言葉の力

2010-05-14 vendredi

ツイッターで「言葉の力」と題する原稿を書いたとつぶやいたら、「読みたい」というリクエストがたくさん(三通)あった。
専門的な媒体に書いたので、ふつうの方の眼に触れる機会は少ないであろうから、リクエストにお応えして、ここにその一部を抄録することにする。
力とは外形的数値的に表示できるものではなく、ほんらいは内在的・潜勢的な資質であろうという話のあとに、こんなふうに続く。

たとえば「胆力」というのは、つよいストレスに遭遇したとき、その危地を生き延びる上で死活的に重要な資質だが、それは危機的状況にあっても「ふだんと変わらぬ悠揚迫らぬ構え」をとることができるという仕方で発現される。
つまり、外形的に何も変わらない、何も徴候化しないということが胆力の手柄なのである。だから、「チカラ」をもっぱら外形的な数値化できる成果や達成によって計測することの望む人の眼に「胆力」はたぶん見えない。
当然ながら、彼らは「胆力を練るための教育プロセス」というようなものについては考えない。
そのようなものがありうるということさえ考えない。
「生命力」も同じである。「生きる力」とは平たく言ってしまえば「何でも食える」「どこでも寝られる」「誰とでも友だちになれる」というベーシックな三種の能力にほぼ尽くされる。
要するに、与えられた場に適応し、手持ちの有限のリソースを最大限活用する能力である。
無人島に漂着するとか、最前線に送られるとか、ぎりぎりの環境を生き延びるためには必須のものだが、現代の学校教育には、そのような能力を育てるための体系的プログラムは存在しない。
「学力」も同じである。
ほとんどの人はこれを「成績」と同義語で、点数化し、優劣を比較できるものと思っている。
けれども、学力とは文字通り「学ぶ力」のことである。
それはたまたま外形的に成績や評価として表示されることもあるが本来はかたちを持たないものだ。
というのは、「学ぶ力」とは「自分の無知や非力を自覚できること」、「自分が学ぶべきことは何かを先駆的に知ること」、「自分を教え導くはずの人(メンター)を探り当てることができること」といった一連の能力のことだからだ。
これらの力は成果や達成では示されない。
学ぶ力は「欠性態」としてのみ存在する。
何かが欠けているという自覚の強度のことを「学ぶ力」と呼ぶのである。
「おのれの未熟の自覚」、「ある種の知識や技能についての欠落感」、「師に承認されたいという欲望」といったものは存在するとは別の仕方で私たちの生き方に深い影響を及ぼすのである。
「学ぶ力」は欠性的にしか存在しない。
だが、それを励起し、支援し、開発するための実践的プログラムはもちろん存在する。
経験を積んだ教師はそのことを知っている。
悪い方の例だけを挙げるが、例えば「成績が悪いと社会下層に格付けされる」という恐怖心は学習の動機づけとして間違いなく有用である。
この「恐怖心」は実際には「未来において自分が失うかもしれないものについての欠落感の先取り」という複雑な心理操作を子どもに要求している。
そして、経験が教えるのは、恐怖心の強い子どもほど高い確率で「ガリ勉」になるということである。
この子どもの「学ぶ力」の中核にあるのは「恐怖心」である。
「先取りされた喪失感」もまたある種の欠性態であることに違いはない。ただ、それは同学齢集団内の競争で相対優位をめざす以上の目標を持たない。
だから、「恐怖心の強い子ども」は自分の成績を向上させるのと同じ努力を(場合によってはそれ以上の努力を)競争相手の成績を下げるためにも注ぐことになる。
私はそのような努力を「学ぶ力」とは呼びたくない。
「言葉の力」という本題に戻る。
私が言いたいことはもうだいたいおわかりいただけたと思う。
人間的な意味での「力」は、何を達成したか、どのような成果を上げたか、どのような利益をもたらしたかというような実定的基準によって考量すべきものではない。
「言葉の力」も同じである。
「言葉の力」はそれが達成した成果やそれが発語者にもたらした利益によって計測されるのではない。そうではなくて、「言葉の力」とは、私たちが現にそれを用いて自分の思考や感情を述べているときの言葉の不正確さ、不適切さを悲しむ能力のことを言うのである。
言葉がつねに過剰であるか不足であるかして、どうしても「自分が言いたいこと」に届かないことに苦しむ能力を言うのである。
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