「細雪」文庫版解説

2016-08-03 mercredi

『細雪』文庫版解説

音楽雑誌ではときどき「無人島レコード」というアンケート企画を行う。「無人島に一枚だけレコードを持っていってよいと言われたら何を選ぶか」という究極の選択である(私も一度このアンケートに回答したことがある)。
無人島レコードの条件は「何百回、何千回繰り返し聴いても飽きず、つねに高い水準の悦楽をもたらすこと」である。難しい条件だ。そのときはずいぶん悩んでアンケートに回答したことを覚えている。しばらくして、アンケート結果が掲載された雑誌が届いたときに、他の回答者はどんな音源を選んだのか気になってぱらぱらと頁をめくった。すると大瀧詠一さん(この人をどういう肩書きで呼んだらいいのか、よくわからない。私にとっては私淑する「師匠」である)が選んだのはレコードではなく『レコード・リサーチ』というカタログであった。それも1962年から66年までの分でいい、と。その理由を大瀧さんはこう述べている。
「その4年間くらいなら、ほぼ完璧だと思うんだよね。全曲思い出せるんだよ。その時期のチャートがあれば、いくらでも再生できるからね。自分で。たぶん、死ぬまで退屈しないと思うんだけどね。次から次へ出てくるヒット・チャートを、アタマの中で鳴らしながら一生暮らす、と。」(『レコード・コレクター増刊 無人島レコード2』、2007年、ミュージックマガジン、2007年、34頁)
虚を衝かれた。そうか。私たちが音楽的快楽を享受するときの資源は、そこにある現実の楽音、物理的な実在としての空気の波動ではなく、「アタマの中」にあるのか。楽音の不在もまた楽音の現前と同じほどリアルに音楽的快楽の資源でありうるのだ。

どうしてこんなことを書き始めたかというと、「無人島に一冊だけ本を持って行ってよいと言われたら、何を携行するか」という究極の問いに、私なら迷わず『細雪』と答えるはずだからである。
ずいぶん以前からそう思っていた。実際に、その「風景」を私はありありと思い描くことができる。熱帯の灼けつくような青空の下、無人島の椰子の木陰の籐の長椅子に私は気だるく身を横たえている。そして、冷えたピニャコラーダを啜りながら(無人島には冷蔵庫があって、食べ物も酒も潤沢なのである)、『細雪』の気に入った箇所をぱらりとめくって、数行だけ読む。
例えば、幸子が花見の旅程を想像する場面。

「で、常例としては、土曜日の午後から出かけて、南禅寺の瓢亭で早めに夜食をしたため、これも毎年缼かしたことのない都踊を見物してから帰りに祇園の夜桜を見、その晩は麩屋町の旅館に泊って、明くる日嵯峨から嵐山へ行き、中の島の掛茶屋あたりで持って来た弁当の折を開き、午後には市中に戻って来て、平安神宮の花を見る。」

この数行を読むだけで無人島の私はすでに陶然となっている。
ここに出てくるほとんどの固有名詞について私はそれがどんなものか知らない。瓢亭に入ったこともないし、都踊を見たこともないし、麩屋町がどこにあるかも知らない。けれども、私の無知はこの数行がもたらす愉悦を少しも損なうことがない。それはこの記述そのものが幸子が今年の花見はどういう行程にしたものか胸を膨らませて想像している場面を、谷崎潤一郎が小説の一部として書き起こしている場面だからである。
幸子の前にも、作家谷崎の前にも、そして読者である私の前にも、誰の前にも桜はまだない。誰もまだ瓢亭の料理を口にしてはいない。誰も都踊を見ていない。誰もまだ嵯峨にも嵐山にも平安神宮にもいない。幸子も谷崎も私も、全員が、観桜の旅がもたらす快楽から等しく遠ざけられている
幸子は作品内世界において「あとしばらくすれば満たされるが、今は欠性的なかたちでしか存在しない桜の旅」に欲望を募らせ、作家谷崎は作中人物に作家自身の欲望を語らせることで自分の欲望を亢進させ、それを読む私は幸子と谷崎の自乗された欲望にさらに身を灼かれている。この数行がもたらす悦楽は、幸子の欲望を谷崎が欲望し、それを私が欲望しているという欲望の入れ子構造に由来する。そして、この入れ子構造の一番外側にあり、それゆえ最大の「マトリョーシカ人形」である私において、満たすべき空虚は最大化するのである。

私がこの読書から快楽を得るのは、谷崎の叙する雅致や美味を自分自身の記憶と同定し、「ああ、『あのこと』か」と納得しているからではない。そもそも私にはそのような記憶はない。だが、私の欲望は、それがどのような景観なのか、どのような味わいなのかを、他者の欲望を経由してしか知ることが出来ないがゆえに亢進するのである
私の亡母は、昭和十年代に蘆屋川に隣接する灘のブルジョワ家庭で暮らす女学生だった。だから、『細雪』に出てくる阪神間の風物についてはそのほとんどをありありと想起することができると生前に語っていた。けれども、その知識ゆえに母が、昭和十年代の阪神間についていかなる実体験も持たない私よりも大きな快楽を『細雪』から引き出していたとは思わない。そこに描かれていることについて何の実感の裏づけも持たなくても、「何の実感の裏づけも持っていないこと」を私は埋めることのできぬ欠如として実感することはできるからである。
『細雪』の叙するさまざまな「美しいもの」「愛すべきもの」はどれもがことごとく、指の隙間から絶え間なくこぼれ落ち、一秒ごとに失われてゆく。
この作品世界で流れる時間の中で、姉妹たちは遠ざかり続ける「黄金時代」、蒔岡の家が全盛だった自分たちの少女時代を折りにふれて哀惜する退嬰的な回想のうちに物語の冒頭から最後までつねに半身を浸らせている。そして、物語が進むにつれて、すなわち「黄金時代」が遠ざかるにつれて、全員がゆっくり若さを失い、健康を失い、生活の平安を失う。
そればかりか、私たち読者は、この物語の数年後に大阪や神戸がどのような徹底的な破壊を経験したのかを歴史的事実として知っている。
蒔岡家の姉妹も、その家族たちも、昭和二十年の夏までには、『細雪』の物語世界の中でかろうじて所有していたもののほとんどすべてを失ったはずである。

谷崎が『細雪』の稿を起こしたのは昭和17年(1942年)、太平洋戦争勃発の翌年である。翌18年の『中央公論』の新年号に第一回が掲載されたとき、すでに帝国海軍はミッドウェー海戦で艦隊主力と大量の航空機を失い、組織的な反撃が不可能な状態になっていた。もう負けるしかないのだが、どう負けるのか誰もその下絵を描くことができない。そういう先の見えない時代の暗鬱な大気圧の下で、谷崎は自分が愛してきたものはどれももう二度と戻らないと直感して、その「失われてしまった悦楽的経験のリスト」を網羅的に記述するという作業に没頭した。
いかなる政治的主張も含まないこの小説は、それにもかかわらず、陸軍省報道部の忌諱に触れて発禁処分を受け、私家版の頒布さえ禁じられた。
おそらく検閲官は『細雪』の全篇の行間から流れ出る「日本における『よきもの』はことごとく不可逆的な滅びのプロセスのうちにある。だから私たちの最優先の仕事はそれを哀惜することである」という谷崎の揺るぎない作家的確信に、一種の恐怖を感じたのだろうと思う。この耽美的な書物のうちに黒々とした「日本の未来に対する絶望」を感知した検閲官の「文学的感受性」に対して私は敬意を示してもよいと思う。
谷崎の「日本の未来への絶望」はどの頁のどの行間からも滲出してくる。
例えば、上京した幸子が鶴子を大黒屋という大川端の鰻屋に誘う場面。

「『たしか前には、こんな川附きの座敷はなかったような気イするけど、場所はここに違いないわ。-』
幸子もそう云って障子の外に眼を遣った。昔父と来た自分には、この河岸通しは片側町になっていたのに、今では川沿いの方にも家が建ち、大黒屋は道路を中に挟んで、向こう側の母屋から、川附きの座敷の方へ料理を運ぶようになっているらしかったが、昔よりも今のこの座敷の眺めの方が、一層大阪の感じに近い。というのは、座敷は川が鍵の手に曲がっている石崖の上に建っていて、その鍵の手の角のところへ、別にまた二筋の川が十の字を描くように集って来ているのが、障子の内にすわっていると、四つ橋辺の牡蠣船から見る景色を思い出させるのである。」

幸子はその大川端の景色を見ながら「江戸時代からあるらしいこのあたりの下町も、震災前には大阪の長堀辺に似た、古い町に共通な落ち着きがあったものだけれども」と失われた風景を回想する。
ここでも複数の水準で欲望は亢進している。鶴子と幸子は、東京にいながら、今はもう往時の面影をとどめない、姉妹の少女期の原風景、四つ橋辺りの長堀川のようすを回想している。それは蒔岡の父が全盛だったころ子どもたちに贅沢の限りを尽くさせた「失われた黄金時代」の記憶に結びついている。そして、目の前の大川端の風景は、そうやって二度と戻ってこない大正期の大阪の豪奢な生活を姉妹に思い出させると同時に、二度と戻ってこない「江戸時代から」保ってきた「古い町に共通な落ち着き」をも哀惜させる。
大黒屋から見える風景は、それ自体のたたえる趣によって幸子の心に触れるのではなく、その風景が空間的にも時間的にも、そこにないものを前景化させるがゆえに感動的なのである。
このとき幸子の「江戸への郷愁」は、日本橋に生まれ、大川端の風景に囲まれて育ち、震災の後、「新開地」になってしまった東京を捨てて関西に移住した谷崎自身の「江戸への郷愁」を上書きしている。
私自身は震災前の大川端の江戸時代の名残も知らないし、大正時代の長堀川の景色も知らない。けれども、それを失ってしまったという取り返しのつかない欠落感については、幸子とも谷崎とも、私はそれを共有することができる。「懐かしいもの」を所有していたときの充足感は彼らとは共有できないが、「懐かしいもの」が失われて、もう二度と戻ってこないという深い欠落感なら、私も彼らと共有することができる。

『細雪』は喪失と哀惜の物語である。指の間から美しいものすべてがこぼれてゆくときの、指の感覚を精緻に記述した物語である。だからこそ『細雪』には世界性を獲得するチャンスがあった。私はそう思っている。
例えば、次のような非情緒的な数行を読んだときに私の動悸は少し速くなった。それは日本の音楽についても舞踊についても何も知らない異国の読者にも起きる可能性のある現象だと思う。

「幸子は本家の遣り方に楯を突くようで悪いけれども、何か今度の法事には充たされないものを感じていたので、一つにはそれを満足さすため、一つには久々で迎える姉を慰労するためにもと、善慶寺の集りのあとで、自分たち姉妹だけでささやかな催しをすることを思い付いた。で、法事の翌々日、二十六日の昼に、亡き父母にゆかりのある播半の座敷を選び、貞之助にも遠慮して貰って、姉と自分たち三姉妹のほかには富永の叔母とその娘の染子だけを招くことにした。そして餘興には、菊岡検校と娘の徳子に来て貰い、徳子の地、妙子の舞で『袖香炉』、検校の三味線、幸子の琴で『残月』を出すことにして、急に半月ばかり前から、幸子は家で琴の練習を、妙子は大阪の作いね師匠の所へ通って舞の練習を続けていた。」

どこで動悸が速くなったのかと問い詰められても、すぐにはかばかしい答えは思い付かない。くどいようだが、私は日本舞踊のことも邦楽のことも何も知らない。播半がどういう格式の料亭なのかも知らない。ただ、遠路東京から大阪に法事のために来た姉をいたわるために、二人の妹が舞と琴を披露するささやかな内輪の集まりのためにそれなりに真剣に芸の稽古に打ち込むという審美的生活の純度の高さに素直に感動するのである。
このような美的生活が許された時代がかつてあった。今はもうない。
私の母方の曾祖父は大正時代に生きた人だが、母によれば、生涯一度も労働ということをしたことがなかったそうである。父祖から受け継いだ財産を、詩文を草し、書画を嗜む美的生活のために使い切って亡くなった。昭和十年代にはかろうじてそのような美的生活の名残りが日本のところどころに残っていた。それがいずれ(近いうちに)根絶されるだろうということを谷崎は見通していた。この数行を谷崎はほとんど墓碑銘を刻むようなつもりで書いたのだろうと私は思う。

谷崎潤一郎は夏目漱石、村上春樹と並んで外国語訳の多い作家である。『細雪』や『陰翳礼賛』を耽読する外国人読者が数多く存在するということを私は不思議なことだとは思わない。
「存在するもの」は、それを所有している人と所有していない人をはっきりと差別化する。だが、「存在しないもの」は「かつてそれを所有していたが、失った」という人と、「ついに所有することができなかった」という人を喪失感においては差別しない。谷崎潤一郎の世界性はそこにあるのだと私は思う。