不安というセンサー

2010-03-17 mercredi

ひさしぶりのオフ。
何日ぶりだろう・・・カレンダーを見たら、1月27日以来のオフでした。
極楽スキーとか温泉麻雀とか杖道会合宿とか、そういう「楽しい」系のイベントはオフに数えないのか、というトガリ眼のご指摘もあろうかと思うが、「オフ」というのは「予定がない」という状態のことであって、イベントのときの私はとっても忙しいのである。
だから、オフの日にしか「これまでやる時間がなくて積み残してきた仕事」を処理することがかなわない。
そして、そのような仕事の量はすでに1日や2日のオフでどうこうなるような限界をはるかに超えているのである。
10週間ほど「オフ」の日をいただければ、おそらく「不良在庫化」しているバックオーダーもことごとく処理され、担当編集者の顔に笑顔が戻ることになるとは思うが、10週間のオフを私が享受できるのは、おそらく臨終の床について後のことであろう。
私のカレンダーの「To do リスト」には現在11項目が記載されている(今日の午前中に1コ消した)。
このうちの5項目を今日のうちに消去したいと思う。
その前にまず掃除とアイロンかけしなきゃ。
BGM はツイッターでお知らせしたとおり、Randy Vanwarmer の軽快な I’m in a hurry である。

I’m in a hurry to get things done.
I rush and rush until life’s no fun
And I really got to do is live and die
But I’m in a hurry and don’t know why
「ああ忙しい やることたくさん
ぼくはひたすら急いでいるばかり
どうせ生まれて死ぬだけなのに
どうしてこんなに忙しい」

ランディくんも私と同じような感懐を抱いた日々があったのであろう(Just when I need you most がチャートインした頃に)。
気持ちはわかるぞ、ランディ。
ツイッターを見ると、平川くんの父上と江さんが立て続けに体調不良の報。
お父上は集中治療室から出て退院できるそうである。江さんの全身じんましんは原因不明。
リアルタイムで、友人知人の発信する「アラーム」が共有されるのが、もしかすると、このメディアのいちばんすぐれている点かも知れない。

昨日、そういえば『婦人公論』の取材があった。
お題は「不安」。
政治経済の先行きの不安とか、老後の蓄えについての不安とか、結婚生活についての不安とか、子育ての不安とか、そういう不安に囲まれている現代女性はいったいどうしたらいいんでしょうというご下問である。
いつものように「不安をいたずらに持ってはならない」ということをお話する。
不安とか恐怖とか痛みというものは「危機」についてのセンサーである。
「漠然とした不安」というのは「このままの道を進むとたいへん危険なことに遭遇する可能性が高い」という予測シグナルである。
不安を感じたら、立ち止まり、様子を見て、場合によったら針路を変えるというのが生物としての本筋の行動である。
不安を感じないような生物は、無防備に危機の中に突っ込んでしまう。
運が悪ければ死ぬ。
だから不安を感じることは生き延びる上できわめて重要な能力なのである。
けれども、センサーである以上、それはつねに敏感な状態にキープしておかなければならない。
だが、「365日24時間不安である」ような個体において、不安はセンサーとして機能しない。
致死的な危機が接近していても、「いつも不安」である生物はそれを異常事態として分節することができない。
だから、不安というのは、恐怖や嫌悪や痛みと同じように、ふだんは「ニュートラル」にキープしておく必要がある。
私が悲観論者や不安症の人を信用しないのは、彼らが「ほんとうに悲観しなければならない状況」や「ほんとうに不安になるべき場面」に機敏な反応をしないからである。
私はルーティンの厳守と Happy go lucky をつねづね心がけているが、それは危機対応仕様なのである。
「同じルーティンの繰り返し」をしていると、わずかな兆候の変化から、異常事態に気づくことができる。
昭和 30 年代まで多くのサラリーマンたちは、毎日同じ時間の同じ電車の同じ車両に乗って出勤した。
それはパンクチュアリティということ以上に、「危機」についてのセンサーを高感度に維持する必要を彼らの戦闘経験や空襲経験が要請していたからだと今になると思う。
サラリーマンが通勤電車への固執から解放されたのは、1960 年代半ば以後である。戦争が終わって 20 年経ってからである。
今でも、暗殺の危機にある独裁者は出勤退勤のコースを変えない(複数のコースをランダムに変えるだけである)。
それは毎日同じコースをたどっていると「昨日はなかったもの」の存在と「昨日はあったもの」の不在が際立つからである。
危機はつねにそのどちらかの様態を取る。
そのことを高感度のセンサーを必要とするものは知っている。
イマヌエル・カントは異常にパンクチュアルな散歩者であり、ケーニヒスベルクの人々は彼の通るのを見て、家の時計の狂いを直したと伝説は伝えている。
けれども、これは哲学者としてはある意味当然のことだと私は思う。
毎日判で押したように同じ生活をしている人間の脳内では、暗殺者をスキャンする SP の場合と同じように「昨日はなかったものがある」ことと「昨日はあったものがない」ことが際立つからである。
哲学者の哲学者性とは、畢竟するところ、自己の脳内における無数の考想の消滅と生成を精密にモニターする能力に帰すのである(そういうことを言う人はあまりいないが、実はそうなのである)。
だから、「ルーティンを守る」というのは命を守る上でも、イノベーションを果たすためにも、実はとってもたいせつなことなのである。
ルーティンの最たるものは「儀礼」である。
つねづね申し上げているように、だから家庭は儀礼を基礎に構築されるべきなのである。
家庭を愛情や共感の上に築こうと願ってはならない。
愛情や共感は「儀礼」についている「グリコのおまけ」のようなものである。
あればうれしいが、なくてもどうってことないのである。
Happy go lucky がなぜ危機対応であるかについてもお話したのであるが、そろそろアイロン掛けを始めないといけないので、続きはまた今度ね。
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