秀才について(再録シリーズその2)

2011-08-27 samedi

東北関東大震災から二週間が経った段階でこの原稿を書いている。被害の規模はまだ確定していない。原発事故の先行きも不透明である。それでも、東電と政府の初動に問題があったことはほぼ確かとなった。「海水投入による廃炉」を初期段階から検討していたら、被害はここまで拡大しなかっただろう。国民の多くはそう思っている。なぜ、その決断ができなかったのか。私はこの「遅れ」のうちに日本型秀才の陥るピットフォールを見る。
秀才は判断が遅い。ことの帰趨が定まったあとに「勝ち馬に乗る」ことで彼らは成功してきた。その成功体験が骨身にしみついているので、彼らは上位者の裁定が下る前にフライングすることを病的に恐れる。ひとたび「正解」や「勝者」が示されると、素晴らしいスピードでその責務を果たすけれども、「どうふるまっていいかわからないとき」にどうふるまうべきかは知らない。つねに正解してきたせいで、危機的局面においてさえ、秀才たちはつい「正解」が開示されるのをじっと待ってしまう。その「遅れ」がしばしば致命的なビハインドをもたらすということを彼らは知らない。  
秀才たちは官僚であれ、ビジネスマンであれ、政治家であれ、査定者(それは上司であり、メディアであり、株主であり、有権者である)のまなざしをつねに意識している。だから、何を決定するときも「説得力のあるエビデンス」を求める。エビデンス抜きの直感的な決断を彼らは自分に許すことができない。「あとになって言い訳が立たないこと」ができない。エビデンスとエクスキュースが整うまでは「フリーズ」して待つ。それが秀才のピットフォールであり、その「遅れ」はときにシステムに大きな被害をもたらすのである。
誤解してほしくないが、私は秀才が「悪い」と言っているのではない。そうではなくて、上から「正解」が示される前に、論拠も言い訳も立たない時点で、なお自己責任で決断が下せる人間を、統治の要所に一定数配備しておくことはシステムの保安状必須であろうと言っているだけである。
別にオカルト的な能力が要るわけではない。身体感度と判断精度を体系的に涵養すれば、「胆力のある人間」は組織的に生み出すことができる。現に、武道はそのためのものである。それゆえ、「胆力のある人間」の育成は教育の最優先課題であると私は言い続けてきた。しかし、教育行政の要路にもメディアにも、私に同意してくれた人はひとりもいない。