「邪悪なものの鎮め方」韓国語版序文

2016-08-03 mercredi

邪悪なものの鎮め方 韓国語版序文

韓国のみなさん、こんにちは。内田樹です。
『邪悪なものの鎮め方』、お買い上げありがとうございます。
次々と僕の本が韓国語に翻訳されていること、とてもうれしく思っています。
 2012年前から毎年韓国にお招き頂いて、ソウルはじめ各地を講演旅行をしています。講演を聴きに来てくださった方もこの本の読者の中にはきっとおられると思います(いつもありがとうございます)。でも、どうして僕の講演を聴きたいという人がいるのか、どうして僕の本を次々と訳して出版して下さるのか、正直に言って、今もよくわかりません。だって、そんなの韓国だけなんですから。僕の本は、韓国語訳以外は中国語訳が数冊出ていますけれど、それだけなんです。英語訳もフランス語訳もドイツ語訳もロシア語訳も・・・何もない。ですから、ほんとうは「海外でじゃんじゃん訳されているのだから、私もグローバルな物書きなのだ」と胸を張りたいところですけれど、この「海外」にはとりあえず東アジア圏しか含まれていません。欧米語圏では僕の本の需要はまったくないのです。ゼロです(フランスの雑誌とドイツの雑誌からそれぞれ一度寄稿依頼があり、スイスのラジオからも一度取材がありましたけれど、それが全部)。
不思議ですね。僕も最初の頃は「おお、韓国語版が出たか。なんと、中国語訳も。ならば、遠からず英語訳なども出るのだろう(ふふふ)」というような楽観的展望を抱いていたのですけれど、まったくそのようにはなりませんでした。
どうしてなんでしょう。
それはやはり僕が「東アジア・ローカルな問題」を扱っているということなんだろうと思います。
僕自身はもちろん現代日本社会の問題を専一的に論じていたつもりですけれど、韓国の読者はそこに現代韓国社会に通じるものを感じてくれた。中国の読者も(多少は)現代中国社会に通じるものを感じてくれた。
でも、それ以外の国々には、僕の本を読んで、「この人の書いたものをぜひ同国人に読んで欲しい」と思った人がいなかった。「だって、ここに書いてあるような問題は自分の国には見当たらないから・・・」と、そう考えたのだと思います。東アジアにおいてだけ、「ここに書いてあるような問題は私たちの国にもある」と実感してくれる人がいた。韓国が世界で最初に、そういう人たちが僕の本を「発見」して、翻訳してくれた。そのことに改めて感謝したいと思います。

僕の書くものには、学術的な国際共通性があるわけでもないし、日韓関係にとって政治的・外交的に意味のあるものでもありません、もちろん文学的価値があるわけでもない。学術的に意味があれば学者たちが取り上げるでしょうし、政治的に意味があれば政治部の記者たちが取り上げるでしょうし、文学的価値があれば文学者が放っておかないでしょう。でも、そうではなくて、僕の書いたものを最初に取り上げて韓国の読者に紹介してくれたのは「ふつうの人たち」でした。市民たちが、彼らの日常の生活感覚に基づいて「これ、面白い。こういうことを言う人は韓国にはあまりいないなあ」と思って翻訳出版の労をとってくれた。そのことが僕にはとてもうれしいです。

繰り返し書いている通り、21世紀の東アジアの秩序は日韓両国の友好と連携を土台にして成立するはずだと僕は信じています。でも、その日韓新秩序が実現するためには、政府間交渉や、両国の企業連携とか、そういう実利的なレベルの結びつき以外に、市民同士の「隣国の人の気持ちが私にもよくわかる」という人間的な親しみが絶対に必要です。
僕の本は学術的有用性においても、政治的知見においても、文学的価値においても、見るべきものを含んでいません。けれども、「現代のふつうの日本人が、どんなふうに思考し、どんなふうに感じ、どんなふうに行動しているか」についての観察と分析はかなり豊かです。現代日本のさまざまな「病」を扱っている僕の分析が、現代韓国の抱えている類似の「病」に対する処方を講ずるための一助になるのでしたら、「お役に立ててうれしいです」と申し上げたいと思いますし、そしてもし、僕の本が韓国の読者たちの、日本人に対する人間的親しみを増すための足がかりになるのでしたら、日韓の未来のために、これほどうれしいことはありません。

最後に、この本の翻訳出版のためにご尽力くださったすべての韓国市民の方々に感謝と連帯の挨拶を送ります。いつもありがとうございます。