父親のかなしみ

2010-05-19 mercredi

小学館の取材で「家族」についてお話しをする。
もう何度も書いていることだが、親族制度というのは言語や経済活動と同じだけ古く、それを営むことができるという事実が人間の人間性を基礎づけている。
と書くと「ああ、そうですか」と退屈そうなリアクションをする人がいそうだが、人間とサルを分岐するのがその点であるということは、見方を逆にすれば「およそ人間であれば、誰でもできる」ということを意味している。
そこのところを当今の家族論は見落としているのではないか。
家族について論じている言説に触れて、つねに感じることは「そんなむずかしいことが『ふつうの人間』にできるわけないでしょ」ということである。
かつて「アダルト・チルドレン」という言葉がはやったことがあった(死語になってくれたようでうれしい)。
機能不全な家族で育った子どもがその後社会的能力が劣化する現象をいうのだが、そのとき列挙されていた機能不全家族の条件を見ると、この世に機能不全でない家族など一つもないようなものばかりであった。
家族全員が平等で、お互いを理解し合い、愛し合い、あらゆることを相談し合い、決して秘密を持たず、互いの欲望を受け容れ合う。
そんな家族でなければなりませんと本には書いてあった。
それは違うだろうと私は思う。
社会制度というのは、「誰でもできる」という条件で制度設計してある。
例外的強者以外には簡単に実現できないような制度に基づいて社会は組み立てられてない(というか、それではそもそも社会が始まらない)。
家族は社会組織の基礎である。
それゆえ、例外的強者でなくても、例外的に知性的でなくても、例外的に倫理的でなくても営むことができる。
そのような「平凡な人間」が営む場合の方が「むしろうまくゆく」ように作られている。
私が人類史最初に「家族」を制度設計する係であったら、当然そうする。
家族構成員全員が市民的に成熟している人間的に立派な人でなければ機能しないようなものをデフォルトにするはずがない。
そこのところを当今の家族論は見間違えているのではないか。
新聞の「家庭欄」というのを書いているのはエリート新聞記者たちだが、彼らは「たいへんな努力をしないと実現できないもの」にしか価値がないと思いがちである。
だから、家族を論じるときも必ず「たいへんな努力をしないと実現できない家族」こそがすばらしい家族であるというふうについ考えてしまう。
「適当にちゃらちゃらやっている方がうまく機能するように家族は制度設計されている」というようなアイディアは彼らの頭にはまず浮かばない。
それはメディアが学校教育を論じるときも、医療を論じるときも、統治システムを論じるときも変わらない。
眉間に皺寄せて、脂汗をかきながらやる仕事だけに価値があるという信憑をメディアは流布しているが、それは真実ではない。
たいていの場合、にこにこ笑いながら、遊び半分でやっている仕事の方がクオリティが高いのである。
家族も基本的には「ちゃらちゃら」やる方がうまくゆくように設計されている。
それは私の年来の主張を繰り返せば、「家族を理解と共感の上には基礎づけない」ということである。
家族とはいえ他人である。
何を考えているかなんか、わかるはずがない。
とりあえず私には母の考えていることも兄の考えていることも正直言うとよくわからない。娘の考えはさらにわからず、妻の思考内容に至ってはほとんど人外魔境である。
これが「わからない」と家族として機能不全であると言われてしまうと、私には立つ瀬がない。
それでもそこそこ仲良く暮らしているのだから、それで「OK」ということにしてはいただけないであろうか。
父子家庭で娘を育てた経験からわかったことは「父親」と「母親」の仕事は別のものであり、それぞれ非常にシンプルな役割演技によって構築されているということであった。
「母親」の仕事は子どもの基本的な生理的欲求を満たすこと(ご飯をきちんと食べさせる、着心地のよい服を着せる、さっぱりした暖かい布団に寝かせるなど)、子どもの非言語的「アラーム」をいちはやく受信すること、どんな場合でも子どもの味方をすること、この三点くらいである。
「父親」の仕事はもっと簡単。
「父親」の最終的な仕事は一つだけで、それは「子どもに乗り越えられる」ことである。
この男の支配下にいつまでもいたのでは自分の人生に「先」はない。この男の家を出て行かねば・・・と子どもに思わせればそれで「任務完了」である。
だから、「よい父親」というのがいわゆる「よい父親」ではないことが導かれる。
「ものわかりのよい父親」は実は「悪い父親」なのである。
否定しにくいから。
「愛情深い父親」もあまりよい父親ではない。
その人のもとを去りがたいから。
「頭のよい父親」はさらに悪い。
子どもと論争したときに、理路整然博引旁証で子どもを論破してしまうような父親はいない方がよほどましである。
それよりはやはり「あんなバカな父親のところにいたら、自分までバカになってしまう」というようなすっきりした気分にして子どもで家から出してやりたい(それについて文句を言ってはいけない。自分だって、そう言って親の家から出たのである。父親がそれほどバカではなかったことに気づくのはずっと後になってからのことである)。
言い遅れたが、人類学的な意味での親の仕事とは、適当な時期が来たら子どもが「こんな家にはもういたくない」と言って新しい家族を探しに家を去るように仕向けることである。
これが「制度設計」の根幹部分である。
それができれば親としての仕事は完了。
なまじ親のものわかりがよく、愛情深く、理解も行き届いているせいで、子どもがいつまでも家から出たがらない状態はむしろ人類学的には「機能不全」なのである。
当今の家族論は、家族の存立のそもそもの目的を見誤っているのではないか。
「イニシエーションの年齢に達したら、子どもを家から出して、新たな家族を作るように仕向けること」、それだけが親の仕事である。
自余のことは副次的なことにすぎない。
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