『武道的思考』文庫版のための序文

2019-03-17 dimanche

武道的思考 文庫版のためのまえがき

 みなさん、こんにちは。内田樹です。
 『武道的思考』が文庫化されることになりました。
 『武道的思考』は2010年に筑摩選書が創刊されたときに、シリーズ第一巻という名誉ある番号を頂いて刊行されました。出てから10年近く経ち、文庫に化粧直しして、再びのお勤めということになりました。手ごろな価格になって多くの方にお読み頂けることになるのは、書き手としてはとてもうれしいことです。筑摩書房のご厚意に感謝申し上げます。

 本書は、ご覧頂ければわかるように、書き下ろしではなく、さまざまな媒体に寄稿したものやブログに書いたものを筑摩書房の吉崎宏人さんが丹念に拾い集めて、編集してくださったものです。
 こういうコンピレーション本では、僕が食材を提供して、それを編集者が料理するという分担になります。出来上がるものを見るまで、僕自身にも、それがどんな本になるか分からない(野菜を出荷した農家が、それがどんな料理になるのか予測できないのといっしょです)。とりわけ、この本を出した頃は、大学の学務がすごく忙しかったので、出たばかりの自著の新刊を熟読する余裕がありませんでした。ですから、たまに「『武道的思考』読みましたよ」と読者の方に声をかけられても、「あ、そうですか。や、どうも」とあいまいな顔で微笑むしかできなかった。書いた本人なのにどんな本だったかよく思い出せなかったからです。
 それから約10年経って、文庫化することになったので、ゲラが送られてきました。そして、読んでみたら、「ふうん、こんな本だったのか」とちょっとびっくりしました。
「あとがき」に「不穏な本」と書いてありましたけれど、たしかにかなり「挑発的な本」でした。「こんなこと書いちゃっていいのかな・・・」といまならちょっと逡巡するようなことが気にせず書いてあります。
 ブログに書いたものは、もともと出版されることを予想しないで、「顔の見える読者」宛てに書いたものですから、「歯に衣を着せる」というような配慮がほとんどありません。でも、編集の吉崎さんはどうやら好んで「そういうもの」を選び出したようです。
 当時、編集部内でも「こんなの出して大丈夫なのか?」というような懸念が表明されたことがあったんじゃないでしょうか(僕が吉崎さんの上司だったら、一応は確かめます。「吉崎くん、大丈夫なんだろうね。こんな本出して。ややこしい筋からクレームとか来ないよね?」)。文庫化されたということは、その懸念はクリアーされたということなんでしょうね。きっと。

 本書で扱われているトピックは武道だけには限定されません。教育問題も論じていますし、政治のことも、文学のことも、歴史のことも、結婚や家族のことも論じています。それらの論件がいずれも「武道的」に思量されているというのがタイトルの由来だろうと思います(自分でつけたタイトルのはずなのに、「思います」で申し訳ありません)。でも、たぶんそうです。
「武道的に思量する」「武道的にふるまう」というのは、どういうことか。それについて現段階での僕の理解をここに書いて「文庫版のためのまえがき」に代えたいと思います。

 第一に、それは「ありもので間に合わせる」ということです。
 戦場においては、ものが足りなくても、コンビニで買い足すことも、Amazon で配達してもらうこともできません。装備が貧弱でも、兵士の練度が低くても、「こんなのじゃ戦えない。いいのに替えてくれ」というわけにはゆかない。手持ちの資源をやりくりして急場をしのぐしかない。「ありものの使い回し」しか許されない。理想とか、「本来あるべき姿」とか、そういうものと現状の乖離について泣訴することができない。
 手持ちの資源をやりくりして、なんとかしのぐしかない状況のことを「急場」と呼ぶわけで、武道というのは、「急場」において適切なふるまいをするための技術のことです。
「手持ちの資源をやりくりする」というのは、言い換えると、手持ちの資源の蔵している潜在可能性を最大化するということです。言葉はシンプルですけれど、実はなかなか複雑な仕事を要求します。というのは、それができるためには、その前段として、一つやっておくべきことがあるからです。
 「前段として」です。「やりくり」の前にやっておかないといけないことがある。
 武道的というのは、本質的には「対症」ではなく、「予防」の心構えのことです。
 トラブルが起きた後になって、ややこしいタスクをてきぱきと処理する人の「対症的」な手際はたしかに見事なものですし、その能力を高く評価する社会も存在します(例えば、アメリカはそうです)。でも、ほんとうは「トラブルが起きる前に、その芽を摘んでおいたり、巻き込まれないように気づかっていた人」の予防的配慮の方が武道的には卓越していると僕は考えます。 
 堤防が決壊したあとに、濁流から鮮やかに逃れる超絶的な能力よりも、堤防の「蟻の穴」をみつけて、そこに小石を差し込んで、洪水を起こさないようにする配慮の方がより武道的だということです。
 リスクを事前に察知して、破局的事態に際会しないように身を処すこと、それがさしあたり「予防的」ということですけれど、これにはもっと積極的な意味もあります。
 それは、急場において大きな力を発揮できるような「手持ちの資源」をあらかじめ仕込んでおくことです。
 まだ何も起きていない時点から、つねに「豊かな潜在可能性を蔵しているもの」に目を配り、それをこつこつと収集しておいて、それによって「手持ちの資源」を構成しておく。
 本書にも「ブリコルール (bricoleur)」について書いた文が収録されていますけれど、「ブリコルール」というのは、「ありものの使い回しで用を弁ずることができる人」のことです。その辺にある材料や道具で、「本棚」や「犬小屋」を手際よく作ってしまう日曜大工のことです。でも、ただの「器用な人」ではありません。ブリコルールであるためには、それなりの修練が必要です。
 レヴィ=ストロースが『野生の思考』で取り上げたマトグロッソのインディオたちは、ジャングルの中で「何か」と目が合うと、それをとりあえず背中の合切袋に放り込みます。移動民ですから、それほど大きな荷物は運べません。自分で背負えるだけです。さて、その場合、資産として選択されるのは何でしょう。
そのうち何かの役に立ちそう」だと思われたものです。
 そのうち何かの役に立ちそうだけれど、いまは何の役に立つのか、わからない。何の役に立つかわからないけれど、先駆的にその有用性が直感される。
 そういう直感能力が人間には具わっています。そのような能力が具わっていたからこそ、人間は「道具」というものを制作することができた。僕はそう思います。
 人間が道具を制作したのは、まず「こういう道具を作ろう」というアイディアが先行して、それに必要な素材を集めて作ったという順番ではないと僕は思います。逆です。まず、「いまは何の役に立つかわからないけれど、何か心惹かれるもの」が目に留まる。それを拾い上げて、手元に置いておく。そして、ある日、ふと「それ」を使うと「こんなもの」が作れるということに気づく・・・そういう順番で人類は道具というものを創り出したんだろうと僕は思います(見てきたわけじゃありませんが)。でも、そうであるはずです。そういう能力を選択的に発達させておかないと、資源の乏しい環境を生き延びることはできませんから。
「いずれ何かの役に立ちそうなもの」の有用性を先駆的に直感できる能力は、「いずれ死活的なリスクをもたらす可能性があるもの」の有害性を先駆的に直感できる能力と裏表のものです。「いまは何の役に立つかわからないけれど、そのうち役に立ちそうな気がするもの」を感知できる力と「いまはとりわけ危険なものに思われないけれども、そのうち命とりになりそうな気がするもの」を感知できる力は同じひとつの能力の別の現れ方です。
 ジャングルの中で暮らすインディオたちは、肉食獣や毒蛇がうごめく環境の中で暮らしているわけですから、「こっちに行ったら、なんだか悪いことが起きそうな気がする」という危機察知能力はきわめて高いはずです。
 なにより、その能力は幼児のときから教えることができます。野獣と戦う技術はとても子どもには習得できませんし、成人でもよほど身体能力が高くないと習得できないかも知れない。けれども、危険の接近を遠くから感じ取るセンサーの精度を上げることなら、子どもにもできる。危険が接近すると「ざわざわする」とか「肌に粟が生じる」というような身体反応は適切なプログラムを整備すれば、選択的に強化することはできる。
 僕はいまのところ「武道的」ということを、この二種類の予防的なふるまいのことと理解しています。リスクに「対症」的に対応するのではなく、「予防」的にふるまうこと。手持ちの資源の蔵している潜在可能性を、それが顕在化・可視化・数値化されるより前に感知できること。それがかたちをとるより以前に、危険の接近が感知でき、有用なものの有用性を感知できること。少しだけ時間をフライングすることです。
 僕は武道の修業というのは、この「少しだけ時間をフライングする」能力の涵養だと思っています。そういう言葉づかいで武道について語る人はあまりいませんが、僕はそうだと思っています。昔の武人はそう言っていたように思えるからです。
 武道の術語に「機を見る」というものがあります。自分が置かれている状況の意味を先駆的に直感することです。柳生宗矩の『兵法家伝書』にはこうあります。

「一座の人の交りも、機を見る心、皆兵法也。機を見ざればあるまじき座に永く居て、故なきとがをかふゝり、人の機を見ずしてものを云ひ、口論をしいだして、身を果す事、皆機を見ると見ざるにかゝれり。座敷に諸道具をつらぬるも、其の所々のよろしきにつかふまつる事、是も其の座を見る事、兵法の心なきにあらず。」

 機というのは現代語で言えば「タイミング」です。自分が「いるべき時/いるべきでない時」を識別することです。人との交わりには機を見る心が要ります。いるべき時に、いるべき場にいれば、巧まずして大きな成果を得ることができる。逆に、いるべきではない時に、いるべきではない場にいると(英語では wrong time wrong place と言います)、思わぬ災厄に巻き込まれ、ついにはそれがもとで命を失うこともある。
 昔からそうだったんです。今でも、僕たちが日常的に遭遇するトラブルって、だいたい「こういうもの」です。だから、昔の侍は用事のないところには出かけなかった。「どうしても、あなたにはこの時に、ここにいて欲しい」とピンポイントで懇請されてはじめて腰を上げた。
 座敷に道具を配するのには「座を見る心」が要ると宗矩は言います。それをただ「インテリアデザインのセンスがいい」というような審美的な意味で解してはならないと思います。そんなことは「兵法」とは言われません。宗矩が言っているのは、「ブリコルール」の心得です。
 武士が座敷に置くことが許された諸道具はごくごく限られたものです。それを「所々のよろしきにつかふまつる事」というのは、数量的には最少の、にもかかわらず潜在可能性において最大であるような道具を選べということです。
 塚原卜伝は不意打ちに斬りかかられたときに、とっさに「鍋の蓋」で剣を制したという話が知られています。これは「手持ちの道具で急場をやりくりする」の能力の高さを顕彰したものですけれど、同時に、限られたものしか置けない手持ちの資源には、「いつかこれが死活的に重要になるかも知れない」と思われるものを選べ、道具の配列に際してはまず「座を見よ」という武人の心得を伝えたものかも知れません(この鍋の蓋は卜伝の手作り道具だったんじゃないでしょうか。自分で木を伐り出してきて、丈夫で、硬くて、鍋の蓋以外にも汎用性のありそうな道具を手作りした)。

 以上がいまの時点での、僕の「武道的」ということの理解です。
 物資が潤沢で、社会が平和で安全だった時代には、こういうことを僕が力説しても、あまりはかばかしい反応はありませんでした。でも、時代はずいぶん変わりました。現代の日本はもう以前ほど豊かでも、安全でもありません。「金さえあれば欲しいものは何でも手に入る」というような言葉に同意する人はさすがにもう若い人の中には見出し難くなりました。
 人類史のほぼ全期間、人間は手持ち資源の潜在可能性を考量する力、災厄を事前に感知する力を高めることで、生き延びてきました。「武道的」な生き方の方こそが、もともとは人類の初期設定なんです。「武道的」でなくても生きてこられたここ半世紀ほどの日本の方が人類史的には例外なんです。でも、残念ながら、もうそういう時代は終わりつつあります。僕たちは来るべき時代に備えて、「初期設定」に立ち返る必要がある。僕はそう考えています。そういう歴史的文脈に即して本書を読んでいただけたらと思います。