夏時間について

2018-09-28 vendredi

8月末に「サンデー毎日」に夏時間についての原稿を寄せた。
今朝の毎日新聞によると、さいわい五輪前の夏時間導入は各界からの反対によって、見送りになったようである。
よかった。
というわけで夏時間導入反対の論は速報性を失ってしまったけれど、せっかく書いたことなので、「歴史的文献」としてご笑覧を請うのである。
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東京五輪組織委員会が「酷暑」問題で追い詰められて、迷走している。
開催は2020年の7月24日から8月9日までの17日間。今年の同時期の東京の暑さは尋常なものではなかった。23区内の熱中症による死者数は120人に達した。この時期に炎天下で運動競技を行うことがアスリートの健康によいはずがないことは誰にもわかる。最も心配されるのがマラソンで、朝7時スタートを予定していたが、今年はその時間ですでに30度を超す日があった。
五輪期間中の暑さ対策としてこれまで提案されたのは「打ち水、浴衣、よしずの活用」とか「首に濡れタオル」とか、マラソンのコース沿いの店舗やビルの1階部分を開放して、中の冷気を道路に放出するという「クールシェア」とか、どう考えても本気とは思えないものばかりである。進退窮まった組織委員会が提案してきたのが2年間限定の夏時間の導入である。
一競技のために、日本中の人間を巻き込むようなシステムの変換を行うというのはいくら何でも本末転倒であると思うが、驚くべきことに、発表直後のNHKの世論調査では、夏時間の導入に「賛成」が51%、「反対」が12%と、世論は賛成が多数となった。
おそらく、賛成者のほとんどは夏時間の導入というのが、ただ時計を2時間進めるだけのことだと思い、その程度の手間でアスリートたちが気分よく競技してくれるなら、お安いものだと思ったのだろう。心根のやさしい人たちである。だが、夏時間の導入というのは、そんな気楽な話ではない。

夏時間の導入は不可能と断定している立命館大学の上原哲太郎教授によると、「政府や自治体、医療、交通運輸、金融のシステムから、家庭のテレビやエアコンまで、『時間』を基準に動作しているシステム」に私たちの生活は律されており、重要なインフラの修正だけでも4~5年は必要だと言う。当然、システム変換を請け負うIT企業の労働者には大量のタスクが集中的に課されることになる。人件費コストも桁外れのものになろうが、そもそもそれだけの人的リソースが調達できるかどうか。
アメリカもヨーロッパでも、夏時間は実施されているが、そのような社会的混乱については聞いたことがないと言う人もいるだろう。でも、それは当然で、欧米では早くから夏時間制が導入されている(導入はドイツが世界で一番早くて1916年)。だから、それ以後に作られたものは家電製品もIT機器も夏時間切り替えを標準仕様にして製造されている。だが、日本製の機械はそんな仕様になっていない。
だから、重要なインフラのことは脇に置いて、電波時計、テレビ、カーナビなど「時間」を基準に作動するすべてのメカニズムは夏時間への切り替え時点で不具合を生じるリスクがある。かつての「2000年問題」と同じで、蓋を開けてみたら、何も起こらないかもしれない。でも「何も起こらないかもしれない」を含めて「何が起こるかわからない」のである。
夏時間で作動に影響が出る「かもしれない」機器の製造企業のコールセンターやサービスカウンターには消費者からの「どうしたらいいんですか?」という問い合わせと、「うまく作動しません」という調整修理の依頼が殺到するだろう。夏時間さえなければ決して生じることのないこれらのコストは、結果的にそれらの機器のメーカーが製造する商品の価格に上乗せされて、消費者が負担することになる。
「夏時間、いいんじゃないの」と気楽に世論調査に回答された市民たちは、こういったリスクやコストについてはたぶん何も考えずに「賛成」に一票を投じたのだと思う。だから、今からでも遅くはない。止めた方がいい。さいわい、まだ実施が決定したわけではない。五輪の一競技のために莫大な損害を発生させるべきではない。マラソンであれ何であれ、炎熱の時間帯を避けて、できるだけ涼しい時間帯に競技ができるようにプログラムを組めば、それで済むことである。アメリカのテレビの放送時間が・・・というようなことを言う人がいるが、アメリカのテレビ視聴者ができるだけ気楽にカウチでテレビを見られるように日本社会全体は夏時間コストを負担すべきだし、五輪に参加するアスリート人は身体的苦痛を甘受すべきだと本気で考えているのだとしたら、それは底の抜けた博愛主義でなければ、骨の髄まで奴隷根性がしみこんでしまった属国民マインドのなせるわざである。

メディアがさみだれ式に報道し始めたように、欧米でも夏時間(英語ではdaylight saving timeとも言う)から離脱する動きは最近急速に広がっている。きっかけは「夏時間はエネルギーの節約に資する」というこれまでの定説が科学的研究によって覆されたからである。
ベンジャミン・フランクリンが1784年にパリを訪れた時に、まだ日が高いうちからパリジャンたちが窓のカーテンを下ろして就寝しているのを見て、「ろうそく代がもったいない」と思ったのが夏時間の始まりだと言われている。冷房が存在しない時代なら、ろうそく代の節約はそのままエネルギー消費量の節約だったが、今となってはそうはゆかない。
アメリカ政府が行った研究でも、夏時間がエネルギー消費を節約したということは証明できず、逆に、いくつかの研究グループは夏時間でエネルギー消費量は増加するという調査結果を発表した。
夏時間だと仕事上のミスが減り、交通事故が減るとも言われてきたが、これも統計的に無根拠であることが分かった。夏時間開始の翌日と終了の翌日は交通事故が8%増加していたのである。職場での事故、心臓発作も開始と終了の翌週には増大した。考えれば不思議はない。生活時間がいきなり変わるのである。新しい時間に慣れるまで、心身に障害が出て当然である。
アメリカでは連邦政府が四つのタイムゾーンを管理しているが、州政府には夏時間を採用するかしないかの選択権がある。だから、アリゾナとハワイは「必要がない」という理由で、夏時間を採用していない。一方、フロリダとカリフォルニアは「一年中夏時間にする」法案を準備している。その方が経済活動が活性化するし、治安にも、メンタルヘルスにもよいということらしい。
EU28ヵ国でも夏時間については賛否が割れている。フィンランドでは夏時間廃止の署名運動が始まった。EU加盟国ではないが、通年夏時間制を採用していたロシアは高緯度地の市民たちが「朝が暗いのはつらい」と言い出して、4年前に制度を廃止した。
これまでの調査でわかった夏時間の明らかなメリットは、アメリカで、夏時間への切り替えの翌日は強盗に出会う確率が27%減ったということである。さしあたり科学的な手続きに基づいて証明された夏時間導入の利点はこれ一つだけだと「夏時間導入の根拠とされる5つの主張には科学的根拠がない」と題したアメリカのネットニュースは報じていた(Forbes, Mar.5, 2018)
各国の事情を瞥見して私にわかったのは「夏時間を採用するとうまくゆくこともあり、うまくゆかないこともある。その差は主に緯度によって決まる」というなんだか拍子抜けのするような結論であった。まことにその通りだと思う。だから、夏時間を採用すると、「いいこと」がある土地の人は採用すればいいし、「あまりいいことがない」なら採用しなければいい。それだけのことである。採否を決めるのは、そこに住んでいる人であって、よその人間が口を出すことではない。

日本の場合は「あまりいいことがない」ことが知られている。戦後、夏時間はGHQの命令で1948年から導入されたが、睡眠障害や残業増加などを引き起こして、きわめて不評であった。そして、1951年にサンフランシスコ講和条約が締結されると同時に打ち切られた。主権回復と同時にまっさきに廃止された制度であるから、当時の日本人はよほどこれを嫌ったのだろう。だから、森喜朗五輪組織委員長も、一度うっかり口にはしたけれど、その後いろいろ調べてみたら、夏時間導入には無理が多すぎるということが知れて、この記事が掲載される頃には、もう提案は撤回されていて「あの話はもうなかったことに」ということになっていて、もう誰も話題にしていないかも知れない(そうなっていることを願う)。

しかし、それにしても東京五輪をめぐる無数のドタバタはどこまで続くのであろう。招致運動の中での猪瀬都知事のイスラム差別発言から始まって、安倍首相の福島原発の「アンダー・コントロール」発言、ザハ・ハディドの国立競技場設計をめぐる騒動、五輪エンブレムデザインの盗用疑惑、木造の新国立競技場には聖火台がつくれないという大ポカについての責任のなすり合い、11万ボランティアの「学徒動員」に対する世論の反発、銀メダルの材料の「金属供出」要請など、信じられないほどの手際の悪さの事例は枚挙に暇がない。だが、もっとも深刻なのは五輪招致の「買収疑惑」である。 
国際陸上競技連盟(IAAF)の前会長で、IOC委員のラミーヌ・ディアックとその息子は世界陸上と五輪を食い物にして私腹を肥やしてきた容疑で現在フランスとブラジルの司法当局に追われて逃亡中であるが、二人は東京五輪招致に深くかかわっている。電通の仲介で、シンガポールのダミー企業に招致委員会から払い込まれた2億3000万円がディアク息子の口座に転送されていたことを去年の秋に英紙『ガーディアン』が報じた。ブラジルの司法当局は、この支払いがディアク父を介して票を買収し、2020年東京五輪の招致を実現するためになされたと見ている。それが事実なら、明らかな五輪憲章違反である。今後、フランス、ブラジルの捜査が進み、招致のためにIOC委員たちの票を買収した動かぬ証拠が揃ったら、規定上は開会式の前日であっても五輪は開催中止となる。「そんなことは起きるはずがない」と組織委員会は思っているだろうが、それでも「もし万が一・・・」と想像すると、眠れない夜もあるだろう。気の毒だとは思うが、自業自得である。
夏時間やボランティアの「学徒動員」はこれに比べたらまったくの些事である。でも、大手メディアは些事についてはかろうじて報じるが、この「招致を金で買った」という重大な案件についてはぴたりと口を噤んでいる。大手メディアそのものが東京五輪の協賛企業なのだから、せっかくの祭典に水を差すような報道は気乗りがしないという人情は分からないでもない。だが、それなら五輪が終わった後に露呈するであろう有形無形の莫大な「負の遺産(レガシー)」について報道する時には「どうしてこんなことが起きてしまったのでしょう。責任を問う声が高まっています」というようなしらばっくれた物言いだけは自制して欲しいと思う。

20年ほど前、ローザンヌで短いバカンスを過ごしたことがあった。その時、五輪博物館を訪れた。地下の人気のない図書室の書架にフランス語で書かれた「東京五輪計画書」を見つけた。64年のものかと思って手に取ったら、1940年の「幻の東京五輪」の計画書だった。興味をひかれて、日が翳るまで頁を繰り続けた。
添付されていた写真を見ると、空襲に遭う前の帝都の空は青く、市街は端正なおもだちをしていた。競技場も体育館もプールも「ありものの使い回し」という質素な感じがして、好感を持てた。この五輪に参加するはずだった日本人アスリートのうちのいくたりかはその後戦死しただろう。
本を閉じてからしばらくこのアスリートたちが誰も死なない「1940年に(日中戦争をなんとか講和に持ち込んで)東京オリンピックが予定通り開かれた日本」についての多元宇宙的な空想にしばし耽った。1940年に五輪が開かれていたら、果たしてその後の日本はどんな国になっていただろう。
今から半世紀後に同じローザンヌの図書室で「東京五輪2020年」のドキュメントをみつけた日本人の旅客はそれをめくった時にどのような感懐を抱くのだろうか。私には想像ができない。まったく、想像もつかない。