日弁連での講演の「おまけ」部分

2016-07-22 vendredi

日弁連の勉強会で「司法の役割と現代」というお題で講演をした。なが~い講演だったけれど、最後のほうで質疑応答があったので、その部分だけ採録(ただしコピーライトの関係で僕がしゃべった回答部分だけで、弁護士のかたたちからの質問はカット)。

【第一の質疑】
後の質問からお答えします。
道場やっていて、道場ではほぼ毎日稽古しています。それとは別に週に一回、寺子屋ゼミをやっています。これは大学院の授業の延長で、どちらでもいつでもお入りになれます。どなたでも、年齢制限はございません。
前の方の質問ですけれども、日本は反知性主義に支配されているというと、「じゃあ支配している人がいるんですね」というお話になりましたけれども、これは論理的には成立しません。ある破局的な事態が起きたときに、この事態を制御している人間がいると推論することはできません。すべてをマニピュレイトしている「オーサー」が存在するというのは、陰謀史観です。これは複雑な状況を単純化して把握したいと望む知性の怠慢がもたらすもので、むしろ反知性主義のひとつの現われです。
たしかに、今の世界は混乱しておりますし、その混乱から結果的に受益している人たちはいます。でも、別にこの受益者たちが世界の政治や経済をコントロールしているわけではありません。「風が吹けば桶屋が儲かる」からと言って、桶屋が気象をコントロールしていると推論することはできないのと同じです。今の世界は単一の「オーサー」によって操作されているわけではありません。それぞれの地域、それぞれの領域で、自発的に無数のファクターが運動している。もう人間のコントロールを離れている要素も多い。
例えば、今では株の売買というのはほとんどコンピュータのアルゴリズムがやっている。計算式が1秒間で千回というような速度で株の売り買いをしている。人間が株の売買やっているのであれば、いろいろ思惑があったり、みんながこっちを買うなら逆に張るとか、そういう個人的な経験則が関与するだろうし、大きな値動きがあったときに、うっかり居眠りしていて売買の機会を逃したというようなことだってあるでしょうけれども、もう今の株取引ではそういう個人的な「ノイズ」が関与する余地がない。機関投資家たちのコンピューター売買ではもうノイズが出ない。だから、わずかな入力で劇的な出力が結果することになる。わずかな値動きに反応して、世界中のコンピュータが同時に売り買いを始めて、株価が乱高下する。これはもう企業の事業内容とは無関係なんです。いきなり株価が急騰したり急落したりする。誰の責任でもない。この株価を誰が操作しているのだと言われても、別に誰も操作しているわけじゃない。コンピュータが勝手にやってるんですから。アルゴリズムを書いた人だって、別に世界経済を混乱に導くために邪悪な意図をもって設計したわけじゃない。すでに経済自体人間のコントロールを離れている。金融経済というのはそういうものです。もう生身の人間の生活とは関わりがない。
実体経済というのは人間の衣食住をベースにして動きます。人間の生理的欲求を満たすということが、経済活動のベースに、全部ではないけれど、重要な要素として関与している。こういう家に住みたい、こういう服を着たい、こういうものを食べたいというのは、どれほど幻想的であっても、ベースには身体があります。だから、実体経済で動いている限り、経済活動の規模には限度がある。人間の身体という限界がある。消費活動はどれほど倒錯的なものであっても、結局は身体という限度を超えることはできない。
イメルダ・マルコスは靴3,000足持っていたそうですけれど、そのあたりが個人所有できる財の数的な上限でしょう。一日三回履き替えて三年。それくらいが人間の想像力の及ぶ限界です。服だってそうです。一回に着られるのは一着だけです。重ねて何着も着るわけにはゆかない。飯だって一日に三度が適度であって、金があるからと言って、毎日四度五度とごちそうを食べていたらすぐに死んでしまう。家だってたくさんあってもしょうがない。夜寝られる家は一軒だけです。一時間おきに次の家に移動して、持ち家数を誇ってもいいけれど、寝不足で死んでしまう。消費活動には最終的に「身体というリミッター」がかかっている。実体経済は消費活動がベースです。消費活動である限り、それがどれほど幻想的な消費行動であっても、身体というリミッターは外せない。
でも、それではもう経済成長ができないということがわかった。身体というリミッターを外して、人間の経済活動を無制限のものにしようと考えた人がいた。それが金融経済です。
ここで起きている出来事はもう生身の人間の身体とは関わりがない。だって、これはもう消費活動じゃないからです。商品やサービスを買うわけじゃない。金で金を買うのです。株を買い、不動産を買い、国債を買い、石油を買い、金を買い、外貨を買う。これらはすべて金の代替物です。
もう現代の経済活動は人間の生理的要求を充たすためではなくて、お金の自己運動になっている。ただ、ぐるぐる回っているだけです。もう人間は関係ない。だから、極端な話、ある日パンデミックで世界の70億人が絶滅したとしても、その翌日に証券取引所ではアルゴリズムが元気よく株の売り買いをしているはずです。もう人間抜きで経済活動が行われている。
経済はもう成長しないのです。
経済活動には身体という限界があり、人間の頭数を無限に増やすことは地球環境というリミッターがあってできない。どこかでキャリングキャパシティを超えたら、人口は減り始める。
日本の場合は世界でも最も早く人口が減り始めた。これは自然過程なんです。でも、今のビジネスマンたちは無限に右肩上がりし続ける経済モデルでしか思考できない。だから、どうやって人口を増やすのか、ということしか考えない。でも、増えるわけないんです。このまま日本の人口は減り続けます。国土交通省が出している2100年の人口予測は6500万人から3800万人の間です。あと80年ちょっとで幕末くらいの人口にまで減る。経済成長なんかするはずがない。
この人口推移でなお経済成長しようとしたらできることはいくつもありません。
一つは戦争をすること。戦争というのは極めて活発な経済活動を導きます。どこでもいい、どこかに戦争を仕掛ける。戦争が始れば私的財産を洗いざらいひっかき出してマーケットに投じることができる。「欲しがりません勝つまでは」で社会福祉も医療も教育も、金にならないセクターには一文も投じなくて済む。軍需産業は大儲けできる。成金たちが車を買ったり、シャンペン飲んだり、豪邸建てたりすれば、そういう富裕層向けの小売り業も「トリクルダウン」に浴するかも知れない。
でも、戦争の場合は「負ける」というリスクがあります。ふつうどちらかが負ける。負けるとさまざまなもの失う。国土も国富も失う。その前に国民の生命財産自由が失われる。負けたら世界最貧国になるかも知れないけれど、もしかしたら勝つかも知れないから、とりあえず経済成長のために戦争をしようというような提案は、さすがどれほど愚鈍な政治家や官僚も(心で思ってはいても)恥ずかしくて口には出さないでしょう。
もう一つもこれに関連しますが兵器産業に産業構造をシフトすること。兵器産業というのは資本主義にとっては理想の商品です。ふつうの商品の場合、商品をマーケットに投下すると、ある時点でマーケットは飽和する。もう行き渡ったので、それ以上は要らないということになる。メーカーは付加価値をいろいろ付けて「新商品」を出すけれど、もうそれほどは売れません。でも、兵器には「飽和」ということがない。というのは、兵器の主務とは兵器を破壊することだからです。マーケットに兵器が投下されればされるほど、破壊される兵器の数が増える。対立や憎しみが激化すればするほど兵器へのニーズは増大する。「永久機関」という夢のテクノロジーがありますけれど、兵器は「永久商品」なんです。街を走っている自動車が他の自動車を壊すということは、交通事故以外ではありません。トヨタの車が日産の車見つけたら、車線を越えてぶつかって壊すというようなことは起こらない。でも、兵器の場合はそれが起こる。それどころか、自社製品だって手当たり次第に壊す。同類の商品を破壊するという機能に特化した商品ですから、経済成長が停滞した時代に製造業の人たちが兵器産業に最後の希望を見出して走り寄るのは当たり前なんです。経済合理性から言えば、それが当然なんです。僕が三菱重工の社員だったら「これからは兵器産業しかない」って社長に進言しますよ。実際にこの間経団連のえらい人が言っていましたね。「そろそろ戦争でも起こってもらわないと、経済が回らないから」って。それが本音だと思いますよ。
実際に経済成長率というのは、戦争や内乱やクーデタの国において非常に高いのです。2012年の経済成長率世界一はリビアです。前年にカダフィが死んで内戦状態のリビアが一位。2013年の一位が今話題の南スーダンです。内戦状態で統治機構が麻痺している国が一位。2014年の一位が内戦で荒廃したエチオピアです。どの年度でもトップ10の国名を見ればわかります。戦争や内乱やクーデタやテロで国内が荒れ果てた国ではその後急激に経済が成長する。当然ですね。そういう国では戦闘で社会のインフラが破壊されてしまったからです。社会的インフラというのは「それがなければ生きていけないもの」ですから、どんなことがあっても再建します。借金しても、税金上げても、とにかく作る。道路を通し、鉄道を通し、上下水道を通し、電気を通す。学校を作る、病院を作る、役所を作る。そして、戦争が起きるとまたそれが破壊される。また作り直す。その破壊と再建によって未来のために備蓄すべき国民資源はどんどん失われます。でも、共同体が生き延びるために長く使い延ばさなければならないストックを市場に投じればフローは増える。そして、驚異的な経済成長率を達成する。これが戦争経済の仕組みです。
もう一つ、経済成長のための秘策があります。それは日本の里山を居住不能にすることです。これも経済成長だけを考えたら、効率的な政策です。僕が今総務省の役人で、上司から「人口減少局面での経済成長の手立てはないか」と下問されたら、そう答申します。「里山を居住不能にすれば、あと30年くらいは経済成長できます」と。
国内の農業を全部つぶす。限界集落、準限界集落への行政サービスを停止して、里山を居住不能にする。故郷にこのまま住み続けたいという人がいても、もうそこにはバスも通らないし、郵便配達も行かないし、電気も電話も通りません。新石器時代の生活でもいいというのなら、どうぞそのまま住み続けてください。でも、犯罪があっても警察は来ないし、火事が起きても消防車は来ないし、具合が悪くなっても救急車も来ませんよ、それでいいんですね。そこまで言われたら、誰でも里山居住は断念するでしょう。みんな里山を捨てて都市部に出てくる。これで行政コストは大幅に削減できます。里山居住者は地方都市に集められる。離農した人たちには賃労働者になるしかない。仕事が選べないのだから、雇用条件はどこまで切り下げられても文句は言えない。そこで暮らすか、東京に出るしかない。そうすれば、人口6000万人くらいまで減っても、経済成長の余地がある。日本人全員を賃労働者にして、都市にぎゅうぎゅう詰めにして、消費させればいいんです。「日本のシンガポール化」です。
シンガポールの人には申し訳ないのですけれど、シンガポールという国は全く資源がないわけです。都市国家ですから。資源がない。土地もないし、水もないし、食べ物もない、自然資源もない。何もない。生きるために必要なものは全部金で買うしかない。だから、国是が「経済成長」になる。経済成長しなければ飢え死にするんですから、必死です。全国民が経済成長のために一丸となる。だから、効率的な統治システムが採用される。一党独裁だし、治安維持法があって令状なしに逮捕拘禁できる、反政府的な労働運動も学生運動も存在しないし、反政府的なメディアも存在しない。そういう強権的な社会です。日本もそういう社会体制にすればまだ経済成長できるかもしれない。
でも、日本にはシンガポール化を妨げる「困った」要素があります。それが里山の豊かな自然です。
温帯モンスーンの深い山林があり、水が豊かで、植生も動物種も多様である。だから、都市生活を捨てた若い人たちが今次々と里山に移住しています。移住して農業をやったり、養蜂をやったり、林業をやったり、役場に勤めたり、教師になったり、いろんなことをやっている。今はたぶん年間数万規模ですが、おそらく数年のうちに十万を超えるでしょう。都市から地方への人口拡散が起きている。政府としてはそんなことをされては困るわけです。限界集落が消滅しないで、低空飛行のまま長く続くことになるわけですから、行政サービスを続けなければいけない。おまけに、この地方移住者たちはあまり貨幣を使わない。物々交換や手間暇の交換という直接的なやりとりで生活の基本的な資源を調達しようとする。そういう脱貨幣、脱市場の経済活動を意識的にめざしている。ご本人たちは自給自足と交換経済でかなり豊かな生活を享受できるのだけれど、こういう経済活動はGDPには一円も貢献しない。地下経済ですから、財務省も経産省も把握できないし、課税もできない。これは政府としては非常にいやなことなわけです。
それもこれも「里山という逃げ場」があるせいだからです。だから、この際、この逃げ場を潰してしまう。総務省が主導している「コンパクトシティ構想」というのがありますけれど、これはまさに「里山居住不能化」のための政策だと思います。
すでに日本各地でコンパクトシティ構想が実施されていますけれど、農民たちを農地という生産手段から引き剥がして、都市における純然たる消費者にする計画です。それまで畑から取ってきた野菜をスーパーで買わなければならないようになる。もちろんGDPはそれだけ増えます。本人の生活の質は劣化して、困窮度が高まるわけですけれども、必要なものをすべて貨幣を出して買わなければいけないので、市場は賑わい、経済は成長する。
里山が居住不能になれば、地域共同体も崩壊します。伝統芸能とか祭祀儀礼もなくなる。そもそも耕作できなくなったら農地の地価が暴落する。ただ同然になるけれど、里山自体がインフラがなくなって居住不能なので、もう買う人はいない。自分で竈でご飯を炊いて、石油ランプで暮らすような覚悟のある人しか居住できない。でも、今政府が進めているのはまさにこの流れです。里山居住者をゼロにする。
別に総務省の誰かが立案しているわけじゃないと思います。人口減少局の超高齢社会においてさらに経済成長しようというような無理な課題を出したら、戦争するか、兵器産業に特化するか、里山を居住不能にして、都会に全人口を集めて賃労働と消費活動をさせるというくらいしか思い付かないからそうしているのです。経済合理性の導く必然的な結論なわけですよ。別にどこかに糸を引いている「オーサー」がいるわけじゃない。でも、経済成長「しかない」と信じているのなら、日本に許された選択肢はそれくらいしかないということです。
だから、われわれが言うべきなのは「もう経済成長なんかしなくていいじゃないか」ということなんです。今行われているすべての制度改革は、改憲も含めて、すべて「ありえない経済成長」のためのシステム改変なんです。経済成長をあきらめたら、こんなばかばかしい制度改革は全部止めることができる。でも、まだ言っている。民進党も相変わらず「成長戦略」というような空語を口走っている。SEALDsの若者たちでさえ「持続可能な成長」というようなことを言っている。若い人たちさえ経済成長しないでも生き延びられる国家戦略の立案こそが急務だということがまだわかっていない。
水野和夫さんのようなエコノミストがもう成長しないんだから、定常経済にソフトランディングすべきだと提案されていますけれど、政治家もメディアもそういう知見を取り上げない。でも、これは歴史的な自然過程なんです。どうしようもない。反知性主義的思考停止は「ありえない経済成長」のための秘策を必死に探し出して、国をどんどん破壊してゆくというかたちで症候化している。彼らは自分たちが閉じ込められているこの檻以外にも人間の生きる空間があることを知らない。そして、檻の強化のために必死になっている。
われわれが提示できるのは、このような状況においても、われわれの前にはまだ多様な選択肢があるとアナウンスすることです。われわれは歴史のフロントラインにいるわけです。これは人類がかつて一度も経験したことのない前代未聞の状況です。人口減少局面なんか、日本列島住民は古代から一度も経験したことがない。だから、どうすればいいかなんてわかるはずがない。この先何が起こるかわからない。分からない以上は「この道しかない」と言って「アクセルをふかす」ような愚劣なことをしてはならない。先が見えないときは、そっと足を出して、手探りで進む。過去の経験知に基づいて、「さしあたり、これは大丈夫」という手堅い政策だけを採択する。それくらいしかできなと思います。

【第二の質疑】
最初のご質問は政治学の話ですね。現代の政治過程の株式会社化、市場原理化について、政治学者たちがどう考えているか。僕もよく知りません。そういうような論文を書かれたりしている政治学者ってあまりいないんじゃないでしょうか。僕の今日の話も、全部素人の床屋政談の類です。別に政治学的な根拠があって話しているわけじゃありません。でも、素人でも、わかることはわかる。
僕が子どもの頃は、まだ日本の産業の半分は農業でした。勤労者の半数が農業従事者だった。都市サラリーマンはというのはまだ少数派でした。サラリーマン・マインドというのが、ここまで国民全体に広がっていって、それ以外の発想法もある、それ以外の組織原理もある、それ以外の意思決定プロセスもあるという平明な事実そのものが忘れられてしまった。それはほんとうにこの20年ぐらいですね。1980年代から後ですね。だから、マインドといっても、基本的には相対的な、数値の問題なんですよ。サラリーマンの数が増え過ぎて、生まれてからサラリーマンしか見たことがない、サラリーマン的な組織しか知らないという人たちが人口のマジョリティを占めたせいで、あたかも株式会社こそが社会のあるべき姿であって、それ以外の組織形態は「ありえない」と素朴に思い込む人が増えてしまった。それだけのことだと思います。ものを知らないというだけのことです。
サラリーマン・マインドの内面化という事態は、統計的に示すとか、エビデンスを示すことができません。だって、政治学者たち自身が株式会社化した大学の中でキャリア形成しているわけですから。それがふつうだと思っている人に「日本はおかしいよ」と言ってもきょとんとされるだけじゃないですか。
僕みたいな文学者とか武道家とか政治学と全く無関係な人間であれば、何を言っても相手にされないので、お目こぼしに与れる。
混乱期激動期に起きている「これまで見たことのない現象」はどういうふうに記述すべきか、どういうふうに測定すべきか、観察や計測の手段そのものがない。だから、学問的・客観的にそれについて語ろうと思うとむずかしい。でも、それでいいと思うんです。僕はもう大学教員じゃありませんから、学術的厳密性のないことをしゃべっても、特段のペナルティも負わない。そういうアドバンテージを持つ少数の人間が「そういうこと」を話せばいい。

あとの方の質問は対米従属ですね。対米従属のありようもどんどん時代とともに変わっていると思います。1945年から1972年の日中共同声明くらいまでの期間が「対米従属を通じて対米自立を獲得する」という戦後の国家戦略がそれなりの結果を出すことができた時期だと思います。米軍が出て行った後、安全保障についても、外交に関しても、エネルギーについても、一応国家戦略を自己決定できるような国になりたいという思いがあった。でも、72年の日中共同声明が結果的には日本政府が自立的に政策判断した最初で最後の機会になりました。
それまでは「対米従属を通じての対米自立」戦略はそれなりに成功してきたわけです。45年から51年まで6年間にわたる徹底的な対米従属を通じてサンフランシスコ講和条約で形式的には国家主権を回復した。その後も朝鮮戦争、ベトナム戦争でも、国際世論の非難を浴びながらアメリカの世界戦略をひたすら支持することによって、68年に小笠原、1972年に沖縄の施政権が返還された。講和と沖縄返還で、日本人は「対米従属によって国家主権が回復し、国土が戻って来た」という成功体験を記憶したわけです。
そのときに、田中角栄が出て来た。そして、主権国家としての第一歩を踏みだそうとして日中国交回復という事業に取り組んだ。もう十分に対米従属はした。その果実も手に入れた。そして、ホワイトハウスの許諾を得ないで中国との国交回復交渉を始めた。その前にニクソンの訪中があったわけですから、遠からずアメリカから日本政府に対して「中国と国交を回復するように」という指示が来ることは明らかだった。日中国交回復はアメリカの世界戦略の中の既定方針だったわけですから。そして、田中角栄は日中国交回復に踏み切った。
これについてアメリカが激怒するというのは外交的には意味がわからないんです。だって、いずれアメリカが指示するはずのことを日本政府が先んじてやっただけなんですから。でも、このとき、キッシンジャー国務長官は激怒して「田中角栄を絶対に許さない」と言った。その後の顛末はご存じの通りです。だから、あのときに日本の政治家たちは思い知ったわけです。たとえアメリカの国益に資することであっても、アメリカの許諾を得ずに実行してはならない、と。
対米自立を企てた最後の政治家は鳩山由起夫さんです。普天間基地の移転。あのときはすさまじい政官メディアのバッシングを喰らって、鳩山さんは総理大臣の地位を失った。理由は「アメリカを怒らせた」というだけ、それだけです。日本の総理大臣が日米で利害が相反することについて、日本の国益を優先するのは当然のことだと僕は思いますけれど、その当然のことをしたら、日本中が袋叩きにした。
もうこの時点になると、対米従属だけが自己目的化して、対米自立ということを本気で考えている政治家も官僚も財界人もジャーナリストも政治学者もいなくなった。
日本の指導層はアメリカのご意向を「忖度」する能力の高い人たちで占められている。その能力がないとキャリアが開けないんだから仕方がない。それぞれの持つしかるべき「チャンネル」から、アメリカはこういうことを望んでいるらしいということを聞き出してきて、それをしかるべき筋に注進して、それを物質化できる人間の前にしか今の日本では日本ではキャリアパスが開けない。そういうことです。
ですから、これからあと、アメリカが宗主国としての「後見人」の役を下りた場合に、日本はいったいどうする気なのか。僕には想像がつきません。今の日本には自立的に国防構想や外交構想を立てられる人物がいない。政治家にもいないし、官僚にもいない。どうやってアメリカの意図を忖度するのか、その技術だけを競ってきたわけですから、日本の国益をどうやって最大化するか、そのためにはどういう外交的信頼関係をどこの国と築くべきか、どういうネットワークを構築すべきか、指南力のあるメッセージをどうやって国際社会に向けて発信するか、そういうことを真剣に考えている人間は今の日本の指導層には一人もいない。とりあえず、身体を張ってそういうことを口にして、広く国民に同意を求めるというリスクを冒している人間は一人もいません。
この人たちのことをだらしがないとか言っても仕方がない。倫理的な批判をしても、彼らの「オレの出世が何より大切なんだ」というリアリズムには対抗できない。日本の国益って何だよ、と。そんなもののことは考えたことがない。アメリカに従属すれば自己利益が増大するということはわかる。だからそうやって生きている。そうやって財を築き、社会的地位を得て、人に羨まれるような生き方ができている、そのどこが悪いとすごまれると、なかなか反論できません。
でも、本当に新聞の記事には「日本の国益」という言葉がもうほとんど出てこない。一日に一回も出てこない日もある。外交や基地問題や貿易問題とかを論じている記事の中に「国益」という言葉が出てこないんです。国益への配慮抜きで政策の適切性について論じられるって、すごいアクロバットですよね。でも、日本のジャーナリストたちはそういう記事を書く技術だけには長けているんです。国益については考えない、と。国益を声高に主張すると、対米従属の尖兵になっている連中に引きずり下ろされて、袋叩きになるということがわかっている。そういうどんよりした空気が充満しているんですよね。いったいどうなるんでしょう、これから。

【第三の質疑】
破局願望というのは、少し強い言い方ですけれども、変化願望ですね。とにかくどんどん変化するのがいいんだ、と。目先のことに即応して変化すること自体が価値なんだ、と。
社会を早く変化させるファクターは二つあります。政治イデオロギーと経済です。ですから、社会の変化を加速するためには、社会的共通資本を政治イデオロギーや経済活動に結びつける。学校教育にイデオロギー教育を持ち込む、医療に市場原理を持ち込む、行政に「民間」を持ち込む。そういうことです。司法の場合、どういうかたちで「変化しろ」という圧力がかかってくるのか、僕にはわかりません。イデオロギー的な抑圧というかたちで来るのか、それとも法曹たちの活動はもっと市場原理に従うべきだという言い方で来るか、それはわかりません。たぶん経済活動との結びつきを強化しろというかたちで来るんだろうと思います。法曹は旧態依然としていて、社会の変化に対応していない。もっと社会の変化にキャッチアップできるようなレスポンスのいい組織に切り替えろ、と。たぶんそういう言い方をしてくると思います。実際にもう弁護士会の中にもそういう主張をしている人がいるかもしれませんけれど、それはグローバル資本主義への最適化ということを言っているのです。それに対して、皆さん方ができる抵抗というのは、とりあえず浮き足立って変化することをきっぱりと拒否するということです。
われわれの社会的責務は社会のいたずらな変化を抑制し、社会の常同性を担保することにある、と。だから、政治イデオロギーがどう変わろうと、経済システムがどう変わろうと、それに最適化して司法のシステムを変えるということは受け容れない。変えてはいけないものは変えてはいけない。変わってはいけないものを守護するのがわれわれ法曹の仕事である、と。きっぱりそう言うべきだと思います。
それが皆さんに真に求められているものではないかという気がします。社会制度の常同性を担保することのたいせつさを本当に現代日本人は軽んじていると思います。それがわれわれの職業的責務であるということをきちんと言い切り、そのための理論武装がないと,「社会のニーズに合わせて変化しろ」という圧力に抗して戦い抜くことは難しいと思います。