私の本棚

2010-07-04 dimanche

金曜に関川夏央さんと朝カルで対談。
「クリエイティブ・ライティング-大学で文学を教えること」というタイトルで、主に「そういう話」をするつもりでいたのだが、最初の方で、関川さんが漱石の『坊っちゃん』の話をしたので、ついそのまま漱石や一葉や田山花袋の話になって、大学で教える云々は終わり20分間くらいしかできなかった。
でも、面白かった。
小説を読むというのは、(哲学でも同じかもしれないけれど)、別の時代の、別の国の、年齢も性別も宗教も言語も美意識も価値観もちがう、別の人間の内側に入り込んで、その人の身体と意識を通じて、未知の世界を経験することだと私は思っている。
私の場合はとくに「未知の人の身体を通じて」世界を経験することに深い愉悦を感じる。
だから、私が小説を評価するときのたいせつな基準は、私がそこに嵌入し、同調する「虚構の身体」の感覚がどれくらいリアルであるか、ということになる。
私が自分の生身の身体で世界を享受しているのとは、違う仕方で、私よりもさらに深く、貪欲に世界を享受している身体に同調するとき、小説を読むことの愉悦は高まる。
だから、読んでいるうちに「腹が減る」とか、「ビールが飲みたくなる」とかいうのは小説として総じて出来がよいと申し上げてよろしいかと思う。
私は高校生の頃に「ギムレット」というのがどういう飲み物であるのかを知らなかった。
けれども、チャンドラーの『長いお別れ』によって、夕方五時のロサンゼルスの開いたばかりの涼しいバーカウンターで、一日最初のギムレットを飲むときの愉悦を先駆的に経験した。
それからずいぶん経って大人になってから、ギムレットを飲んだ。
美味しい飲み物だと思ったけれど、その美味の75%くらいはフィリップ・マーロウからの贈り物である。
そういえば、書物と身体のかかわりについて書いたものがあった。
関川さんと話している時にも、それについて言及したけれど、どこかの出版社の広報誌に掲載したものである。
タイトルは「私の本棚」

私の最初の本棚は子ども部屋に置かれた四段ほどの小さなものだった。でも、そこには小学校四年生の夏まで、教科書以外にはほとんど何も入っていなかった。その頃までの私はマンガ以外の本を読む習慣を持たなかったのだが、親がマンガの購入を許可してくれなかったからである(私は友人の家を訪ね歩いては、そちらの蔵書を拝見していた)。
読書家であった両親は私がマンガしか読まないことを懸念して、思い立って講談社版『少年少女世界文学全集』の50巻のシリーズの購入に踏み切った。私は(今からは想像することがむずかしいが)当時は従順な子どもであったので、「これから毎月一冊ずつ本が届くから、読むのだよ」と親に命じられると、素直にそれに従った。
最初に届いた本は「東欧・南欧編」だった。『黒い海賊』と、『パール街の少年たち』が収録されていた。内容はほとんど覚えていない。マンガの方がずっと面白いなと思っただけである。
だが、私は(しつこいようだが)従順な子どもだったので、がまんして最後まで読んだ。毎日学校から帰ってきて、決まった時間に本を開いた。それでも、読み通すのに一月以上かかった。読み終わる前に次の本が届いた。これには『ガリバー旅行記』と『クリスマス・キャロル』が収録されていた。これはたいへん面白く、十日ほどで読み終えた。本を読む速度というのは、こんなに早くなるのかと、ちょっとびっくりした。私は本が届くのが少し楽しみになってきた。そんなふうにして私の小さな書棚はこの全集が配本されるたびにゆっくり確実に埋め尽くされていった。
私の読書生活に最初の転機をもたらしたのは、ルイザ・メイ・オルコットの『若草物語』だった。南北戦争の頃のニューイングランドの四人姉妹の静穏な日々を描いたこの物語のどこが私の琴線に触れたのかわからないけれど、私は暗記するほど繰り返し読んだ。何度も読んですでに熟知している文章を読み返すことが不思議な喜びをもたらすことを私はこのとき知った。
それからサンドの『愛の妖精』に出会った。ファデットの身になってランドリとシルヴィネのどちらを好きになればいいのかを考えているうちに、急に胸が高鳴り、頬が熱くほてってきた。小説の中の登場人物に深く同一化すると、遠い国の、遠い時代の、見知らぬ人の人生を内側から生きることができると知ったのはジョルジュ・サンドのこの小説によってであった。
それから、『あしながおじさん』、『小公女』、『赤毛のアン』、『アルプスの少女』と立て続けに少女小説の名作が届けられた。私はすっかり少女小説に夢中になってしまった。自らを少女に擬して、ミンチン先生を恨んだり、ジュリアをやっかんだり、マリラに訴えたりすることはたいへん楽しかった。
残念ながら、面白い「少年小説」というものにはなかなか出会うことができなかった。もちろん、『宝島』や『十五少年漂流記』のような、少年たちを主人公にした小説はなくはないのだが、どうも少年たちは少女たちに比して「内面がない」ように私には思われたのである。少年たちはいろいろ冒険的なことをするのだが、その前にほとんどものを考えないのである。少年たちが逡巡したり、葛藤したりするとき、それは単なる「行動の停滞」に過ぎないように思われた。私は「行動する前にあれこれ考える」少女たちの心象にすっかりなじんでいたので、ハックルベリー・フィンなんかに対しては「もう少し『ためらう』といったことをキミはしてもよろしいのではないか」という不満を抱いたのである。
私が「ためらう」少年と出会ったのは、エーリッヒ・ケストナーの『飛ぶ教室』においてである。この作品で私ははじめて「内面を持つ少年」というものに出会った。
小学生であった私自身は、それまで厳密な意味での「内面」というものを持たなかった。「口に出さないでいること」はもちろんあったが、それはもっぱら外的な禁圧が「口にすることを許さないこと」であった。それ以外のことで私が黙っていたとすれば、それは「自分の愚かさ、あるいは自分の卑しさ」を人に知られたくなかったからである。
だが、ケストナーの小説の中の少年たちが抑制的な態度をとる理由はそうではなかった。彼らが「内面」の発露を自制するのは、たいていの場合、人を傷つけないためか、自分の誇りを失わないためであった。彼らは「孤独の悲しみ」や「恵まれた級友に対する羨望」や「不正に対する怒り」や「卑劣さに対する軽蔑」をときにつよく感じたが、それが適切な場面で、適切な相手に対して語られる時が来るまで、心の中でゆっくり熟成させていた。「内面」というのは、時間をかけて熟成させてゆくことで言語化されるのだということを私が学んだのは、現実の年長者からではなくて、このドイツ人作家が描き出した少年たちの像を通じてであった。
こうして振り返って見ると、幼い私の「感情教育」は『若草物語』に始まって、『飛ぶ教室』で仕上げられたように思われる。それはだいたい10歳から12歳にかけての二年間に当たる。
その頃、私は病弱で、しばらく伊豆の養護施設に入って、また東京に戻ってきたこともあって、クラスに親しい友人もなく、授業が終わると、野球や相撲に興じているクラスメートに背を向けて、まっすぐ家に戻り、ひたすら本を読んでいた。
少年少女世界文学全集で「読むこと」の喜びと基礎的なリテラシーを学んだ私は次に父母の書棚に不法侵入を企てた。新潮社の『世界文学全集』は敷居が高かったので、とりあえず筑摩書房の『世界ノンフィクション全集』を抜き出して、いくつかを読んだ。最初に読んだのはトール・ヘイエルダールの「コンチキ号航海記」だった。全集の中でいまでも記憶に残っているのはビリー・ホリディの『奇妙な果実』(これは油井正一と大橋巨泉の訳だった。私はこの人がラジオ関東の『昨日の続き』のパーソナリティと同一人物であることにしばらく気づかなかった)、ニジンスキーの伝記『牧神の午後』、レオポルド・インフェルトのガロア伝『神々のめでし人』、ロバート・キャパの『ちょっとピンぼけ』もこの全集で読んだ。「世界はずいぶん広いものだ」ということを私はこれらの本から学んだ。
父の書棚には吉川英治のコンプリートコレクションがあった。私は手始めに『宮本武蔵』を読み、たちまち夢中になった。それから『新・平家物語』を読み、『新書太閤記』を読み、『私本太平記』を読んだ。中学生になってから古文と日本史の成績がたいへんよかったのはそのおかげである。
そのあとはもう「禁書」しか残っていない。とりあえず、源氏鶏太や石坂洋次郎や獅子文六のサラリーマン小説と松本清張の推理小説を読んだ。ある日、五味康祐の武芸帳ものを読んでいるところを母に見つかって、ずいぶん叱られた。親たちは「18禁」的なものを禁じていたというより、大衆小説に充満している「俗情」に子どもがはやくに触れることを好まなかったようである。明治の人である父は家の中で子どもが「金の話」をすることを許さなかったのである。
盗み読みが発覚しないように細心の注意を払って、次は五味川純平の『人間の条件』を読んだ。私が陸軍内務班という不条理な制度について最初に学んだのはこの本からである。この読書はまちがいなく、私の中のその後の「反体育会」性向をかたちづくったようである。
父は自分のための小さな書棚を有しており、そこには十冊ほど、厳選された「難しい本」が並べられていた。それには家族は手を触れることが許されていなかった。でも、それが必ずしも父の愛読書というわけではなく、来客に「私はこんな本を読んでいるのだ」と誇示するための「知的装飾」であることに私は少し気づいていた。でも、日曜の午後などに、父はそこから文庫本を抜き出して、ピースの紫煙をくゆらしながら頁をめくっていた。そして、ひとしきり斜め読みすると、かたわらの私に向かって「お前にはむずかしくてわからん哲学の本だ」と言ってまた書棚に戻した。小学生の私は、自分は果たしてそれが読めるような知的な大人になれるだろうかとつよい不安を感じていた。それは『異邦人』という題名の本だった。
そのあとのことを思うと、私はほとんど家の書棚によって作られた人間のようである。
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