教化的ということについて

2011-01-04 mardi

母親の家は朝日新聞である。ふだんは毎日新聞なので、その違いに驚く。
朝日新聞には強い「指南志向」がある。
メディアが国民に進むべき道筋を提示するのはその本務であるから、異とするには当たらないが、三日ほど読んでいるうちに、だんだん腹が立って来た。
「無理でしょ、それは」というつぶやきがもれる。
今朝の新聞の一面は「できる子伸ばせ」という記事で、科学五輪のような「世界レベルへ選抜合宿」している「できる子」たちの様子が報告されていた。
いったいなぜこのような記事が一面トップに置かれるのか。
その理由については何も書かれていない。
国産のトップアスリートやトップアーティストやトップスカラーを大々的に顕彰することは国民全体の士気を鼓舞することになるという信憑がおそらく定着しているせいだろう。
けれども、ジャーナリスト諸君はその「チアーアップされる感じ」をご自身で実感されているのであろうか。
私はされない。
世界的な活躍をしている同胞の姿は「たまに見る」と「よし、オレもがんばらねば」という気分になることが私にもある。
でも、そのような鼓舞的な効果があるのは、飽くまで「たまに見る」からである。
そんなものをのべつ見せられて、「ほれ、こんなに頑張ってる人もいるんだぞ」と言われると、私はしだいに「うっせーな」という剣呑な気分になってくる。
私が今受験を控える高校生であったら、科学五輪のために合宿している高校生(これは一面の写真)や、ハーバード大学で世界の秀才たちと談笑している19歳の写真(これは三面の写真)を見ているうちにしだいにイラついてきて、コートを引っ掛けて「ちょっと、平川んち遊びに行ってくら」と家を出てしまったことであろう。(「あんた、センター試験まで、あと何日もないのよ!勉強しなくていいの!」という母の怒声を背中に受けつつ)。
私が高校生だったら、この記事のもたらすストレスには我慢がならぬであろう。
そういう想像力がこの記事を書いている記者諸君には果たしてあるのだろうか。
私にはあるようには思われない。
世界的なレベルのコンクールに出たり、ハーバード大学に留学できる可能性を自分のうちにすでに感知しており、この記事によってさらにやる気になりましたという高校生がいったい高校生の何パーセントいると彼らは思っているのだろうか?
0・1パーセント以下だと私は思う。
99・9パーセントの高校生は正月早々厭な気分になる。
ハーバード大学の学費は年間35000 ドル。四年で14 万ドルである。
年収6万ドル以下の家庭の子供は学費寮費無料と記事にはあるが、その奨学金のハードルがどれ
くらい高いかについては何も書いていない。
ずば抜けて勉強が出来るか、勉強もできかつ親が十分に金持ちであるか、どちらかの条件を満たしていなければ、この記事に載るような身分には手が届かないのである。
そしてたぶんそんな高校生は朝日新聞を読んでいない(電子版のWall street journal かGuardian を読んでいる。だって、ハーバード大学の試験に「天声人語」から出題される可能性はゼロだから)。
だとすると、この記事は誰に読ませるためのものなのか。
決してそんなチャンスには恵まれるはずのない人々の「羨望」を掻き立てる以外に、この記事にはどのような教化的効果があるのだろう。
私にはそれが分からない。
記事を書いている記者たちの中には子供が学級崩壊の公立中学に通っている人だっているだろう。
彼らは自社の記事を読んで気分がハイになるのだろうか。

中程にはコレクティブハウスについての記事があった。
このコンセプトの困難さについてはすでに書いた。
他者との共生のための能力を育成することが緊急であることについて、私は深く同意する。
そのことはこれまでも繰り返し書いてきた。
コレクティブハウスの問題点は、今提案されているモデルでは「すでに他者と共生する十分な市民的成熟に達したメンバー」以外はこの共同体には参加できないということである。
老齢であろうと、身体に障害があろうと、貧乏であろうと、成熟した大人であれば、そこにしかるべき地位を見い出すことができる。
けれども、市民的に未成熟な人には、このようなヴォランタリーな共同体は扉を閉ざしている。
そうである限り、これは一種の「強者連合」たらざるを得ない。
だが、私たちの社会の成員の過半は「市民的に未成熟な弱者」である。
彼らを排除した「リッチで、スマートで、クレバーな市民たちだけのコミュニティ」で暮らすことはずいぶん快適であろう。
けれども、そこには弱者を支援し、癒し、成熟に導くための装置がビルトインされていない。
私は共同体は「弱者ベース」で制度設計されるべきだと思っている。
癒し、支援し、教育する。
その三つの要素が整っていなければ持続的な共同体たり得ない。
私はそう思っている。
コレクティブハウスは「強者が快適に過ごすための制度」としてはたいへんスマートなものだと思う。
だが、それを利用できる人々の数は限られている。
そして、私たちの社会の喫緊の問題は「それを利用できるだけの社会的能力を欠き、市民的成熟に達していない人々」をどう癒し、支援し、成熟に導くかということなのである。
朝日新聞にはそのような問題意識がないとは思わない。
けれども、そのために「サクセスしている人たちをロールモデルとして提示して、羨ましがらせる」という方法にもっぱら頼っていることを残念に思うのである。