メルトダウンする言葉

2011-06-13 lundi

神戸大学都市安全研究センター主催、岩田健太郎さんがコーディネイターをつとめる「災害時のリスクとコミュニケーションを考えるチャリティー・シンポジウム」が日曜にあった。
参加者は岩田健太郎(神戸大学都市安全研究センター、神戸大学医学部教授)、上杉隆(ジャーナリスト)、藏本一也(神戸大学大学院経営学研究科准教授)、鷲田清一(哲学者、大阪大学総長)と私。
チャリティ・シンポジウムなので、そこで発生するあれこれの収益は被災地に寄付される。
上杉さんの名前は茂木さんのツイッターでよくお見かけするが、私は初対面。記者クラブの閉鎖性と日本の既存メディアの退嬰性を徹底的に批判している独立系ジャーナリストである。
藏本先生はビジネスにおけるリスク・マネジメントの専門家。
私はいったい何の専門家として呼ばれたのか、よくわからない。
「どうしていいかわからないときに、どうしていいかわかるための能力開発」の専門家ということかも知れない。この5年くらい、そういう話ばかりしているから。

どなたのお話もたいへんに興味深いものであった。
原発情報については、この90日間で、官邸・霞ヶ関・東電そしてマスメディアの発信する情報に対する国民の信頼性が深く損なわれたというのが、全員の共通見解だった。
今回の原発事故をめぐる情報管制・情報隠蔽は制度的・構造的なものであって、偶発的・属人的なものではない。
そのすべてに共通するのは、「嘘をついても、ごまかしをしても、無限に言い逃れをして、時間稼ぎをしているうちに『嵐は去る』。なぜならば人間はそれほど長期にわたって同一の論件について注意を向け続けることができないからだ」という、ある意味きわめて洞察に富んだ人間理解である。
それが原発をめぐる情報発信に伏流している。
例えば「メルトダウン」というのがその好個の適例である。
事故発生後、テレビに出て来た「原子力の専門家」たちも、もちろん東電も官邸も、「メルトダウンはありえない」と断言していた。
原子力安全・保安院の中村幸一郎審議官は事故直後の3月12日の記者会見で「炉心溶融の可能性がある」と発言して、更迭された。
その後も保安院が可能性を示唆した後も(4月19日)、官房長官は「冷却は行われており、メルトダウンは起こらないだろう」という見通しを語っていた。
東電がメルトダウンを認めたのは5月12日。その後に、枝野長官は早い段階からメルトダウンの可能性があるということを官邸はアナウンスしていたと述べた。
ネット上と週刊誌ではこの発言のぶれはずいぶん叩かれたけれど、マスメディアではストレートニュース扱いであった。
マスメディアは「全炉心溶融」(total meltdown)というそれまで使われなかった術語を持ち出して、「炉心溶融」はしたが、「全炉心溶融」はしていないという不思議な言葉づかいで結果的に官邸を側面支援した。
つまり、官邸が「炉心溶融」という言葉でこれまで意味していたのは「全炉心溶融」のことであって、「部分的な炉心溶融」の可能性は事故直後から排除したことがないから嘘は言っていないというのである。
不思議なロジックであるが、政治的には有効な方法であった。
現に、「メルトダウン」という言葉は3月12日から5月20日にかけて、「言った言わない」「定義が違う」「全炉心溶融と部分的炉心溶融では意味が違う」といった煩瑣な議論に繰り返し使われているうちに、だんだん言葉としての喚起力を失った。
私たちはもうその言葉を聴くことに飽きてきている。
その言葉を口にする人間は言い逃れか告発かごまかしか揚げ足取りか、いずれにせよバイアスのかかった文脈でしかその言葉を使わなくなったからである。
「メルトダウン」という語を冷静で科学的で実効的で「にべもない」口調で語る人が必要なのだが、そういう人だけが不在である。

震災と原発事故の後に、さまざまな制度的な欠陥が露呈したけれど、「言葉の軽さ」もその一つだろう。
そして、たしかに言葉が軽くなればなるほど、いったい何が起きたのか、これから何が起きるのか、誰が何をしたのか、何をしようとしているのか、私たちは何をしてしまったのか、これからどうすればいいのかといった一連のリアルで切実な問いの答えもますます不分明になってゆくのである。

わかっていることの一つは、今回の震災と事故に対して多少とでも「有責者」の側に立つ可能性のある人々は一貫して「言葉を軽くすること」に必死になっているということである。
彼らはあるときは無根拠に断言し、あるときは知っていることを隠し、あるときは言ったことを「言わない」と言い、あるときは言っていないことを「言った」と言い、あるときは一方的にまくしたて、あるときは「ノーコメント」の壁を立て、自分の言葉に対する「とりつく島」をひたすら減らすことによって、批判や攻撃を避けようとしている。
そして、それは確かに有効に機能しているのである。
言葉がどんどん軽くなり、人々はどんどん「とらえどころ」がなくなっている。
たぶん彼らは「言葉を軽くすること」でそれぞれの職務上の、あるいは倫理上の責任が軽減できるということを直感的に知っているのである。
その直感は正しい。
けれども、総理大臣からリーディングカンパニーの経営者まで、国立大学の教授から全国紙の社説まで全員が「私の言葉の意味をうるさく訊かないでくれ、言ったことの責任を追及しないでくれ、私が言ったことをいつまでも記憶しないでくれ」と言い出したら、この国の言葉はどうなってしまうのか。
どこかで踏みとどまって、「自分で責任が取れる範囲のことしか言わない、言ったことには自分で責任を取る」という規矩を自分の発言に課すという節度を立て直さなければ、私たちの社会の言論状況はさらにとめどなく劣化してゆくほかないだろう。