東京と私

2010-07-01 jeudi

東京新聞に「わが町、わが友」という6回連載エッセイを書いた。
思い出に残る東京の町について書いてくれと頼まれた。
東京新聞だと、読んでいる人は限られているので、ブログで一挙公開することにした。
どぞ。

下丸子(1)
 私は東京生まれだが、20 年前に東京を離れ、以後ずっと関西在住である。もちろん、今も東京にはよく行く。母や兄や娘が住んでいるし、友人たちも大勢いる。でも、「東京に帰る」という言い方はもうしない。関西に引っ越してきてから、しばらくは「東京に帰る」という言葉に実感があった。多摩川の鉄橋を渡るときには「故郷に戻ってきた」という気がした。だが、あるとき電車で西に向かっているとき、夕陽を背にした六甲の山並みのシルエットを見て「ああ、もうすぐ家だ」と思ってほっとしたことがあった。その瞬間に東京は「私の街」ではなくなった。
 このコラムで私が語るのは「かつて『私の街』であった街」についての回想である。もちろんまだその街並みは残っており、そこに立てばと懐かしさを感じないわけではないけれど、そこへの「つながり」はもう感じない。
 目蒲線の下丸子が私の生まれた街である。東京の東のはずれ、多摩川沿いの工場街である。戦前には、三菱重工や日本精鋼のような巨大な軍事産業の拠点がこの地域にあり、下請けの中小の町工場がそれを取り囲むように下丸子から蒲田に至るエリアに拡がっていた。工場労働者のためのアパートがあり、しけた歓楽街があった。むろん B29 による空襲の恰好の目標となり、戦争が終わったときには一帯はみごとに破壊し尽くされていた。
 父は大陸から身一つで戻ってきて、母と出会って結婚して、兄が生まれ、その二年後に私が生まれた。戦争が終わって五年後のことである。その焼け野原にぽつぽつと家が建ち始めたときに、父母がここに移り住んできた。私はそこで生まれた。

「下丸子」(2)
 私を懐妊していた母が乳呑み児だった兄を抱いて、旗の台の下宿から下丸子の一戸建てに引っ越してきたとき、移動手段は馬を繋いだ大八車だった。戦争が終わって五年後の東京というのは、まだそういう場所だったのである。
 下丸子は戦前戦中軍需産業で栄え、それゆえ空襲で徹底的に破壊された街であった。私の幼児期の記憶では、家の前は青々とした麦畑があったが、その牧歌的な風景は場違いに巨大な工場のシルエットとそこから流れるきつい化学臭のする排水によって不意に遮られていた。多摩川の河原は家から歩いて10分足らずのところにあったが、その草原の生々しい温気に身を投じて大の字になって青空を仰ぐためには、コンクリートで固められ、高い塀で左右の風景を封殺された工場の間を貫く舗装道路を歩かねばならなかった。
 子どもたちはもちろん「原っぱ」で遊んだ。だが、その「原っぱ」は、その言葉が連想させるような手触りの優しいものではなく、ガラスの破片や焼け焦げたセメントの土台や陥没したタイル張りの地下室を雑草が無遠慮に覆っているだけの場所だった。ただ、そこに生い茂る雑草には、喩えて言えば、「最終戦争が終わった後、無人となった都市の廃墟を青々と覆い尽く植物」に似た固有の生命力があった。その雑草ののびやかさとしたたかさおそらく 1950 年に生まれた東京の子どもたちにも共通する特質ではなかったかと思う。宮崎駿の『天空の城ラピュタ』には空中都市の廃墟に繁茂する植物のすばらしい勢いが活写されているが、それはあの敗戦後の東京の原風景から連想されたもののように私には思われる。

下丸子(3)
 目蒲線の下丸子に私は17歳まで暮らした。都内でもっとも長く暮らしたのはこの街である。だから、私が「故郷の街」を選ぶとしたら、ここの他にない。けれども、その街に対して「郷土愛」のようなものを持っているかと訊かれたら、答えは「ノー」である。
その街で私は育ったが、その街に「育てられた」というような感懐を持つことができない。そこはふつう人々が「ふるさと」というときに思い浮かべるような「手がかり」が何もなかったからである。
 以前、鷲田清一、江弘毅という関西生まれの文化人ふたりを相手にラジオ番組で話をしたとき、東京と関西の文化のクオリティの違いに論が及んだことがあった。そのとき、二人がそれぞれに「生まれた街からの文化的な贈り物」について語るのを聴いて、一緒に番組に出ていた同郷の平川克美くんともども絶句した覚えがある。
 クオリティが高いも低いも、私たちが生まれた東京の町には、よそと比較できるような「文化」など何一つなかったことを思い知ったからである。私たちの故郷には、守るべき祭りも、古老からの言い伝えも、郷土料理も、方言さえもなかった。かなしいほどの文化的貧困のうちに私たちは育ったのである。
 小津安二郎はこの町を舞台に映画を一本撮っている。『お早よう』という 1959 年の映画で、そこには私の子ども時代の多摩川の河原やガス橋の遠景がそのままのかたちで焼き付けられている。私は現実の下丸子には何の感懐も覚えないが、この映画の中の風景には今も胸が熱くなる。下丸子を多少とでも「文化」的文脈のうちで語れるこれが唯一の手がかりだからである。

相模原から駒場へ
 下丸子に17歳までいた。それから一年半だけ小田急相模原で過ごした。桑畑を切り開いた分譲地に父が家を建てた。駅前には米軍病院とハウスがあり、西には座間基地があった。ベトナム戦争が激化する頃で基地には夜中もヘリコプターがうるさく発着していた。世界は激動していたが、私は大学に入るまで「激動」からは目を背けることに決めていた(二年で「激動」の予兆にうかれて高校を中退し、中卒プロレタリアとして半年を過ごしたあと、私は「受験勉強は低賃金労働よりはるかに楽である」という真理を骨身にしみこませた模範的受験生に仕上がっていた)。すしづめの小田急に乗ってお茶の水の駿台に通い、予備校の仲間と麻雀をして、ジャズとロックを聴き、埴谷雄高と谷川雁と平岡正明を読んでいるうちにたちまち一年が終わった。
 合格発表の直後に私は春休みの駒場寮に空手部の部室を訪れた。三年生の副将がひとりでベッドで寝ていた。「入学したら空手部に入りますから、春休みの間にこの部屋に引っ越してきていいですか?」という私の非常識な申し出を彼は笑って受け容れてくれた。翌週、兄の運転する軽四トラックにわずかばかりの本と着替えを載せて、私は寮に移った。
 駒場寮についてはその伝説的な不潔さについて書くにとどめよう。私たち一年生部員は決して北側の窓を開けてはいけないと上級生から厳命されていた。上階の寮生たちが窓から放つ「寮雨」が降り込むからである。一年生は入寮してすぐに過半が痔疾を患った。湿度と不潔さと飲酒のせいである。OBを殴って退部になるまで私は半年間をその部屋で過ごした。

お茶の水
 駒場寮を追い出されてから、野沢の学生寮に一年ほどいた。家賃は安かったが、狭く日当たりの悪い部屋だったし、ガールフレンドを連れ込んだことで他の寮生たちと気まずくなり、気分転換にお茶の水に引っ越すことにした。父の転勤と兄の結婚で家族の去った屋敷に高校時代の友人がひとりで暮らしていた。電話も、風呂も、冷蔵庫も、クーラーもついていて、親がいないという絶好の条件だったのでたちまち悪い仲間たちが蜜に群がる蟻のように集まった。最盛期は五人が住み着き、政治的密談も宴会も麻雀もなんでもOKの「梁山泊」の体をなしていた。あの時期、みんなが好き放題に使っていた電気や水道や電話の料金は思えば友人の親が支払っていたのである。若者というのはまことに利己的かつ非常識なものである。小口家のみなさんにはこの場を借りて 40 年前の非道をお詫びしたい。
 エンドレス・サマー的キャンプ生活にもいささか疲れて、物静かなルームメイトをみつけて自分でアパートを借りて住むことにした。ルームメイトはバイト先で知り合った学生で、輝かしい政治的キャリアを持ち、低く静かな声で話す、笑顔の爽やかな青年だった。これは良い人と知り合ったと喜んだのもつかの間、彼は約束も義務も自己都合で忘れることのできる「生きる無責任」のような男であった。自分の服も本も鍋釜もアパートに置き去りにし、私の蔵書を二三冊借り出したまま、彼はある日姿を消した(その後、あるテレビ局のプロデューサーになったと聞いた。私がテレビというメディアを信用しないのはいくぶんか彼のせいである)。

自由が丘
 73年に自由が丘に部屋を借りた。それから神戸に移るまで自由が丘近辺に住み続けて離れなかった。この街に深い愛着を私が寄せる最大の理由は、この街の名を冠した「自由が丘道場」で生涯の師である多田宏先生に出会ったからである(自由が丘は多田先生の生まれた街でもある)。
 定職もなく、あてのない日々を送っていた冬の夜、自由が丘駅南口の薄暗い通りを歩いているときに古い道場の前を通りかかった。中からあかりが洩れて、道着を着た人たちが数人で稽古をしている様子が見えた。立ち止まって中を覗いた。有段者らしい人が稽古の手を止めて、私に近づき「見学されるのでしたら、どうぞ中へ」と笑顔で話しかけてくれた。言葉づかいの丁寧なことに驚いた。いわゆる「体育会」的体質が生理に合わない私は初心者へのこの気づかいを多として合気道の何であるかも知らぬままに入門の手続きをした。
 多田宏先生とお会いしたのはその数日のちである。納会の席で、先生の隣に膝を進めて自己紹介をした。「内田君はなぜ合気道を始めたのですか」と訊かれて、私は「喧嘩に強くなるためです」と答えた。愚かな答えだったが、あるいは無意識的に私は先生を試そうとしていたのかも知れない。先生は破顔一笑して、「そういう動機から始めても、よい」と答えた。「君はこれから君が求めているものは違うものを私から学ぶことになるだろう」と先生は私に暗に告げたのである。私はその瞬間にこの人を師とすることに決めた。爾来35年、今でも「自由が丘」という地名を口にするたびに私はそのときの心の震えを思い出す。
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