お問い合わせへのお答え

2010-02-23 mardi

さきほどお問い合わせのありました「岸田秀」について書いたものを貼り付けておきます。
どうしてこういうものがここに出てくるのか、「文脈がわからん」という読者の方も多々あると思います(ツイッターやってないとわかんないですよね)
う〜む、困ったなあ。
でも、ツイッターのダイレクトメールって添付ファイルが送れないんですよ。
鳥取に行く車中で書いて日経に掲載されたものであります。

岸田秀『ものぐさ精神分析』(中公文庫)

岸田秀がそのまことにオリジナルな「唯幻論」なる思想的利器をひっさげて登場したときの衝撃は今でも忘れることができない。
巻頭の「日本近代を精神分析する」を一読して、読者は驚倒した。そこで岸田は、集団心理学というのは、個人の心理についての知見を集団に拡大適用したものではなく、まず集団心理が存在し、人の心理はそれを内面化したものにすぎないと、いきなり断定したからである。
だから、私たちの日常生活で起きていること―葛藤や抑圧や代理表象―は、ほとんどそのままのかたちで国家レベルでも再演される。
個人が病むように国家も病む。個人が狂うように、国家も狂う。
この仮説を日本近代にあてはめて、岸田は「日本国民は精神分裂病的である」という診断を下した。

「しかし、発病の状態にまで至ったのはごく短期間であって、たいていの期間は、発病の手前の状態にとどまっている。だが、つねに分裂病的な内的葛藤の状態にあり、まだそれを決定的に解決しておらず、将来、再度の発病の危険がないとはいえない。」(14頁)

日本人をそのような内的葛藤に導いたのは1853年のペリー来航である。鎖国という「ナルチシズム的自閉状態」のうちに安住していた日本人は、ことときいきなり「苦労知らずのぼっちゃんが、いやな他人たちとつき合わなければ生きてゆけない状況に突然投げ込まれたのである。(中略)それは日本にとって耐えがたい屈辱であった。」
この葛藤を解決するために、日本人はあえて分裂を病むというソリューションを採択した。外界に適応し、他者の意志に服従する「外的自己」と、そのような外的自己のふるまいを「仮の姿」「偽りの自己」とみなして切り離し、妄想的に自己を美化し、聖化する内的自己に分裂するのである。
ベリー・ショックで外的自己は「開国論」に、内的自己は「尊王攘夷論」に分裂した。
だが、近代日本の悲劇は、分裂したことそのものにあるのではない。分裂することによって、植民地化の危機を回避できたことにある。人格分裂によって現に植民地化をまぬかれたという成功体験ゆえに、日本人はその「人格のうえにぬぐいがたい亀裂と傷痕をきざみこむ」(19頁)ことになった。
岸田はこの枠組みを用いて、近代日本の国家行動、とりわけ戦争について、洞察にみちた分析を加えた。四半世紀を経ても、岸田の惟幻論は少しも色あせていない。外的自己と内的自己をどう一つの人格の内に統合するかという国民的宿題に答えを出した人はまだいないからである。

というものでした。
内容のたいへんアバウトな紹介だけなので、書評というほどのものではないです。
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