fiduciary について-年頭のことば

2011-01-01 samedi

あけまして、おめでとうございます。
2011年が明けた。今年はどんな年になるのであろうか。
とりあえず、私にとっての節目の年であることは間違いない。
3月末を以て21年勤めた神戸女学院大学を早期定年退職する。4月からは天下の素浪人、一介の武道家兼物書きとなる。
2月に着工した道場・稽古場・自宅が10月に竣工する。
一年365日使える自前のイベントスペースが出来るわけである。
いろいろなことができる。
今夢想しているのは多田先生の講習会を年一度開催すること。これは必ず実現したい。
甲野善紀先生と光岡英稔先生と守伸二郎さんの武術講習会。成瀬雅春先生の倍音セッション。安田登さんの能とロルフィングの講座。中村明一さんの密息呼吸法講習会。平川くんの松濤館空手講習会・・・アイディアはいろいろ湧いてくる。
舞台と見所があるから、能のセッションもできる。
大学院でやっているようなゼミを別のかたちで継続することもできる。畳に座り机を並べて、寺子屋みたいに輪読したりするのである。
想像するだけでわくわくしてくる。
これまでは「家を作る」ということにはほとんど興味がなかった。
子どもの頃はよく方眼紙に家の設計図を書いて、「夢のような家」を想像していた。
でも、あるときからぷつりと止めた。地価が高騰し、不動産が投機的に売り買いされるようになったときに、ぬぐい去るように家についての興味が失せたのである。
もう一生涯、賃貸住宅を移り暮らすのでいいや、と思った。
土地を買ったり、家を建てるためにあくせく働くなんてまっぴらご免だと思った。
土地はもともと誰のものでもない。
海や山や川や湖や沼や森が誰のものでもないように、誰かが私有するものではない。
世の中には、私有してよいものと、してはならないものがある。
もう何度も書いてきたことだけれど、私有してはならないものを「社会的共通資本」と呼ぶ。
「社会的共通資本は私的資本と異なって、個々の経済主体によって私的な観点から管理、運営されるものではなく、社会全体にとって共通の資産として、社会的に管理、運営されるようなものを一般的に総称する。社会的共通資本の所有形態はたとえ、私有ないしは私的管理が認められていたとしても、社会全体にとって共通の財産として、社会的な基準にしたがって管理、運営されるものである。」(宇沢弘文、『社会的共通資本』、岩波新書、2000年、21頁)
社会的共通資本には土地、大気、土壌、水、森林、河川、海洋などの自然環境。道路、上下水

道、公共交通機関、電力、通信などの社会的インフラストラクチャー、教育、医療、金融、司法、行政などの制度資本が含まれる。
これらのものは「それぞれの分野における職業的専門家によって、専門的知見にもとづき、職業的規律にしたがって管理、運営されるものであるということである。社会的共通資本の管理、運営は決して、政府によって規定された基準ないしルール、あるいは市場的基準にしたがっておこなわれるものではない。(・・・)社会的共通資本の管理、運営は、フィデュシアリー(fiduciary)の原則にもとづいて、信託されているからである。」(同書、23頁)
fiduciaryというのは聞き慣れない言葉だが、法律用語で「他者に属する資産を管理する立場にある受託者、被信託者」を意味する語である。
「ほんらい他者に属する資産を、たまたま専門的知見があるために、受託されて管理する」能力、そのようなものを社会的共通資本は要求する。
書くと簡単だけれど、これは市民的成熟ぬきには成り立たないマインドセットである。
宇沢先生が「受託者」という言葉に託したニュアンスは、先日来私が贈与を論じた中で「被贈与者」という言葉で言おうとしてきたこととそれほど違うものではないと思う。
天賦の才能は、才能ある人がいわば「受託された希少資産」である。
それゆえ、その管理運営は「イデオロギー」にも「自己利益の追求」にも基づいてはならない。共同体全体の利益のために、「専門的知見にもとづき、職業的規律にしたがって」管理運営されねばならない。
私は社会的共通資本のリストに「才能」というものを書き加えたいと思ったのである。
それに同意してくれる人たちもいるだろうし、同意してくれない人たちもいるだろう。
別に全員が同意してくれなくても、構わない。
「才能の専門家」たちのいくたりかが「そうだよな」と頷いてくれれば、私はそれでいい。
村上春樹の『走ることについて語るときに僕が語ること』や『夢を見るために毎朝僕は目覚めるのです』は「書く」ことの専門家がその「専門的知見」と「職業的規律」について書いたもので
ある(少なくとも私にはそう読めた)。
それは村上さんが「自分はある種の才能の受託者だ」というふうに感じていることを表している。
例えば、次のような文章にはその「受託者の自覚」が記されているように私には思われる。
「僕は決して選ばれた人間でもないし、また特別な天才でもありません。ごらんのように普通の人間です。ただある種のドアを開けることができ、その中に入って、暗闇の中に身を置いて、また帰ってこられるという特殊な技術がたまたま具わっていたということだと思います。」(『夢を見るために毎朝僕は目覚めるのです』、文藝春秋、2010年、89頁)
その「特殊な技術」は大上段にふりかぶった文学理論や勘定高いビジネスマインドによって管理されるべきではない。その技術の使い方について、長期にわたって集中的に考えてきた「専門家」に受託されなければならない。
村上さんはたぶんそう考えている。
村上さんが批評家たちの言葉に耳を貸さないのは、彼らが「ある種のドアを開けることの専門家」ではないと思っているからだろう。
土地の話をしているところだった。
土地は宇沢先生が社会的共通資本のリストの第一に挙げているものである。それは政策的に管理されるものでもなく、市場に委ねられるべきものでもない。
では、誰が土地管理の「専門家」なのであろう。
とりあえず土地の管理は「市民」(オルテガのいうcivis)に委ねられるべきではないかと私は思う。
市民というのは、共同体成員として共同体の統合原理や制度設計についての「知識を持ち」、かつ実際にその共同体に生身を置いて「生きている」もののことである。
「共同体はどうあるべきか」という理念的レベルと、「たずきの道」という生活実感レベルの両方に共属しているもののことである。
「社会はこうあるべきだ」という議論をするときに、「でも、それは私の手持ちの時間と余力で達成できることなのだろうか?」という問いがつねに切迫してくる。
どれほど政治的に正しくても、「先ず隗より始めよ」「ここがロドスだここで跳べ」と詰め寄られたときに生身で引き受けることのできそうもないことは「やるべきだ」とは自分からは言えない。
身体実感・生活実感という「コロキアル」なレベルによる検証を通過しないと、「大義名分」が口に出せない。
ある程度夢見がちなことも言うけれど、「明日の米櫃」の心配からも遊離することができない。
この「どっちつかず」こそが市民の手柄であり、いうなれば「市民の専門性」である。
土地の管理運営は、とりあえずはそのような、すぐれて「どっちつかず」の市民に委ねられるべきではないかと私は思う。
土地はそもそも社会的共通資本であり私有になじまないという「理念」を受け容れつつ、生活者として、その土地の上で現にやりたいこと、やらねばならぬことがあるという「たずきの道」の要請にも配慮せねばならぬという「どっちつかず」が現代社会における土地私有のとりあえずの条件ではないか。
ややこしい話で済まないけれど、そういうことである。
バブルの頃、土地は「貨幣」の代用品として売り買いされた。
誰も住まないマンションが株券のように取引され、ビルが建ち、誰も住まないうちに取り壊されて、またビルが建った。
貨幣の代用物として土地を売り買いするとそういうことになる。
だから自分の家を持つことについての興味をそのときに失った。
それが土地を買って家を建てる気になったのは、土地を買う金がたまったからではない。
「社会的共通資本としての土地の管理運営」ということの見通しが私なりに立ったからである。
土地を私物化・退蔵せず、開放的、公共的なかたちで用いる方途について、アイディアが浮かんだからである。
「贈与されたものを私物化・退蔵しないで、必ず適切な受け取り手にパスするはずだ」という信頼が「受託者」fiduciaryという立場を基礎づける。
受託者たりうること。
それを市民的成熟の要件として私たちは自らに課すべきではないかと思う。
年頭にあたって、自戒の言葉としてここに記すのである。