残留率と楽観主義

2010-02-10 mercredi

入試業務で毎日出校。
入試部長というのが、これほど打ち合わせと会議の多い仕事だとは思わなかった。
これがあと一年続くと思うとうんざりするが、これもあと一年で終わると思うと気持ちが軽くなる。
ものが考えようである。
つねづね申し上げている通り、なんでも「カウントダウン」にするというのが私の年来の流儀である。
カウントダウンすると、どうでもいいような日々のできごとが「かけがえのないもの」に思えてくるからである。
これでおしまい、二度とないと思うと、わずか10分で終わるセンター利用入試の合否判定教授会のために土曜日に稽古を休んで出校するのもまた楽しからずや(負け惜しみ)。
これまでのところ本学の今年度入試の出願状況は堅調である。
周辺校が軒並み60−80%台で前年比割れをしているなかで、前年比99.7%というのは、たいへんよい数字である。
今年どこの大学も志願者を減らしたのは、不況のせいである。
私立受験の浪人の場合だと、多い人はひとりで10校ぐらい受験したものだが、受験料負担に耐えられず、受験生たちはみな出願先を絞り込んでいる。
ダメモト記念受験者がいなくなったせいで、早慶はじめ難関校はどこも志願者を大幅に減らした。
絞り込んだ学校の中に残れたことは本学にとってはありがたいことであるが、記念受験校というカテゴリーには入らないということはよくわかった(まあ、当然ですけど)。
ぜひ本学に来たいという積極的な志願者と、不本意入学先としても、まあ、ここならいいかという消極的な志願者の中から選抜を行うわけであるが、むずかしいのが残留率の算定である。
残留率というのは入学者の合格者に対する比率のことである。
100人合格者出して、100人入学すれば100%。50人入学すれば50%。
東大のようなごく少数の超難関校の場合は残留率の計算なんかしなくていいのだが、それ以下のすべての大学はうちより上の学校に合格者のうち何人が流れるかを推理せねばならない。
これがむずかしいの。
もちろん全体的な傾向としては、偏差値の高い大学は残留率が高く、低い大学は残留率も低いということになるのであるが、合格者の中に本学第一志望者が何人いるかということは誰にもわからない。
今年は評定平均値の高い志願者が増えた、試験の平均点がぐんと上がったと喜んでいたら、それは難関校の滑り止めとして選好されたせいでそうなったわけで、ふたを開けたらみんな上位校に合格したいせで、こちらの合格者がさっぱり入学しなかったという悲劇的事態もありうるし、その逆に、今年は志願者の質がずいぶん下がったねと悲嘆していると、残留率がぐんと上がるということがある。自分の学力よりも高めの大学に受かったら、そりゃ入学しますから。
どちらにせよ、痛し痒しである。
だから、われわれレベルの大学の場合だと、「難関校の滑り止め併願校(ここが不本意入学の限界)」グループと、「本学が第一志望(ここより上は無理です〜)」グループが「50%ずつで混ざり合っている」というのが、「まあ、いい湯加減」なのである。
それだと、志願者たちの出身校と評定平均値、併願状況を見て、ある程度近似的に残留率がはじき出せる。
ところが、本学の場合には、それに加えて、「たいへん成績がよくて、難関校も狙えるのだが、ぜひ本学に来たいと思っている受験生」という(まあ、うれしいこと)グループがそれなりの数混じり込んでいるのである。
ところが、これは定量的な予測では「入学しない」グループに含まれる(上位校に流れるものとみなされるからである)。
この集団が増えると、残留率が上がる。
そして、このような気分によって大学を選ぶ集団の選好性は(株式市場における投資家の行動同様に)予測不能なのである。
残留率予想を低めに設定して、予想を超える数の入学者が入ってくると、授業に支障をきたすし、文科省からきびしいおとがめを受ける。「残留率の計算間違えました・・・へへへ」というような言い訳はそうそう聞き入れてもらえない。
逆に残留率設定が高すぎて、入学者数が予想を大きく下回ると、「定員割れ」の恐怖に直面することになる。
あまり来ても困る。あまり来なくても困る。
前門の虎後門の狼、その間で「どっちつかず」でふらふらしているのが残留率計算の妙諦なのである。
眺めていると、こういう場合に「やや楽観的に事態をとらえる人」と「やや悲観的に事態をとらえる人」に人間は大きくは類別される。
楽観派は「いや、けっこう来ますよ」と残留率を高めに設定し、悲観派は「いや、よそに流れます」と低めに設定する。
このバトル(というほどでもないけれど)が、入試シーズンの風物詩なのである。
私はもちろん人も知る楽観主義者であり、残留率高め設定を主張しているが、私の無根拠な楽観に対して同僚たちは総じて不安顔である。
その拮抗の中で今年度の残留率が算定されたのであるが、私の「楽観」と同僚たちの「悲観」のどちらがより現実を正確に把握していたのかは、あと1月ほどで判明する。
私が好んでものごとを楽観的に見るのは、悲観的予測をするとしばしば悲観的未来を進んで呼び寄せてしまうことを経験的に学んだからである。
というのは、悲観的予測をしたあとに、そのような事態が到来しなかった場合、それは予測者の知性がかなり不調であったことを証明してしまうからである。
それゆえ、大学教員のように自分の知性が好調であることを証明することが死活的に重要である職業においては、悲観論者は(無意識的に)、悲観的事態の出来を願望するようになる。
予想とおりの危機的事態が起こり、楽観論者が備えをしていなかったせいで、右往左往している様を見て「だから、言ったじゃないか」と冷笑を浴びせる日の来ることをいつのまにか待望するようになるのである。
そして、その日の到来を前倒しにするために、わずかずつではあるが、悲観的事態そのものを自分の手で作り出すようになる。
日常的には「だから、この学校はダメなんだ」という捨て台詞を会議や打ち合わせの席で頻繁に口にするというあたりから始まり、教場で学校のシステムや同僚の無能をあげつらう、やがては近所の高校生に「女学院大学に行きたいんですけど」と訊かれたときに、反射的に「止めたほうがいいよ」と忠告するようになる。
このような人々の日常的努力のおかげで、問題の多いシステムが円滑な機能を回復するということは起こらない。働きの悪い同僚たちの士気が高まるということも起こらない。学生たちが上機嫌で勉強するようになるということも起こらない。
もちろん彼らのおかげで志願者数が増加するということも起こらない(絶対)。
だから、私は同僚たちには(多少の無理を承知で)、「楽観的に行きましょうよ」とつねづねご提案しているのである。
「まあ、なんとかなるよ」と言った手前、その未来予測の正しさを実際に「なんとかなった」ことによって証明せねばならないからである。
そのための努力を惜しむと、事後的に自分が「バカだった」ことになってしまう。
これはたいへんと、こまめに出来の悪いシステムを補正し、同僚たちを励まし、学生たちに微笑みかける。
個々の効果は微々たるものであるが、塵も積もれば山となると俚諺に言うように、楽観的な人間が多数派を占める集団は悲観的な人間ばかりで構成されている集団よりも危機を生き延びる確率が高いのである。
でも、そのことを気づいている人は決して多くはないのである。
困ったね。
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