続いて大学院のゼミ。
本日のお題は「韓国と日本」。
日韓問題はたいへんむずかしい問題である。
あらゆるむずかしい問題がそうであるように、この問題がたいへんにむずかしいものであるのは「日韓問題については、最適解があり、私はそれを知っている」と主張する人たちが複数いて、かつ彼らのあいだで合意形成ができていないからである。
通常、このような場合には「それらはどれも『最適解』ではない」と判断する方が生産的である。
そうすると問題の次数を一つ上げることができるからである。
「なぜ、日韓問題については当事者全員が合意できる『最適解』が存在しないのか?」
この問いについてなら、とりあえず対立している立場のあいだでも冷静に意見交換できる可能性がある(「可能性がある」だけで、もちろん「やってみたらやっぱり泥仕合」という可能性もあるが)。
まあ、やらないよりはまし・・・くらいの期待度で、その「なぜ?」についてゼミで考えてみる。
「なぜ、日韓問題については当事者全員が合意できる『最適解』が存在しないのか?」
私の意見を申し上げる。
その一因は「日本」と「韓国」という現存する国民国家の枠組みを過去に投影して歴史問題を論じているからではないかというものである。
過去のできごとのうちには「過去の時点」に立ち戻ってみないと、その意味がわからないものがある。
そういうものについては、いま・ここ・私を「歴史的進化の達成点」とみなし、そこから逆照明して解釈することは適当ではない。
歴史は別に進化しているわけではないし、人間は時代が下るごとにどんどん知的・倫理的に向上しているわけではない。
今の私たちにはうまく理解できないものが、過去の人々のリアルタイムの現場においては合理的かつ適切なふるまいだと思われていたということはありうる。
それを現在の基準に照らして「狂気」とか「野蛮」とかくくっても、あまり生産的ではない。
というのは「狂気」や「野蛮」というタグをつけて放置されたしたものはなかなか「死なない」からである。
「正しく名づけられなかったもの」は墓場から甦ってくる可能性がある。
私がそう言っているのではない。マルクスがそう言っているのである。
「狂気」や「野蛮」を甦らせないためには、それが「主観的には合理的な行動」として見える文脈を探り当て、その文脈そのものを分析の俎上に載せる必要がある。
今回の発表で気になったのは、「豊臣秀吉の朝鮮侵略」の扱われ方である。
ふつうはこれを「大日本帝国」の「李氏朝鮮」侵略の先駆的なかたちであり、本質的には「同じもの」だと考える。
私は簡単にこれを同定しないほうがいいと思っている。
豊臣秀吉の時代に「国民国家」という概念はまだ存在していないからである(政治史的に言えば、国民国家の誕生はウェストファリア条約以前には遡らない)。
では、豊臣秀吉は何を企図していたのか。
彼はそれまで分裂していた日本列島を統一した。列島の部族を統一したので、「次の仕事」にとりかかった。
それは「中原に鹿を逐う」ことである。
華夷秩序の世界では、「王化の光」の届かない蛮地の部族は、ローカルな統合を果たしたら、次は武力を以て中原に押し出し、そこに君臨する中華皇帝を弑逆して、皇位に就き、新しい王朝を建てようとする。
華夷秩序のコスモロジーを内面化していた「蕃族」はシステマティックにそうふるまってきた。
匈奴もモンゴル族も女真族も満州族も、部族の統一を果たすと、必ず中原に攻めのぼった。
そのうちのいくつかは実際に王朝を建てた。
豊臣秀吉は朝鮮半島を経由して、明を攻め滅ぼし、北京に後陽成天皇を迎えて「日本族の王朝」を建てようとした。その点では匈奴の冒頓単于や女真族の完顔阿骨打やモンゴルのチンギス・ハンや満州族のヌルハチとそれほど違うことを考えていたわけではない。
華夷秩序のコスモロジーを深く内面化した社会集団にとってそれは「ふつうの」選択肢と映ったはずである。
もし、このとき豊臣秀吉の明討伐が成功した場合(その可能性はゼロではなかった)、この「日本族の王朝」は、モンゴル族の王朝である元、漢族の王朝である明に続く、漢字一字のものとなったはずである。
仮にそれが短命のものに終わり、日本族は列島に退き、そのあとを満洲族の王朝である清が襲った場合でも、この王朝名はたぶん「中国史」の中に歴代王朝の一つとして記載され、日本の中学生たちは「世界史」の受験勉強のときに、その王朝名とその開始と滅亡の年号を暗記させられたはずである。
だって、それは「中国の王朝」だからである。
そんなはずはない。それは日本人が勝手に侵略して建てた王朝だから、中国の王朝には数えないということをおっしゃる人がいるかも知れない。
だが、それだと、夏も殷も周も出自は怪しいし、元と清はむろん正史からは削除されねばならぬし、金や遼も「テロリスト集団による漢土の不法占拠」として扱われねばならない。
秀吉の朝鮮半島への軍事行動は「辺境の列島に住む一部族が、ローカルな統一を果たしたので、半島に住む諸族を斬り従えて、大陸に王朝を建てようとした(が失敗した)」という、華夷秩序内部の「できごと」として考想されていたはずである。
侵略した日本人も侵略された朝鮮人も侵略の報を受けた中国人もたぶん「そういうふうに」事態をとらえていたのではないかと思う。
勘違いしてほしくないが、私は別に「だから、豊臣秀吉の朝鮮半島侵略は歴史的に正当化される」というようなことを言っているわけではない。
「辺境の一部族が幻想的な王朝建設を夢見て、周辺地域に大量破壊をもたらした」という事実に争う余地はない。
そんなことをしないで列島でじっとしていればよかったのに、と私も思う。
ただ、その「幻想」がどういうものであったのかを見ておかないと、「どうして」そんなことをしたのかはわからない。
どうしてそれをしたのかがわからないことは、どうしてそれをしたのかがわかることよりも「始末に負えない」。
それは繰り返される可能性がある。
秀吉の朝鮮侵攻を論じた史書はあまり多くない。
その多くが「秀吉の行動は不可解」としている。
中には「秀吉は晩年、精神錯乱に陥っていた」という説を立てているものもある。
「気が狂っていた」ように見えるのは、その歴史学者が現代人の国民国家観を無意識に内面化したまま、そのようなものが存在しなかった時代の出来事を解釈しようとしているからではないかと私は思う。
明治維新の後に西郷隆盛は「征韓論」を唱えた。
この唐突なプランもまた現代の私たちにはほとんど理解不能である。
歴史の教科書は「西郷は外部に仮想敵を作ることによって、国内の士族の不満をそらそうとした」という「合理的」な説明を試みるが、そうだろうか。
豊臣秀吉と同じように「部族が統一されたら、次は『中原に鹿を逐う』事業を始めなくてはならない」という「中華思想内部的」な思想が西郷隆盛のような前近代的なエートスを濃密にもっていた人間には胚胎された可能性は吟味してもよいのではないか。
大久保利通と西郷隆盛の間の国家論的な対立を「華夷秩序コスモロジー」と「帝国主義コスモロジー」の相克として理解することはできないのだろうか。
事実、その後、日本が江華島条約で朝鮮半島への侵略を企てたとき、日本は直前に経験したペリーによる砲艦外交を再演し、陸戦隊による砲台の占拠では、四カ国艦隊による長州下関砲台占拠の作戦を再演してみせた。
これは日本が「華夷秩序のコスモロジー」を離れて「帝国主義のコスモロジー」に乗り換えたことの一つのメルクマールのように私には見える。
ある社会集団の「狂気じみた」ふるまいの意味を理解したり、次の行動を予測したりする上では、その集団の「狂気じみたふるまい」を主観的には合理化していた幻想の文脈を見出す必要がある。
繰り返し言うが、それはそのふるまいを「今の時点」で合理化するためではない。
私たちもまた今の時点で固有に歴史的なしかたで「狂っている」ことを知るためである。
国民国家のあいだの「和解」は、「私たちはそれぞれの時代において、それぞれ固有の仕方で幻想的に世界を見ている」ということを認め合い、その幻想の成り立ちと機能を解明するところから始める他ないと私は思っている。
もちろん、私に同意してくれる人はきわめて少数であろうけれど。
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(2010-05-20 10:33)