないということもわかる。なにしろ、年金受給者になったのだし、先日は神戸市から「高齢者用無料パス」の申請書が送られてきたんだから。
 しかし、「人生、見るべきほどのことは見つ」というところまで達観できない。
 逆である。
 書斎の本棚を見上げても、「ああ、ここにあるこれらの本のほとんどを結局俺は読まずに終わるのか」としみじみ思う。読むべきだとわかっている本、若いときから「いつかはきっと読むだろう」と思っていた本のほとんどを読むことなしにわが人生を終えるのである。ついに人間的に成熟することも、十分な知識を身につけることもなく人生を終えるのである。
 自分の無知と未熟を嫌というほど思い知らされるのだが、さりとて「これから努力して何とかします」という言い逃れがもう効かない。Time's up である。
 なるほど、これが老いるということであるのかとしみじみ思う。
 若い時には自分が老いるということがうまく想像できなかった。
 老いたおかげで、どうして若い時に「老いた自分」想像ができなかったのか、その理由だけはわかった。
「頭の中身は若者のままなのだけれど、身体機能ばかりが衰え、周りからも老人扱される19歳」というような怪しげな生き物の心境を19歳の私に想像できたはずがない。
 いまはその「怪しげな生き物」を日々生きているわけであるから、それがどういう感じのものかはよくわかる。よくわかるけれど、その感じをタイムマシンで50年前にもどって19歳の自分にわかるように説明することはできないだろうと思う。
 19歳の自分にはどれほど情理を尽くして説明しても決して理解できない「感じ」がいまはよくわかるということが「老いの手柄」ということなのかも知れない。

2・「船弁慶」のシテを務める
 6月の下川正謡会で能「船弁慶」のシテを務めた。
 お能のおシテを演じるのは「土蜘蛛」「羽衣」「敦盛」に続いて4回目。
 「土蜘蛛」と「敦盛」は前シテが直面だし、出番も短い。「羽衣」は中入りなしで、最初から最後まで立ったままで、舞もなかなか楽しい。でも、「船弁慶」は前シテが静御前、後シテが平知盛の幽霊。現実の女性と怨霊の男性を演じ分けなければいけない。それだけではなく、前シテはほぼ座ったまま(これがつらいの)、後シテは長刀を振り回しての立ち回りという、心理的にも身体的にもかなり過酷な能である。
 一年間かなりハードな稽古を積んだ結果、舞台は無事に終わり、自分でも納得できたけれども、膝を傷めてしまった。なかなか治らない。

3・橋本治・加藤典洋のお二人を鬼籍に送る。
 1月29日に橋本治さん、5月16日に加藤典洋さんというふたりのたいせつな先輩がご逝去された。
 このお二人と養老孟司、関川夏央、堀江敏幸の五人の方々が僕が2007年に第六回小林秀雄賞を受賞したときの選考委員だった。
 選考委員を代表して、橋本治さんが授賞理由についてお話をしてくれた。舞台に並んで立って、橋本さんが僕の『私家版・ユダヤ文化論』について語ってくださるのを横で聞いた。なんだか夢のようだった。
 橋本さんは20代からの僕の久しい「アイドル」であった。『桃尻娘』からあと、ずっと読み続けた。亡くなったときに、書棚にある橋本さんの本を数えたら125冊あった。それでも橋本さんの全作品の半分に及ばない。どれほど影響を受けたかわからない。

 加藤さんとはじめてお会いしたのは、鎌倉の鈴木晶先生のおうちで、雨の中のBBQの席でだった。
 鈴木さんが「高橋源一郎が近所だから呼ぼうよ」ということになって、電話をかけたら、たまたまその日高橋さんに会いに来ていた加藤さんも同道された(橋本麻里さんと千宗屋さんも一緒だった。ずいぶん豪華なゲストだ)。
 それが加藤さんとお会いするはじめてだった。
 僕の批評的な作物としてのデビュー作である『ためらいの倫理学』は加藤さんの『敗戦後論』についての論考をひとつの軸にしたものである。この本をめぐる論争の中で、加藤さんの側に理ありとしてコメントした人はあまりいなかった(加藤さんによると「孤立無援」だったらしい)。僕は加藤さんの側に立って論陣を張った例外的な一人だった。
 加藤さんは当時信濃毎日新聞に連載していた時評に『ためらいの倫理学』を取り上げてくれた。加藤さんによると「日本で一番早く内田さんのことを論じたのは僕だよ」ということであった。
 その加藤さんと鈴木さんのおうちではじめてお会いしたのである。このメンバーだから、話が弾んで止まらない。夜遅くまで話し続けた。加藤さんは志木のご自宅に帰るつもりでいたのだけれど、話が止まらなくなって終電を逃し、僕が鎌倉駅前に取っていたホテルのツインの片側で寝ることになった。ホテルの部屋でも話が止まらず、翌朝の横須賀線の中でも話が止まらなかった。
 それからも養老先生が主催されている「野蛮人の会」で毎年暮れにお目にかかったし、アルテス・パブリッシングで対談本の企画があって、2009年から10年にかけて、長い時間対談をした(残念ながら本にはならなかったけれど)。
 加藤さんと最後にお会いしたのは、2017年の8月に長野の須坂市で行った「信州岩波講座」だった。そのときに加藤さんは「一階の批評」について話した。
「加藤典洋さんを悼む」というブログ記事にそのことは書いたけれど、加藤さんが「一階」と呼んだのは、現実を高みから一望俯瞰する「二階」でもなく、現実を無意識の欲動や衝動越しに眺めることのできる「地下」でもない、この現実のことである。
加藤さんはこう書いている。

「筆者は軟弱な人間である。謙遜ではなく、軟弱であることを価値であると考えている人間である。この一階だけがすばらしいといっているのではない。むろん、一階にいるだけでは問題は解決しない。ひとはいまそれですむ世界には、生きていない。時に二階に上がり、また地下に降りることも必要となるだろう。それどころか一階の床が抜け、地下に落下することすらあるかもしれない。
 しかし、たとえそうなったとしても、つねに一階の視点を失わないこと。そのことが大事ではないだろうか。(...)ふだんの人間がふだんにかんじる場所だからといって、そこに居続けることがそんなに簡単でないのは、ことばをもつことが、ふつうは、二階に上ることであり、でなければ、地下室に下ることだからである。ことばを手にしてしかも一階の感覚をもちつづけることは、そうたやすくない。」(『僕が批評家になったわけ』、246頁)

「ことばを手にしてしかも一階の感覚をもちつづけること」に加藤さんは全力を尽くした。みごとに一貫した仕事ぶりだったと思う。
 大瀧詠一、橋本治、加藤典洋と僕が兄事してきた先輩がたがこの数年のうちに次々と亡くなった(兄も加えると四人である)。
 父が80歳を超えた頃に「長生きしてつらいのは、古い友人たちがいなくなることだ」と慨嘆していた。僕はまだ「長生き」というほどではないけれど、「頼りにしていた先輩たち」が亡くなることの喪失感は身に沁みてわかる。

4・今年も韓国に行った。
 2012年から始まった恒例の韓国講演ツァーに今年も行った。
 去年からは伊地知先生が率いる「修学旅行部」も同行することになって、厚みのある企画となった。今年はソウルと大田で僕が講演し、済州島で修学旅行という3泊4日の日程だった。通訳はいつもの朴東燮先生。
「戦後最悪」という日韓関係のせいで、例年のように教育委員会の公式招聘ということがかなわず、市民団体の主催ということになった。それでも、たくさんの方たちが集まってくださった。
 僕の本は朴先生の獅子奮迅の活躍のおかげで、ついに26冊が韓国語訳されたそうである。日韓関係が市民同士の相互理解を通じて確かなものになることを僕は願っている。

5・武蔵小山にセカンドハウスを借りた
 2020年の東京五輪を前にして、東京のホテルが借りにくくなっている。僕の定宿だった学士会館も昔に比べると予約が取りにくくなったし、お盆と正月が休業というのがつらい。どうせ毎月東京に理事会で行き、その前後に東京での仕事を入れる。急な用事で東京に行かなければならないこともよくある。意を決して部屋を借りることにした。
 どこがいいか。土地勘のあるところと言うと20歳から20年間を過ごした自由が丘、尾山台、上野毛という大井町線沿線か、17歳まで育った下丸子周辺の目蒲線沿線である。
 井上英作さんに専門的な助言を頂いて、いくつか紹介してもらい武蔵小山に決めた。
 武蔵小山なら駅前に石川茂樹くんのLive Café Againがあるし、7~8分歩くと、平川君のいる荏原中延の隣町珈琲がある。両方に歩いていけるところにマンションを借りた。
 内装は東京住まいのるんちゃんにお願いした。
「昭和の大学生の下宿みたいな内装にしてあげるよ」ということで、お任せしたら、たしかにそんな感じになった。たいへん居心地がよろしい。
 東京五輪が終わるまでの期間限定のつもりだったけれど、なかなか使い勝手がいいので延長することにした。ホテルだと朝の10時にはチェックアウトだけれど、自分の部屋なので、パジャマのまま昼過ぎまでだらだらしていられる。着替えも、PCも、背広とネクタイも置いてあるので、東京旅行が鞄ひとつで済む。本もDVDもある。連泊するときはまことに楽ちんである。大学の理事はまだもう少し勤めなければいけないようなので、2022年くらいまではムサコの人である。

6・山學院学長となる
 青木真兵君と海青子さんご夫妻が東吉野村に開いた私設図書館「ルチャ・リブロ」を拠点として、地域文化活動が盛んになっている。その一環として、真兵くんが仲間たちと東吉野村に「山學院」という学術拠点を作ることになった。
 その学長を仰せつかった。
 若い人の創造的な活動を支援するのは年長者の義務であるから、四の五の言わずに拝命した。
 6月に山學院開校式があり、日本全国から70人の善男善女が集った。
 地方に移住して、そこから市場経済と一線を画した手作りの活動をしている人たちが多かった。
 真兵くんたちのは「ひとり図書館」だが、日本各地に「ひとり書店」や「ひとり出版社」があることをそのとき知った。別に誰かが言い出した運動ではなく、同時多発的・自然発生的にそういうことが起きているのである。
 書物は「外部」への扉である。
 そのことを直感している若い人たちがこれだけいることを知った。
 日本はまだまだ大丈夫である。
 真兵君たちの実践については『彼岸の図書館』に詳しい。僕も真兵くんといろいろお話してます。ぜひご一読ください。

7・もうひとつ
もう一つ、別の新しい大学の客員教授となることになった。
まだ開学前なので、詳細を申し上げることはできないけれど、面白い教育実践ができそうである。

8・すごい若い人たちを知る
 矢内東紀(aka えらてんさん)さんと中田考先生のご紹介で知り合い、機を見るに敏なる晶文社の安藤さんの企画で一緒に対談本を出すことになった。
 その趣旨についてはブログに「まえがき」を上げたので、それを読んで頂ければわかると思うけれど、こういうまったく僕の知らないエリアで活動してきた若い人には教えられることがほんとうに多い。
 Time has changed ということを実感した。

 もう一人それを実感したのは、永井陽右さん。
 これは朝日新聞のネットメディアの企画で対談したのだけれど、この方もえらてんさんと同じく28歳の青年。
 ソマリアで「ギャングが堅気になるための就労支援」という信じられないほど危険な活動をしている若者である。
 でも、別に肩に力が入っていない。穏やかな表情と明るい声で、淡々と困難な事業について話してくれた。たいしたものである。

 もう一人はまだお会いしたことがないけれど、齋藤幸平さん。
『未来への大分岐』という集英社新書がある日送られてきた。集英社の伊藤直樹さんが選んで送ってくれるので、彼の鑑定眼にかなった本のはずである。そのうち読もうと思って、テーブルの上に置いておいた。すると光嶋君が読んで驚いたという感想をTwitterに書いていたので、「おお、その本ならうちにもあるぞ」と思って探して開いてみたら、齋藤幸平さんの直筆サイン入りの献本だった。
 こ、これは失礼なことをした。
 さっそく読んでみて、これも仰天した。
 若い人は僕たちおじさんたちの知らないうちに、どんどん新しい知的な領域に踏み込んで行って、世界的な業績を上げているのである。
 もって瞑すべし。
 こういう若い人たちの活躍を知ると、「もう引退してもいいかな」という気になる。ありがたいことである。

9・今年もいろいろ本を出した
成瀬雅晴先生との対談本『善く死ぬための身体論』(集英社新書)
『生きづらさについて考える』(毎日新聞出版)
『そのうちなんとかなるだろう』(マガジンハウス)
平川克美君との対談本『沈黙する知性』(夜間飛行)
えらてんさんとの対談本『しょぼい生活革命』(晶文社)
の五冊。
 来年は『サル化する世界』(文藝春秋)が年明けに出て、晶文社のアンソロジー『日韓関係論』が出て、るんちゃんとの往復書簡本、ミシマ社の語り下ろし本『日本習合論』くらいかな。『レヴィナスの時間論』は年内完結予定だったけれど、ローゼンツヴァイクを論じ始めたので、なかなか終わらない。なんとか、来年のうちには終わらせて、完結したら新教出版社から単行本。まだ何か忘れているかも知れないけれど、それはご容赦ということで。

 これくらいでいいかな。10個ないけど。
 では、皆さん佳いお年をお迎えください。