お待たせしました、ようやくマトグロッソ始まりました。
やれやれです。
http://www.matogrosso.jp/
ブックマークしておいてくださいね。
いろいろな企画があるんですけれど、NSP もその中にあります。
いよいよ本格的にストーリー募集です。
募集要項
National Story Project Japan
みなさん、こんにちは、内田樹です。
ポール・オースターの『ナショナル・ストーリー・プロジェクト』の「日本版」を作成することになりました。
お読みになった方はご存じですよね。新潮社とアルクから訳が出てます。翻訳は柴田元幸さんたち。
『ナショナル・ストーリー・プロジェクト』はどういうものかと申しますと、アメリカのいろいろな普通の人たちに寄稿してもらったショート・ストーリーの中から佳作をラジオでポール・オースターが朗読するという、それだけのものです。
でも、これが面白いんです。
ポール・オースターはラジオで、どのような物語を求めているかについてこんなふうに話しました。
「物語を求めているのですと、私は聴取者に呼びかけた。物語は事実でなければならず、短くないといけませんが、内容やスタイルに関しては何ら制限はありません。私が何より惹かれるのは、世界とはこういうものだという私たちの予想をくつがえす物語であり、私たちの家族の歴史のなか、私たちの心や体、私たちの魂のなかで働いている神秘にしてはかりがたいさまざまな力を明かしてくれる逸話なのです。言いかえれば、作り話のように聞こえる実話。大きな事柄でもいいし小さな事柄でもいいし、悲劇的な話、喜劇的な話、とにかく紙に書きつけたいという気になるほど大切に思えた体験なら何でもいいのです。いままで物語なんか一度も書いたことがなくても心配は要りません。人はみな、面白い話をいくつか知っているものなのですから。」(『ナショナル・ストーリー・プロジェクト』、ポール・オースター編、柴田元幸他訳、新潮社、2005年、10頁)
そうやって集まったショート・ストーリーは4000通を超えました。
それはあらゆる場所の、あらゆる年齢の、あらゆる職業の語り手による、信じられないほどに多様な「作り話のように聞こえる実話」。それを読んでいるときポール・オースターは「アメリカが物語を語るのが私には聞こえた」(11頁)と感懐を述べています。
どのような物語が収集されたかは実物を徴していただくとして、このプロジェクトの日本版をやることになりました。
どういう事情でぼくと高橋源一郎さんがこのプロジェクトにかかわるようになったのかについてなど事細かに話す機会はいずれあると思いますが、とりあえずはお知らせ。
「物語を求めています。」
「本当にあった『嘘みたい』な話」
ある出来事を「嘘みたい」と思うか、「そんなのよくあることじゃないか」と思うかの識別の基準は客観的なものではありません。それはあくまで主観的なものです。「嘘みたい」と思うときに、その人の、余人を以ては代え難い、きわだった個性が露出する(ことがある)。たぶん、そうなんだと思います。つねにそうなるとは限りませんけれど、そういうことが起こる確率が高いはずです。
「その人にとってはあり得ないはずのこと」があり得たという事件を語るさまざまなアメリカ人の証言を通じて、ポール・オースターは「アメリカが物語るのを聴いた」のでした。同じようにして、ぼくたちも、「日本が物語るのを聴いてみたい」と思います。
■テーマ
トライアルをやって何十通か応募原稿を拝見してみましたところ、選択される主題にかなり「偏り」があることがわかりました。それなら逆に、テーマを自由に選んでもらうより、こちらからテーマを指定して書いてもらった方がむしろ面白いものが集まるかな・・・と考えたので、テーマ指定で募集することにしました。
とりあえず第一次募集(第二次募集のときはまた告知します)のカテゴリーは以下の通りです。ご自分のストーリーはどのカテゴリーのものかを原稿に明記して応募してください。
「犬と猫の話」
「おばあさんの話」
「マジックナンバーの話」
「ばったり会った話」
「もどってくるはずがないのに、もどってきたものの話」
「そっくりな人の話」
「変な機械の話」
「空に浮かんでいたものの話」
「予知した話」
「あとからぞっとした話」
以上10個が第一次募集のテーマです。
適当に今書きだしたんですけれど、ぼくはたちまち三つ思いついてしまいました(「空に浮かんでいたものの話」と「あとからぞっとした話」と「猫の話」)審査員だから書きませんけど。
それ以外の応募条件。
■字数
長さは1000字まで。
短い分にはいくら短くても構いません。トライアルのときに「2000字以内」って書いたら、長過ぎたらしく、みんな「序文」と「あとがき(というか教訓とか反省とか)」を書いてきました。申し訳ないけど、そういうのは要りません。ショート・ストーリーの要諦は「いきなり始まって、ぶつんとカット・アウト」です。ロックンロールと一緒。
■応募資格:年齢・性別・職業・国籍は問いません。ただし、プロジェクトはあくまで「ジャパン」ですから、そのストーリーを通じて、日本の「何か」が浮かび上がるものであることが条件です。
■締め切り:随時募集しております
■選者:ぼくと高橋源一郎さんが審査します。そのほか誰か「やってもいいよ」という奇特な人がいたら、その人にもお願いすることがあるかもしれません。
■発表:本サイトにて随時発表させていただきます。書籍化する(ことがあったら)収録させていただくことがあります。
■注意:謝礼はお出しいたしません(すみませんね)。書籍化した場合は収録させていただいた方に一冊ずつ送らせていただきます。
■原稿は返却いたしません。また、選考に関するお問い合わせには応じられません(「なんで落とした」なんて言われてもね)。
■応募方法については amazon の方をみてください。
みなさまのご応募、心よりお待ちしております。
ポール・オースターは「人はみな、面白い話をいくつか知っているものなのですから」と書いていますけれど、これは日本人の場合はどうかな〜とぼくは実は思っているのです。
いろいろなバックグラウンドをもっている、性別も年齢も身分も立場違うひとたちが「たまたま」ある場所に行き会わせて、一夜をともにするときに「とっておきの話」をするというのは、『デカメロン』や『カンタベリー物語』以来のヨーロッパ文学の定番ですけれど、アメリカにもその伝統は脈々と伝わっているんじゃないかと思うんですよ。
移民の国ですしね。
そもそもわりと冒険的な気質の人たちが集まって作った国ですから、「奇想天外な経験談」には事欠かない。
マーク・トウェインとか、メルヴィルとか、ポウなんかも、そういう「ホラ話」の伝統を引き継いでいるんじゃないかな。
現代文学でも、フィッツジェラルドの「ダイヤモンドの山」の話なんかも、ある意味その「ホラ話」系かもしれないです(フィッツジェラルドはもう「現代文学」とは言わないか・・・)
だから、そういう話の仕込みはわりとふだんからまじめにやるという「ストーリー・テリング」のための訓練はしているんじゃないですかね。
それに比べてわが国の人々はどうか。
「とっておきの話」の二つ三つはいつでも出せるという人はあまりいないんじゃないでしょうか。
パーティジョークとか、日本人やらないでしょ。
妙に器用にそういうジョークを連発する人って、日本だと「怪しい人」だと思われません?
でも、ぼくはそれはそういう感覚でいいんじゃないかと思ってもいるんです。
もしかすると日本人が得意なのは「オチのない話」じゃないって思うんですよ。
ぜんぜんパーティジョーク向きじゃない話。
「は?そ の話のどこが面白いの・・・」というような話を妙にたいせつに抱え込んでいるというところがむしろ「にほんじん的」ということはないのでしょうか。
というようなことを考えています。
どんどんお話送ってくださいね。
源ちゃんとふたりで待ってます。;
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(2010-05-26 11:53)