personal power plant のご提案

2011-06-12 dimanche

関西電力は10日、大企業から一般家庭まで一律に昨夏ピーク比15%の節電を求めた。
どうして、一律15%削減なのか。関電がその根拠を明示しないことに関西の自治体首長たちはいずれもつよい不快を示している。
関電の八木誠社長は会見で、節電要請は原発停止による電力の供給不足であることを強調した。
しかし、どうして首都圏と同じ15%で、時間帯も午前9時から午後8時までと長いのか。
会見では記者からの質問が相次いだが、関電から納得のいく説明はなかった。
関電は経産省からの指示で、今夏を「猛暑」と予測し、電力需要を高めに設定している。
だが、同じ西日本でも中国電力などは「猛暑」を想定していない。
また、震災で関西へ生産拠点が移転することによる電力需要増や、逆に、震災で販路を失った関西企業の生産が減少する場合の電力需要減などの増減予測については、これを示していない。
15%の積算根拠としては、猛暑時の電力不足分6・4%に「予備力」として5%、さらに3.6%の「余裕」を見込んで設定したそうである。
平年並みであれば、いずれも不要の数字である(そもそも「予備力」と「余裕」の違いが私にはわからないが)。
東電の「計画停電」と同じで、原発を止めると「こんなこと」になりますよ、と国民を脅かしつけて、原発の早期再稼働を求める世論形成をしようという経産省と財界のつよい意向を体したものだと考えるべきだろう。

「節電」というのは根本的な矛盾を含んだ要請である。
というのは、電力会社は営利企業であり、電気は彼らの売る「商品」だからである。
「節電」とは要するに「うちの商品をあまり買わないでください」と企業が懇願しているということである。
ふつうそういうことは起こらない。
そういうことを言われたら、「あ、そう」と言って、ほかの店に行って代替商品を買うに決まっているからである。
電気の場合は独占企業なので、それがむずかしい。
でも、できないわけではない。
自家発電システムに切り替えてしまえばいいのである。
大手の企業の多くは自家発電設備を備えている。ただし、ほとんどが化石燃料を使う火力発電であるから、原油価格が高いと電力会社から買う方が安い。
でも、電力会社から必要量が買えなければ、自分で電気を作ることになる。
95年の「電力自由化」によって、それが可能になった。
ポテンシャルとしては、全国の認可自家発電設備は3000箇所以上あり、火力発電の総出力は5380万KW、水力が440万KW。
原発54基の総認可出力(4900万KW)を超える。
これらの発電者を「特定規模電気事業者」と法律ではいう。
英語だと簡単で、PPS:Power Producer and Supplier 「動力を作って供給するもの」。
電力会社が「うちの商品を買わないでください。お出しするものがないのです」と消費者に懇願するのであれば、「よそで買ってくださるか、ご自身で調達してください」というのが筋だろう。

今問題になっている「発送電分離」というのはこの話である。
PPSは発電はできるが、送電のためのネットワークを持っていない。
送電については電力会社の送電線を借りるしかないのだが、その使用料と使用条件がきびしい。
だから、送電部門を発電部門から切り離せば、競争原理が働いて、コストも下がり、経営も透明化するだろうというのである。
むろん電力会社はほかの事業者が電力事業に参入することを喜ばない。
発送電分離についても、激しく反論している。
その論拠は理解できないわけでもない。
だが電力会社はどこかで「独占企業に消費者が依存するしかない」という制度を手放すべきではないかと思う。
その営利企業の収益への固執が、むしろエネルギー政策の新たな、大胆な展開を阻害しているように私には思われるのである。

例えば、ガス会社が開発した「エネファーム」という家庭用の発電設備がある(凱風館にはこれが装備されている)。
これはガス中の水素と酸素を反応させて発電するシステムだが、停電するとモーターが停止して、発電できなくなる。
自家発電装置が電力会社からの送電が切れると止まる・・・というのでは意味がないではないか、とお思いになるだろう(私も思う)。
でも、実際には外部電力が停止しても、自家発電できるテクノロジーをガス会社はもっている(当たり前である)。
しかし、法律上の制約があって、電力会社からの送電が止まると、自家発電装置も止まるようにメカニズムが設計されているのである。

そういう話を聞くと、電力会社の「節電のお願い」をどうしてもまじめに聴く気にはなれないのである。
電力会社がこれまで「オール電化」とかさんざん電力を浪費するライフスタイルを提唱してきた責任を感じるなら、「電気を使わないでください」というだけでなく、「電気はうちから買う以外の方法でも調達できます」という方向に消費者を案内すべきではないのか。

私自身は電力浪費型のライフスタイルよいものだと思っていないので、節電が15%でも50%でも、最終的には100%になっても「それはそれでしかたがないわ」と思うことにしている(それこそはあのフレドリック・ブラウンの『電獣ヴァヴェリ』描くところの牧歌的世界だからである)。
だから、電力会社が「これからはできるだけ電気を使わないライフスタイルに国民的規模で切り替えてゆきましょう」というご提案をされるというのなら、それには一臂の力でも六臂の力でもお貸ししたいと思っているのである。
でも、この15%節電は「そういう話」ではない。
電力依存型の都市生活の型はそのままにしておいて、15%の節電で不便な思いを強いて、「とてもこんな不便には耐えられない。こんな思いをするくらいなら、原発のリスクを引き受ける方がまだましだ(それにリスクを負うのは都市住民じゃないし)」というエゴイスティックな世論を形成しようとしているのである。

繰り返し言うが、私は節電そのものには賛成である。
電力に限らず、有限なエネルギー資源をできるだけていねいに使い延ばす工夫をすることは私たちの義務である。
そして、その工夫はそのまま社会の活性化と、人々の未来志向につながるようなものでなければならない。
70年代に、IBMの中央集権型コンピュータからアップルのパーソナル・コンピュータという概念への「コペルニクス的転回」があった。
同じように、電力についても、政官財一体となった中枢統御型の巨大パワープラントから、事業所や個人が「ありもの」の資源と手元の装置を使って、「自分が要るだけ、自分で発電する」というパーソナル・パワー・プラント(PPP)というコンセプトへの地動説的な発想の転換が必須ではないかと思うのである。
ドクター・エメット・ブラウン(in Back to the future)の考案した「ゴミ発電機」なんか、すごくいいと思う。
誰でもそう思うだろう。
でも、国民の総力をあげてPPP革命による世界のエネルギー地図の塗り替えを企てるという方向に日本が進むことで、むしろ不利益をこうむる人たちが依然としてわが国ではエネルギー政策の決定権を握っている。
それが私たちの不幸なのである。