光文社から出る『メディアと知』という仮タイトルの本を書いている。
もともとは3年ほど前にやった授業の録音をテープ起こしして、それにちょいちょいと手を入れて・・・というお手軽本のつもりだったのだが、書き始めると、「あれも書きたい、これも書きたい」ということで、どんどん話がくどくなる。
まだ第二講なのに、もう3万字。
全体で第七講くらいまでで収めたいのだが、収まるかしら。
メディアに論点を特化している。
マスメディア(テレビと新聞)の凋落、インターネットとメディア、ミドル・メディア、書籍文化、コピーライト、メディア・リテラシー、それにもともと「キャリアデザインプログラム」の中の授業だったので、最初のところではキャリア教育についても語っている。
マスメディア、とりわけ新聞の凋落について今書いている。
新聞メディアの急速な失墜をほとんどの人は「インターネットに取って代わられた」という通信手段のシフトで説明している。
けれども、私はそれはちょっと違うだろうと思っている。
新聞メディアの凋落は、「速報性やアクセシビリティにおいてインターネットにアドバンテージがあるから」という理由だけでは説明できない。
少なくとも、私が「新聞はダメだな」と思うのは、そういう理由からではない。
新聞の凋落は、その知的な劣化がもたらしたものである。
きびしい言い方だけれど、そう言わざるを得ない。
新聞記事の書き手たちは構造的にある「思考定型」をなぞることを強いられている。
それは世の中の出来事は「属人的な要素」で決まるという思考定型である。
要するにこの世には「グッドガイ」と「バッドガイ」がいて、その相克の中ですべての出来事は展開しているので、誰がグッドガイで誰がバッドガイであるかを見きわめ、グッドガイを支援しバッドガイを叩く、ということを報道の使命だと考えているということである。
シンプルでチープな話型だが、現実にそういう話型に基づいて世の中の人の多くはふるまっているので、その話型で説明がつくことは少なくない。
「虚構が現実を圧倒する」ときには虚構に基づいて現実を分析し、虚構的にふるまう方が現実的である、ということはたしかにある。
けれども、それでは片づかない問題もある。
たくさんある。
たとえば、この鋳型から叩き出される思考は、そのような話型を生み出し続けている「構造」について遡及的に語ることはできない。
「なぜ私は『こんな話』ばかりしているのか?」という自省をすることができない。
自省したら絶句するからである。
商売柄、メディアは「絶句すること」が許されない。
逆に言えば、インターネットメディアの利点は「用がなければ黙っている」ことができるということである。
「黙ることが許される」というのは思考する人間において手放すことのできない特権である。
「ときどき長い沈黙のうちに沈む」というのは、人間がものを深く、徹底的に考えるための「マスト」である。
新聞やテレビのような「定期的に・定量の情報を発信することをビジネスモデルにしているメディア」の最大の弱点はそこにある。
黙り込むことが許されない。
自分はどうして「こんな話」ばかりしているのか・・・という深甚な、ある意味で危険な問いを抱え込むことが許されない。
その自省機会の欠如が、メディアのもつべき批評性の本質的部分をゆっくりと腐らてゆく。
たぶんそういうことだと思う。
ある週刊誌の女性編集者が取材に来たことがあった。
その週刊誌はいわゆる「おじさん」系の雑誌で、「世の中、要するに色と慾」というタイプのシンプルでチープなスキームで森羅万象を撫で斬りにしていた。
そういう単純な切り取り方で世の中の出来事を説明してもらえると、読む方は知的負荷が少なくて済むので、それなりの読者がついている。
二十代の女性がその記事を書いている。
私はさぞや苦労していることだろうと思って、そう言ったら、きょとんとして「別に」とお答えになった。
記事の書き方に決まった「型」があるので、それさえ覚えれば、私みたいな女の子でもすぐに「おじさんみたいに」書けるようになるんです。
それを聴いて、はあ、としばらく脱力してから、それはちょっとまずいんじゃないかと思った。
というのは、だとすると、その週刊誌の記事を実際に書いているのは、血の通った、固有名と、固有の自己史をもった人間ではなく、「出来合いの文体」だということになるからである。
そこに書かれたことについて、「これは私が書きたいと思って書いたことであり、それが引き起こした責任を私は個人で引き受ける」と言う人間がどこにもいないのである。
もちろん、誤報や名誉毀損とかトラブルは起きる。
けれども、その場合でも、責任を取るのは書いた個人ではなく、会社なのである。
名誉毀損の裁判に負ければ賠償金は会社の経理が払うのである。
でも、そのとき「訴状をよく見てからコメントしたい」とかぶつぶつ言っている人間は、その記事を書いた本人ではない。管理責任上、「そういう立場」にたまたまある人間であるにすぎない。
その人が謝罪しようと、弁明しようと、それは書いた人間の言葉ではない。
だから、その人の額には「オレが書いたわけじゃないものについてがたがた言われちゃ、たまらんよ」という「うんざり感」がはっきりと刻み込まれている。
誰も個人責任を取る気がない。取らなくていい。というより、個人責任を取ることができないようなシステムになっている。
そこで、私ははたと考え込むのである。
「最終的にその責任を引き受ける個人を持たない」ような言葉はそもそも発される必要があるのか。
私は率直に言って「ない」と思う。
人々が新聞からテレビから週刊誌から離れていっているのは、インターネットという通信手段の利便性が高いから「だけ」ではない。
とりあえずネット上では、誰も、発語したものに代わって謝罪したり、弁護士を雇ったり、賠償金を払ったりしてくれないからである。
ここでは自分の発した言葉の責任を一人で引き受けることが「できる」。
この書き手が自分の書いたことについて全面的に責任をとることが「できる」という権利(義務ではない)が、マスメディアが「鋳型」から叩き出す定型的なテクストに対してインターネット上のテクストが有しているアドバンテージの実質ではないのか。
私にはそのように思われるのである。
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(2010-04-02 12:43)