出口なし

2010-02-20 samedi

『日本辺境論』の書評がだいぶ前の「赤旗」に出ていた(昨日、アダチさんがファックスしてくれた)。
いろいろな媒体に取り上げられたけれど、「赤旗」とはね・・・
代々木の(けっこう)えらい党員知識人であるところのワルモノ先生と共著で『若者よ、マルクスを読もう!』(仮題)を執筆中であることは党本部のすでに知るところであろうから、「ウチダ本は代々木的には OK」というご判断がくだったのかも知れない。
私は右も左もなく、頼まれればほいほい寄稿する。
国民協会でも(ボツになっちゃったけど)、『第三文明』でも、『月刊・社民』でも、『赤旗』でも、身体が空いていれば、取材も寄稿も「いいすよ」と引き受ける。
私は政治イデオロギーによって人を差別しない。
人々が固有の政治イデオロギーを奉ずるに至るには、余人には窺い知れぬ個人的ご事情というものがあって、それはやはりできる限り配慮せねばならないと思うからである。
それに、聴けばたいてい「もっとも」な理由なのである。
人は無動機的に何かをするということはない。
私は人間が「どんなことがあっても主観的には合理的に生きようとする」その努力を「可憐」だと思うのである。
おのれを合理化する努力を止めることができないという人間の根本的趨勢のうちに私は知性の最終的な可能性を見出す。
老師は言われた。

「知は一つの精神がおのれの外部にある別の精神に触れるのに使用しうる唯一の手段である。(Savoir comme unique moyen dont dispose un esprit pour toucher un esprit à lui extérieur)」(Emmanuel Lévinas, Difficile Liberté, Albin Michel, 1963/1976, p.49)

老師の教えに従って、私は「おのれの外部にある精神」に対して、つねに(でもないけど)ささやかな敬意と深い好奇心をもって立ち向かうのである。
というわけで『赤旗』に対してもフレンドリーである。
でも、その書評にはちょっと不満である。
私はふつう書評に対して反論ということをしないのであるが(しても意味ないし)、「そんなこと書いてない」ことを「書いてある」と言われると、ちょっと困る。
評者は『辺境論』の所論をさくさくと紹介したあとに、こう書いている。

「『とことん辺境でいこう』と提案する著者。一番じゃなくていい、ナマケモノでいこう、と。このあたりが売れる理由でしょうか。ただ、著者は辺境国の特徴を『他国との比較を通じてしか自国のめざす国家像を描けない』と指摘していますが、そんな日本のままでいいのか。新年、私たちの国の理想を意気高く考えたいものです。」(『赤旗』、1 月 10 日号)

私はあの本の中で「一番じゃなくていい、ナマケモノでいこう」なんて書いてない。
そのまったく逆のことを書いているのである
「一番二番」とか「怠け者、働き者」というのはすでに誰かが作った基準によって格付けされたランキング表があって、その中で自分のポジションはどこか「きょろきょろする」マインドにとっての主要関心事である。
日本人は辺境民だから、そういうことばかりしている、とたしかに私は書いた。
そして、本の中でも、繰り返し言っているように、「それは変だから、やめろ」と言っているのではない。
「私たちはそういう国民だ」と言っているのである。
「世界標準に照らして変だから、世界標準に合わせて『まとも』になろう」という発想そのものが徹底的に辺境的であると書いたのである。
辺境民は辺境民であることを否定しようとするわずかによけいなみぶりによって、おのれが辺境民であることを露呈する。
辺境民は無反省的に辺境的であることによって辺境的であり、辺境的でなくなろうとじたばたするによって辺境的である。
「辺境民に出口はない」のである。
だったら、もうとことん「それ」でいこうじゃないのと書いたのである。
この十字架を負って生きましょうとご提案したのである。
「『この十字架を負って生きる』というのは、どういうふうにすればいいんですか?」と訊く人に向かって、「あのね、人に訊かずに、自分で何とかすることを『十字架を負う』っていうの」と申し上げたのである(読者に失礼だからそうは書かなかったけど)。
「一番」だとか「ナマケモノ」だとかいうのは、典型的に辺境的なワーディングである。
そんな言葉を使っている限り、「出口がない」という事況そのものは永遠に意識化できない。
その理路について書いたのである。
「そんな日本のままでいいのか」というような典型的に辺境民的なワーディングに「いい加減、飽きたらどうですか」と書いたのである。
人間の知性は定型に飽きるところからしか始まらない。
自分が自分でしかないことの常同性に対する嫌悪からしか始まらない。
そこからしか「外部にある精神」に「触れたい」という志向は生まれない。
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