井上雄彦最後のマンガ展

2010-03-15 lundi

天保山のサントリーミュージアムに井上雄彦「最後のマンガ展・重版・大阪編」を見に行く。
三回目。今日が最終日。
上野、熊本、天保山と回って、次の仙台で終わり。
家から車で天保山までは20分。海岸線に沿って阪神高速を走るとすぐ。大学より近い。
でも駐車場はいっぱい(当然ですね)。はるか突堤の先の方のパーキングスペースにかろうじて停める。駐車している車のナンバーを見ると名古屋や岐阜や岡山からも来ている。
絵を見る環境を整えるために、1日あたりの入館者を2600人に制限しているので、14時に着いたときはもう本日のチケットはソールドアウト(当然ですね)。
小学館の川口さん(『街場のマンガ論』の担当編集者で、高校の先輩クスミさんの姪御さん。もちろんヘビー・リーダーである)と講談社の加藤さんがごいっしょ。
チケットは手配済みだったので、無事入館して、展示を拝見。
それから別室にて井上雄彦さんとお会いする。
『現代霊性論』の装幀をお願いしたお礼のためである。
日本でいちばん忙しいマンガ家に貴重な時間を割いて頂いた作品である。
画法についてお訊ねしてみる。
あれは和紙に墨を塗って、濃淡をつけて、胡粉で「にょろにょろ」を描いたのだそうである。
井上さんもマンガではまだこの手法を使ったことがない。
「はじめての試みだったので、やれて楽しかったです」と言ってくださった(気配りの行き届いた井上さんである)。
温顔に接して、すっかり楽しくなって、この展覧会の企図の話、『バガボンド』の話、『スラムダンク』とその社会的影響について、ちょっとつんのめり気味にいろいろお訊ねする。
この展覧会については当然海外からオッファーが来てますよねとお訊ねすると、「いろいろ来てます」というお答え。
やるならパリのポンピドゥーセンターかニューヨークの近代美術館でしょうねと私が言うと、井上さんも深く頷いて、「ぼくもやるならその二つかなと思ってます」。
というふうに気の合う二人なのである(ニューヨークの近代美術館なんか私は映画でしか見たことないんだけど)。
展覧会の構成とそのもろもろの効果についてもお訊ねする。
暗い部屋(例えば「父」の部屋)では微妙に室温が下がり、明るい部屋(「母」の部屋や「小次郎」の部屋)では室温が上がる。これは偶然空調の関係でそうなったらしい。ライティングのせいもあるけれど、結果的に視覚だけでなく、皮膚感覚も動員して「マンガを読む」ということになった。
最後の「砂」もそうで。これも「踏む触覚」と、じゃりじゃりという人が砂を「踏むのを聴く聴覚」が動員される。
あの砂は「いい音」を出すために、珊瑚の砂を敷き詰めたのだそうである。
ほとんどすべてのアイディア(木刀とか棘とか壁にじか書きにょろにょろとか)は井上さん自身の発案(「砂」は別の人の案で、はじめは「どうかな〜」と思っていたけど、やってみたらけっこうよかったとのこと)。
「空間の中を歩きながら、五感を動員して、マンガを読む」というアイディアは私の知る限り、井上雄彦以外に思いついた人はいなかったと思う。
これまでもマンガをアニメ化したり、ノベライズしたり、実写版の映画にしたり、原画を絵画的に展示したり画集にしたりということは多くのマンガ家がやっているけれど、「ジオラマ」で読むというのは井上さんが世界最初だと思う。
井上さんはあくまで「マンガを読む」という行為にこだわっている。
マンガはふつうは書籍のかたちになっているけれど、どんなかたちであってもマンガはマンガであり、マンガ・リテラシーのある読者は「あ、これマンガだ」ということがわかり、ただちに読み始めることができる。
校舎の黒板にチョークで描いても、都市の壁にペンキで描いても、道路に蝋石で描いても、そこに「マンガを描く」という意志があり、読み手にマンガ・リテラシーがあれば、「マンガを読む」という行為は成立する。
今回の展覧会では壁に描かれた3センチほどの「にょろにょろ」から、現代美術館エントランスに置かれた7メートルの武蔵まで、素材も画法もサイズも違うけれど、すべては一篇の「マンガ」に収まる。
もちろんマンガが原理的にそういうふうに自由闊達なジャンルであるということは技法に意識的なマンガ家たちにはわかっていただろうけれど、それを実際に殺人的なスケジュールの中で「やろう」と思って、「やってしまった」マンガ家は井上雄彦の前にはいなかった(そして、たぶん当分後続する人も出てこないだろう)。
「最後のマンガ展」というネーミングにはその自負がすこしだけ透けて見えるような気がする。
どちらにしても、井上さんのこの仕事によって、マンガというジャンルの奥行きと可能性についての私たちの理解は格段に深まった。
井上雄彦はこのプロジェクトによって、マンガ史(日本の、にとどまらず、世界のマンガ史)に巨大な足跡を残したと私は思う。
そのことは私がこんなところで言葉を連ねるより、展覧会に来た若者たちの食い入るようなまなざしと、深いため息から実感されるのである。
いま、このような真率なレスペクトを若者たちから向けられる大人がどれだけ存在するであろう。
同時代に井上雄彦のようなクリエイターを得たことを私は幸運だと思う。
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