ガラパゴスも住めば都

2010-07-07 mercredi

「ガラパゴス化する日本」をどうやってグローバル化するか。
という問題設定を自明のものとすることに対して私はいささか懐疑的である。
ガラパゴスでいいじゃないか、と思うからである。
誰かがガラパゴス的な役割を演じないと、全地球的なシステムにとってバランスが悪いのではないか、と思うからである。
「ガラパゴス」にしか育たない植物があり、そこでしか棲息できない動物があり、そこにしか見られてない固有の進化の歴程がある。
世界中の人が罹患するウィルスの特効薬が「ガラパゴス」だけにいる珍妙な粘菌からしか採取できず、「ガラパゴスがあってほんとうによかったね」と人々が手を取り合って泣き崩れる・・・というようなことだって「絶対、ない」とは言い切れない。
私は「生物学的多様性」をシステム全体の安定のためにつねに配慮するという立場の人間である。
限られた資源を非競争的に配分し、できるだけ多くの生物種が共生できるようにするためには生態学的地位を「ずらす」ことが必要である。
種ごとに、夜行性であったり昼行性であったり、肉食であったり草食であっったり、地下生活であったり樹上生活であったり、生き方を「ずらす」ことによって生物たちは狭い空間、限られた資源の上に重畳するように棲息してきた。
グローバリゼーションというのは、平たく言えば、生態学的地位を「なくす」ということである。
棲息条件を同一にしなければ、個体の能力や成果の相対的な良否は考量できないからである。
分かち合う資源が豊かであれば、標準化や規格化は場合によっては好ましい結果をもたらす。
能力ランキングの最下位に格付けされてもなお十分に自尊感情が維持できるほどに豊かな生活が保証されているなら、私は競争を必ずしも排するものではない。
しかし、競争に負けると「餓え死にする」というようなタイトな条件においては、相対的優劣を競う暇があったら、生態学的地位を「ずらす」ことで、できるだけ多くの個体が生き延びられる工夫の方に知恵を使った方がいい。
地球上に65億人からの人間がひしめいているというのは、どう考えても「勝つものが総取りする」よりは「乏しい資源をわかちあう」ことに知的リソースを投じる歴史的条件である。
そして、「乏しい資源をわかちあう」ための方法は生物学的には一つしか知られていない。
それは何度も申し上げている通り、種の「ニッチ化」である。
他の集団とそのふるまいができるだけ「かぶらない」ようにする。
「ガラパゴス化」とは、「ニッチ化」のひとつのかたちだと私は理解している。
私が英語の公用語化趨勢に対して深く懐疑的であるのは、それが「ニッチの壁」を破壊しかねないからである。
「日本では英語が通じない」という事実を多くの人は「恥ずべきこと」として語るけれど、それは短見というものである。
日本では英語が通じないという「言語障壁」によって、これまで国内市場は海外企業の進出を抑制してきた。
私の知る限りでも、日本の大学はこの言語障壁で危機をまぬかれたことがある。
覚えておられる方はもう少ないだろうが、1990 年代に日本にアメリカの大学が一斉に進出してきたことがあった。
一時期は全国に数十校が展開したが、そのほとんどは数年を経ずして廃校となった。
それは教育プログラムが英語ベースだったからである。
学生たちは授業についてゆけずに、次々と脱落して、定員割れに至ったのである。
その後、ディプロマミル(学位工場)が東アジア一帯で修士博士の学位を商品として売りさばいて、各国の大学で大きな問題を引き起こしたが、日本では学位を金で買った教員は二桁にとどまった(論文を英語で書かなければいけない仕組みが「幸い」したのである)。
世界的なスケールの詐欺(学位や名誉メダルやクラブへの勧誘などなど)のDMは私のところにもよく来るけれど、英語の詐欺口上を読むのが面倒なので、そのままゴミ箱に棄ててしまう。
「日本では英語では商売ができない」ということで、市場開発にコストをかける気のないビジネスマンは他のもっと手間のかからない「狩り場」に獲物を探しに行ってしまう。
大森南朋くんがアメリカのM&A集団の尖兵として日本企業の買い叩きにやってくる『ハゲタカ』というドラマがあったけれど、ハゲタカ諸君は全員日本語話者であった。
それは逆から言えば、日本語話者であるマネージャーを育成する手間をかけないと、日本企業を買うという仕事そのものが始まらないほどに「ハゲタカ」ビジネス自体が、高コスト体質のプロジェクトだったということである。
そういうのを「言語障壁」というのである。
英語の公用語化に私が懐疑的なのは、それがこの言語障壁を解除してしまう可能性があるからである。
英語の公用語化は、海外からの求職者に雇用機会を開放するということとセットで行われる。
必ずそうなる。
これによって、日本の企業経営者は「就労条件を吊り上げ、労働条件を切り下げる」チャンスを手に入れる。
かつて男女雇用機会均等法によって、日本の資本主義企業は求職者の数を二倍にした。
それによってよりクオリティの高い労働力をより安価な労賃で働かせることが可能になった。
英語公用語化は第二の「男女雇用機会均等法」だと私は思っている。
その本質は「日本人・非日本人雇用機会均等法」である。
外形的には「政治的に正しい」ポリシーであり、このロジックに正面から反対することはむずかしい。
けれども、企業経営者たちは「政治的に正しい」からそのような雇用戦略を採用するわけではない。
端的にその方が儲かるからそうするだけである。
雇用機会の拡大によって就労競争が激化し、就労者の質が上がり、一方で労働条件の切り下げが可能になる。
だから経営者たちは英語公用語化に踏み切る。
「ガラパゴス」がどんどん開発されてゆく。
だが、孤島に固有の生物種が滅び、マクドナルドとセブンイレブンが並ぶ「ガラパゴス」などに私は住みたくない。
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