アカデミアと親密性

2010-04-01 jeudi

私大連のヒアリングがある。
飯学長と二人で、いろいろと大学経営についてのご質問を受ける。
聴き手は広島女学院大学の今田寛学長と私大連の職員お二人。
私大連加盟大学のうち、「地方」にある、「学年定員800人以下」の大学はどこも志願者確保に苦戦している。
加えて「ミッション系」の「女子大」の状況はさらに厳しい。
その中できわめて例外的に志願者確保に成功している大学がいくつかある。
本学もその一つである。
定員管理が「入学者が多すぎる」というかたちで失敗するというのは、志願者確保に苦労している大学からは「贅沢な悩み」だと言われる。
「どうして、これほど悪い条件が揃っているにもかかわらず、志願者を集めることができているのか」を調べて「成功の秘密」を検知するという趣旨のヒアリングなのである。
改めて訊かれると、さあ・・・どうしてなんでしょうねと学長と顔を見合わせてしまう。
立地条件が特によいわけではない。資格や免状がいろいろ取れるわけではない。社会のニーズに対応した先端的な教育プログラムにつねにキャッチアップしているわけではない。FD 活動がとくに活発であるわけではない。数値目標の設定や教育研究活動の成果評価がシビアであるわけでもない。
文科省や私大連が「こうすれば志願者が集まる」と言っている種類のことはほとんど何もやっていない。ここで列挙されたような施策がめざす「教育機関のビジネスモデルに準拠した再編成」に本学はまったく興味を示さなかった。
いや、そうではない。
ほんとうはやろうとしたのである。
10 年近く前に、ウチダという自己評価委員長が旗振り役になって「ビジネスモデルによる大学の教育研究活動の再編」を企てたことがあった。
ところが、その本人が根っからビジネスマインデッドな人間であったので、自分でやろうとしていることが「あまりに費用対効果が悪い」ことに気がついて、ぱたりと止めて、一転「ビジネスモデルに基づく教育研究活動の再編に反対」派になってしまったのである。
これまでに何度も書いてきたことであるが、文科省主導の「成果主義」的モデルは、「アンダーアチーブの人間を脅かし、萎縮させる」という効果はあるが、「すでにオーバーアチーブをしている人間をエンカレッジする」効果はない。
だが、教育研究機関においては、「ろくな仕事をしない人間を脅しつけて標準的な仕事をさせる」ことより、「標準をはるかに超えて働く人間にフリーハンドを保証することで、オーバーアチーブメントを上機嫌に継続していただく」ほうが、成果の達成というプラクティカルな観点から言えば、ずっと効率的なのである。
教職員のうちの20%は給料分の仕事をしていない。60%は給料分働いている。20%は給料分以上の仕事をしている。
この比率は世界中どこの国のどんな組織でも変わらない。
その20%のオーバーアチーブメントが組織を「前に進める」駆動力を提供している。
だったら、給料分の仕事をしていない20%を検出して、きびしく考課し、脅しつけたり、萎縮させたりする時間と手間があるなら、それをオーバーアチーバーたちに「気分よく働ける環境」を提供することに使う方がよほど合理的である。
給料分の仕事をしていない人間がもたらす損失は最大でも給料分であるが、給料分以上の仕事をしている人間がもたらす利益は彼らに支給されている給料をゆうに超える。
それなら、メンバーを査定したり評価したり、競争的環境において限られた原資をラットレース的に争奪させるよりも、ほんわかした「気分よく働ける環境」を整備した方が、経営的には「儲かる」。
経験は私にそう教えている。
もともと本学はキリスト教会衆派が建てた学校である。
それがきわめて民主的な本学の大学運営に反映している。
プロテスタントには、会衆派・長老派・監督派といった区分があるが、これは教理にではなく、組織論にかかわる。全権者である監督が教会を指導するシステム、長老たちが集団的に教会を指導するシステムに対して、会衆派は全員が平等の権限で教会運営にかかわる。
神戸女学院大学にはおそらくはこの会衆派の組織原理がいまだに色濃く残っている(と、偉そうに書いているけれど、これは昨日、飯学長と今田学長という二人のクリスチャンの話を横で「へえ〜、そうなんですかあ」と聴いていたのをそのまま書き写しているのである)。
本学はなるほど上意下達的な組織ではない。
どのような教育プログラム上の改革も、つねに現場の教師が、自分の責任で起案し、発議し、合意形成に走り回り、自分で実行するというかたちを取っている。
もちろん機関決定したプログラムには組織的な支援があるが、それでも「もともと私の作ったプログラム」だという意識は残る。
それがオーバーアチーブメントを支える心理的基盤となる。
何があっても失敗させてはならないと思うからである。
こういうことは上意下達的な組織、例えば、ワンマン理事長が人事や予算ばかりか教学の個々のプログラムについてまで容喙するような組織においては起こらない。
そのような組織においては、改革はつねに「上から」指示されて到来するものであり、その成否について「命令されたもの」の側に責任はない。
とくに、その上意下達組織において権力的な非対称性が人格的なかたちで露出する場合(要するに経営者が「厭味な野郎」だった場合)、現場の教職員は経営サイドが起案したプログラムが失敗することを(無意識的に)望むようになる。
必ずそうなる。
地方の 800 人以下の私学というのは、おそらくその過半が理事会主導型の経営体質であろうと思う。
そういう大学では、教授会には人事や予算配分や将来構想の権限が十分には与えられていない。
その代わり、新学部新学科の開設とか、教育方法の大胆な転換とか、有名人の教授招聘といった「派手な」施策はすぐに実施できる。
でも、それはファカルティの士気をゆっくり、しかし確実に減殺してゆく。
「派手なシフトをする大学」の特徴は「教職員の顔が暗い」ということである。
別に作ってそういう表情をしているわけではないが、自分たちは大学の教育研究活動の「主体」ではないという「どうせオレたちなんか・・・」意識が、彼らのオーバーアチーブへの意欲を深く、不可避的に損なうのである。
「会衆派的」教授会民主主義は、たしかにものを決める上では非効率的である。
きわめて非効率的である。
なにしろうちは全学教授会で三学部五学科の全教員が集まって、協議するのである。
「会議でものを決めたければ、メンバーは最大限4人まで」という経営の経験則に照らせばありえないシステムである。
しかし、この「儀礼」はときに驚嘆すべき決定をもたらすことがある。
過去 20 年間に私は何度かそういう場面に遭遇した。
執行部による根回しが十分に行われ、学内の合意形成が終わったはずの案件について、ひとりの教師が立ち上がって反対意見を述べ、それがたちまちファカルティ全体の熱い支持をとりつけ、圧倒的多数の反対で原案が覆り、修正案が採択されたという場面に私は何度か立ち会ったことがある。
そのようなかたちで決定したことについては、ファカルティはその後努力を惜しまない。
自分たちの決定が「正しかった」ことを結果において証明することを義務だと考えるからである。
これが教授会民主主義の最大の美点だと私は思う。
儀礼性や非効率性を差し引いても、「権限を委ねられたこと」が人間にもたらすこの自尊感情を私は高く評価する。
本学がほとんど先行の「成功モデル」に従わずに来たにもかかわらず、経営的に順調であるのは、おそらくこの「会衆派的」教授会民主主義が教職員に保証している「自尊感情」と「主体性」がもたらしたものだろう。
帰り際に、私大連の職員の方と立ち話で「回われたいくつかの『成功している大学』に共通点はありましたか?」と訊いてみた。
共通点は、「教職員と学生の距離が近い大学」、「教職員の仲が良い大学」、「親密な雰囲気に包まれた大学」だということを伺った。
「非競争的環境」が教育研究を充実させており、高校生たちもまたそのような教育環境を選好しているという事実を文科省も中教審もたぶん認めようとしないだろう。
けれども、それが事実なのである。
この大学に着任してから 20 年間、私が進んで時間とエネルギーを割いた活動は「合気道・杖道のクラブ指導」と「卒業生たちとの宴会」と「極楽スキーの会」である。
大学教員としての教育研究活動にはむろんいずれも算入されない(当たり前である)。
けれども、このようなささやかな活動の蓄積が大学に「親密圏」としての実質を与えてきたことは間違いないと思う。
教育行政はそのような活動の有意性をまったく認めていない(だって、要は「遊び」なんだから)。
けれども、アカデミアを根本的なところで成立させているのは、この人間的な「親しみ」なのだと私は思っている。
人々が相互に受け容れられ、承認され、敬愛されているという条件のもとではじめて私たちの知的・身体的なポテンシャルは最大化し始めるからである。
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