卒業生へのことば

2010-03-20 samedi

卒業式、謝恩会が終わる。
これでこの大学の卒業イベントにかかわるのも、あと残すところ一回だけである。
そう思うと、20 回も出ている「いつもながらのイベント」も何かしら「かけがえのないもの」に思えてくる。
その意味では、一生に一度だけしかこれを経験しない卒業生たちの感懐に近いものがある。
謝恩会の「締めの挨拶」を学生から頼まれたので、ひとことご挨拶をする。
「教育のアウトカムは卒業時点で考量されるものではなく、卒業生ひとりひとりが卒業後に過ごす時間のなかで形成してゆくものである」と申し上げる。
自分がそこで何を学んだかは、卒業してから長い時間が経たないとわからない。
ひとによっては数十年経ってはじめて受けた教育の意味がわかるということが起きる。
それは、卒業時点で眼に見える知識や技術や資格や免状を持つことよりも、ずっと教育的には意義のあることだと思う。
私はそれを「卒後教育」と呼んでいる。
「卒後教育」の主体は卒業生たち自身である。
ラカンの「分析主体」analysant をまねて言えば「教育主体」éduquant は卒業したひとりひとりである。
私たち教師はその活動については、間接的な支援をすることしかできない。
私たちにできるわずかな支援のひとつは「母港」としてそこに「ある」ということである。
学校はあまり変化しない方がよい。
これは 30 年余教師をしてきた私の経験的実感である。
学校というのはそれがある場所も、建物も、教育プログラムも、校歌も、制服も、どうでもいいような校則も、できるだけ変えないほうがいい。
「学校制度には惰性がある」ということを私に教えてくれたのは諏訪哲二先生であるが、それは単に事実としてそうであるということにとどまらず、そうあることによって機能している部分があるということである。そのことに、諏訪先生からその言葉を聴いたときには気づかなかった。
今は少しわかる。
それは「変わらない学校」が定点としてあることによって、卒業生たちは、自分が「そこ」からどれくらい離れたところまで来たのか、「そこ」にどれくらい深く繋がっているのかを計測することができるからである。
「教育のアウトカムを考量する」と上に書いたけれど、それができるためには、「定点」が計測の基点として存在しなければならない。
自分の場所を知るためには、定点が存在しなければならない。
学校の、あるいは教師の重要な社会的機能は「定点」として、卒業生たちのために、「そこにいる」ことである。
先週、ある雑誌のインタビュー写真のために図書館本館に入ったとき、三階のギャラリーにゼミの卒業生がいた。
どうして大学に来たのか訊いたら、仕事のことで迷っていたのだが、ふと岡田山の自分の大好きなあの場所に来れば、何か自分にとって正しい判断が何かわかるような気がして、図書館本館のギャラリーまで来たのだと教えてくれた。
そこに戻ると、自分にとって何が正しいのかがわかる場所。自分はこれからどういうふうに生きようとしていたのかがはっきり思い出せる場所。そのような場所であることが学校の責務だと私は思っている。
そのような場所をもてたことが卒業生諸君にとっては大学に通ったことのおそらく最大の成果である。
ご卒業おめでとう。
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