ルーツについて、ほか。

2010-05-26 mercredi

忙しくてブログ更新できず。備忘のために速足でこの一週間の出来事を記しておく。
ツイッターには書いているんだけど、あれ備忘録としては機能しないですね。内容が散漫すぎて。

5 月 16-17 日。
鶴岡宗傳寺にて法事。母、兄夫婦、従兄の雄介・成子ご夫妻、そして私。
雄ちゃんから内田家の家系図を示され、いろいろと祖先について学ぶ。
すでに何度か書いたことだが、内田の本家は埼玉県比企郡嵐山にある(亡父の代までは行き来があったそうだが、私は行ったことがない)。
私の高祖父にあたる内田柳松(りゅうまつ)がその家督を弟に譲って江戸に出た。
神田お玉が池の北辰一刀流玄武館で修業し、浪士隊の一員として京都に上り(柳松は一番隊隊士。六番隊が近藤勇率いる試衛館のみなさん)、彼らと訣別して、清河八郎とともに江戸にもどり、庄内藩預かりの新徴組に加わった。彰義隊の戦いのあと藩主酒井忠篤(ただずみ)を護衛して庄内に下り、戊辰戦争を戦った。
わりとスペクタキュラーな人生を過ごされたご先祖さまなのである。
柳松さんが庄内藩士であったのは、ほんのわずかな期間であるが、その恩を多として、明治維新後もそのまま鶴岡にとどまった。
家老の松平家から養子をもらい、その人が曾祖父の維孝(いこう)。
維孝さんはもとは会津藩の人。白虎隊に入ろうとしたが、年齢が足りなくて家に戻され、生き延びた。その点は柴五郎に似ている。
どういう事情で庄内藩の家の養子になったのか、その事情はつまびらかにしないが、庄内藩と会津藩は軍事同盟関係にあったから、藩士のあいだにも人的交流があったのかもしれない。
その後さらに松平家から内田家に養子に入った。その事情もわからない。
内田家はずいぶん貧乏だったらしく、維孝さんの子どものうち二男孝次が武田家に、三男信吉が鈴木家に養子に出された。長男重松、四男信次、五男五郎、七男清が内田姓を継いだ(六男は夭逝)。
私の祖父重松(しげまつ)は維孝さんの長男である。
祖父は私が生まれる前に死んだが、祖母高井(たかい)さんは長く生きて、ときどき岳父から聞いた白虎隊のことや庄内藩酒井家の当主のお姫さまの遊び相手に選ばれたことなどを話してくれた。
「賊軍」庄内藩と会津藩の流れを汲む一族であるから、明治時代はずっと冷や飯食いであった。内田家の人たちに歴代「へそまがり」が多いのはたぶんそのせいであろう。
内田の嵐山の本家の先代は内田範次郎さんとおっしゃる方である。戦後の食べ物がなかった時期、私の父はよく本家までお米を貰いに行ったそうである。本家は父たち兄弟を歓待してくれたそうで、父は本家とのつながりを大事にしていた。
当代は内田康憲さんという方である。その血筋の方々が埼玉にはおいでになると思う。
退職して時間ができたら、一度「ルーツ」をたどる旅をしてみたいものである。

5 月 17 日。
飛行機で庄内-羽田-伊丹。そのまま大学で学部長会。

5 月 18 日。
大学でゼミ二つ。小学館の取材。お題は親子関係。

5 月 19 日。
会議、朝日新聞の取材、島崎徹さんとのトークセッション授業のあと、『Sight』の担当者だった大室みどりさんとご飯を食べる。
就職と結婚の二大身の上相談を同時にされる。
結婚予定のお相手の名前を聴いてびっくり。ええええええええ。
いつのまに、そんなことを。

5 月 20 日。
授業、面談、そのあと『考える人』の「日本の身体」のための対談。お相手は平尾剛さん。場所は引越したばかりの阪神御影のペルシエ。
お野菜はもちろん淡路島の橘真さんの提供である。
競技スポーツと学校体育とスポーツメディアについて、ふたりでたいへん「辛口」のコメントをする。

5 月 21 日。
ゼミ、会議、NHK の取材、会議。それから朝日カルチャーセンターで名越康文先生との対談。
NHK の取材はテレビ。
ふだんはテレビの取材は受けないのだが、これは NHK ワールドという外国向けの英語放送で、「日本国内で見る人はいません」ということなので出演を承諾する。
日米関係の話をする。
名越先生との対談はいったい何を話したのか、三日経つともう何も覚えていない。
たいへん面白かったことだけは覚えている。
二次会で名越先生が「実名全開トーク」。絶対活字にできない話。

5 月 22 日。
第48回全日本合気道演武大会のために東京の日本武道館へ。
毎年自慢するように、私はこの演武会に 1977 年から皆勤である。34 回連続で出場しているのである。
一度も風邪も引かず、急な仕事も入らず、冠婚葬祭とぶつかることもなかった。
出場者7500人のうち、34回連続出場はその1割に満たぬであろう。
この記録をどこまで伸ばせるか。
演武後、例年のように九段会館屋上にて多田先生主宰のビールパーティ。
北澤くん、タカオくん、のぶちゃんら気錬会の諸君と歓談。
東大気錬会と早稲田合気道会の現役の幹部のみなさんが来る。
日曜の三大学合同稽古会で私が指導をすることになったので、そのご挨拶。
さわやかな方たちである。
二次会をパスして等々力の母の家へ。
朝早かったのであまりお話もせずにすぐ爆睡。

5 月 23 日。
母の手づくり朝ご飯をいただき、早々においとま(せわしなくてすみません、お母さん)
早朝より(9時半はウチダ的には「早朝」である)駒場の第一体育館にて三大学合同稽古。
ひさしぶりのイベント。
鍵和田くんと原くんが両大学の主将だったときにうちも呼んでもらって、いっしょにお稽古をしたのが始まり。
駒場で稽古するのはヒロタカくんが気錬会の主将だったとき以来である。
お昼に稽古が終わり、坪井兄、梶浦兄にご挨拶してから、当代主将の松村くん、先代主将の中村くんに見送られて駒場をあとにする(みなさん、お世話になりました!)
渋谷に出て平川君と会って、新宿御苑のラジオカフェでラジオ収録。
お題は普天間問題とツイッター。
日曜の無人のオフィスでコーヒーを飲みながらわいわいとおしゃべり。
雨の中、平川くんの車で東京駅まで送ってもらって、こんどは筑摩書房の吉崎さんと打ち合わせ。
また本を一冊書くことになってしまった・・・

5 月 24 日。
高橋源一郎『「悪」と戦う』と村上春樹『BOOK3』をめぐる鼎談(沼野充義、都甲幸治さんと)を仕上げて送稿。
大学で修論の面談、部長会、ミッションステートメントについて管理職会議、AERA の取材。メディアの普天間報道について批判(平川くんやジローくんも書いているとおり、マスメディアの普天間報道は「米軍基地の全面撤去」という主権国家としての当然の要求を抑圧している)。
それから AERA のみなさん(大波さん、市川さん、小境さん)と三宮に出てKOKUBUでステーキ。國分さん、ごちそうさま。

5 月 25 日。
下川先生のお稽古。それから授業二つ。授業のあいまに原稿を書いていたら、毎日新聞から電話取材。「事業仕分けについてどう思うか」というお問い合わせ。
「諸悪の根源」を想定して、それを除去すれば万事解決という発想は「供犠儀礼」的なものであり、短期的には有効だが、長期的には市民的成熟を妨げるので運用は慎重に、ということを申し上げる。
制度改革というのはできるならば怒号や罵声の中でなされるべきものではない。
できうるならばそれは「それぞれの分野における職業的専門家によって、専門的知見にもとづき、職業的規律にしたがって管理、運営されるもの」でなければならない。
そこにはできるだけ政治イデオロギーや市場原理が介入すべきではない。
これを宇沢弘文先生は「フィデュシアリー (fiduciary) の原則」と呼んでいる。(宇沢弘文、『社会的共通資本』、岩波新書、2000年、23頁)
Fiduciary とは「受託者、被信託者」のことである。
それは私の用語で言えば「大人」ということである。
システムの保全と補修を主務とし、そのことについて誰からも賞賛も報酬も求めない「雪かき」の別名である。
私たちの国の不幸は、官僚にも政治家にも「大人」が少ない、あまりにも少ないということである。
大学院ゼミは「○○と日本」の○○には好きな国名を入れて毎回それを論じるという比較文化論のゼミである。
今回は「ユダヤと日本」
土曜日に日本ユダヤ学会の公開講演で「どうして日本人はユダヤ人の話をしたがるのか?」という演題で話すことになっているので、それについて考えながら発表を聴く。
考えた末の、私の結論は「日本人は本質的に日猶同祖論者的である」というびっくりものである。
どうしてそういうことになるのかは土曜日の講演でお聴きください。
学会員でないかたもご来聴になれます。
とき:5 月 29 日(土)15 時から
ところ:早稲田大学戸山キャンパス36号館382教室
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