「新潮45」休刊について

2018-10-23 mardi

毎月ある地方紙にエッセイを連載している。今月は「新潮45」休刊について。
すでに二度本欄で触れたけれど、その総括のようなもの。

「新潮45」が休刊になった。社告によれば、「部数低迷に直面し、試行錯誤の過程において編集上の無理が生じ、企画の厳密な吟味や十分な原稿チェックがおろそかになっていた」結果、「あまりに常識を逸脱した偏見と認識不足に満ちた表現」を掲載してしまったことについて「深い反省の思いを込めて」の休刊である。
海外メディアもこの事件を取り上げた。英紙『ガーディアン』は発端を作った杉田水脈衆院議員をこう紹介している。
「安倍晋三首相の同盟者である杉田はまだ記事について公式には謝罪を行っていない。安倍は先週、『彼女はまだ若い』のだから、辞職圧力は加えていないと述べた。杉田は51歳である。(...)彼女は第二次大戦前、戦中の日本兵による性奴隷利用を韓国の捏造だと主張してきた人物である。」
杉田議員を擁護してさらに問題を大きくした小川栄太郎氏の記事については「性的少数派の権利を保証することは、列車の中で男が痴漢行為をする権利を認めるべきだということに通じるのではないかと訝しんでいる」と要約している。
たぶんここに言及された人々は、まさか自分たちの書いたものが媒体の休刊をもたらし、その事件が国際ニュースになるとは思っていなかっただろう。
私も二人の書いたものを読んだ。それは肩の力の抜けた、どちらかと言えばリラックスした調子で書かれていた。あえて良識を逆撫でするようなことを書いて、社会問題を起こそうというような戦術的な意図は感じられなかった。おそらく「この程度のこと」はこれまでもあちこちで書いたり、話したりしてきたけれども、これまで何の「お咎め」もなかったからだと思う。むしろ、彼らの言説はしばしば拍手喝采をもって迎えられたのだろう。
『新潮45』の記事はそういう「成功体験」を踏まえて書かれた文章のように私には思われた。
彼らはそういうものを読んで溜飲を下げたいと思っている「身内」を想定読者にして書いたのであり、それを読んで傷つく人間や、憤りを感じるものは端から読者に想定されていなかった。
自分の発言に喝采を送ってくれる読者限定に書かれたものである以上、そこに事実誤認があろうと、論理の混乱があろうと、あるいは偏見が露出していようと、気にしないのは当然のことである。その後の杉田議員の沈黙や、小川氏が休刊を「社内外で連携した何らかの組織動員的な圧力」に屈服した帰結だという陰謀論を唱えていることから推して、彼らが「まさかこんな騒ぎになるとは思っていなかった」ことが知れるのである。
しかし、それはメディアにおいて論争的な発言する人間が口にしてはならないことではなかろうか。
本来、言論というのは身内限定に書かれるべきではない。
この騒動は書き手たちがこの「常識」を軽んじだことの帰結だと私は思う。
私たちがものを書く時に論理の筋目を通し、自説の根拠を挙げ、引用やデータの出どころを明らかにし、情理を尽くして説くのは読者が身内ではないからである。
自然科学の論文は精密なエビデンスと厳正な論理に基づき、主観的願望を介入させないように書かれているが、それは同じ分野の専門家たちのきびしい査定的なまなざしを想定しているからである。文系の物書きにはそれほどの学術的精密さは求められないけれども、それでも懐疑的な読者を前提にして、なお「情理を尽くして説く」というルールを忘れてはならない。
私自身は例えば中国やアメリカについて書くとき、それが翻訳されて、それぞれの国の人々に読まれる状態を(現実的可能性の多寡にかかわらず)つねに想像している。それは「身内」以外の読者が読んでも、共感も同意も期待できない読者が読んでも、なおリーダブルなものを書く以外に新たな読者を獲得する手立ては存在しないと信じているからである。