日本の現在のメディアの「語り口」の定型性について、ずっと書いているうちに、それを書いている自分の語り口の定型性にうんざりしてきた。
ありがちなことだ。
ある対象を批判しているうちに、批判している当の対象とだんだん「面つき」が似てくるのである。
「重箱の隅」をつついているうちに、「重箱の隅」が視野の全面を覆ってしまうということはままある。
気分転換に、ぜんぜん違う時代の、違う論件について語ったものを読みたくなって、本棚を見ると小林秀雄全集が眼に入ったので、中の一巻を抜き出し、適当にぱらりと拡げる。
本棚というのは、こういうときに便利である。
ぱらり。
小林秀雄と三木清が対談している。1940年。
小林秀雄がこんなことを言っている。
「僕も前に福沢諭吉の事を書いたことがあるけれども、福沢諭吉は『文明論之概略』の序文でこういう事を言っている。現代の日本文明というものは、一人にして両身あるごとき文明だ、つまり過去の文明と新しい文明を一つの身にもっておる、一生にして二生を持つが如き事をやっている、そういう経験は西洋人にはわからん、現代の日本人だけがもっている実際の経験だというのだよ。そういう経験をもったということは、われわれのチャンスであるというのだ。そういうチャンスは利用しなくちゃいかん。だから、俺はそれを利用し、文明論を書く、と言うのだ。 (…) 実証精神というのは、そういうものだと思うのだがね。何もある対象に向かって実証的方法を使うということが実証精神でないよ。自分が現に生きている立場、自分の特殊の立場が学問をやる場合に先ず見えていなくちゃならぬ。俺は現にこういう特殊な立場に立っているんだということが学問の切掛けにならなければいけないのじゃないか。そういうふうな処が今の学者にないことが駄目なのだ。日本の今の現状というようなものをある方法で照明する。そうでないのだ。西洋人にはできないある経験を現に僕等しているわけだろう。そういう西洋人ができない経験、僕等でなければやれない経験をしているという、そういう実際の生活の切掛けから学問が起こらなければいけないのだよ。そういうものが土台になって学問が起こらなければいけない。そういうものを僕は実証的方法というのだよ。」(「實験的精神」、『小林秀雄全集第七巻』、新潮社、2001年、285-6頁)
鳥瞰的な、非人称的な視点ではなく、あくまで自分の「特殊な立場」に踏みとどまり、自分のまわりを見る。
「眼の前の物をはっきり見て、凡そ見のこしということをしない自分の眼力と、凡そ自由自在な考える力とを信じ」(289頁)る。
そこからしか学問も芸術も始まらない、と小林秀雄は言う。
そして、そういう構えを「原始的」と呼んでいる。
「何かに率直に驚いて、すぐそこから真っすぐに考えはじめるというようなところがある」(282頁)パスカルを評して、小林は彼は「ものを考える原始人」だと言う。
なるほど。
養老先生が「野蛮人」と呼ぶのも、たぶん小林のいう「原始人」と同種のものであろう。
原始人のように、野蛮人のように考える。
おっし。それを本日の標語として、本の続きを書くとするか。
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(2010-04-03 08:19)