箱根湯本で安保について考える

2010-02-11 jeudi

箱根湯本吉池で、年二回恒例の経営セミナー。
私が出資している三つの会社の社長たちから半期ごとの経営報告を直接うかがい、経済の現況について論じ、今後の経営方針を立案するという、たいへんにシビアでかつビジネスライクな集まりである。
私のことを俗事に疎く、象牙の塔的思弁に耽っているだけの大学の先生だと思っている人が世間には多いが、人間というのはなかなか奧の知れないものなのである。
ほんとに。
一社の社長(兄上さま)はすでに会社経営から退かれているので、今回はアドヴァイザー格での参加。平川くんからはリナックス・カフェとラジオ・デイズの経営状況につき、石川くんからは Live Café Againの現況を伺う。
いかに経営方針が正しくても、景況は予測しがたく、競合他社の動きも見きり難く、わずかな状況判断の曇りがしばしば痛ましい放銃を帰結するという不易の真理を繰り返し(11回ほど)学習したのである。
Againの経営状態がもっとも健全であり、やっぱりこれからのビジネスは「小商い」に尽きるですねというのが暫定的な結論であった。
商談の合間にラジオデイズのコンテンツ(平川くんとの月一対談「話半分」)を3時間ほど録音する。
最近の録音機器の機能はすばらしく、携帯型のICレコーダー(オリンパス提供)でラジオ放送用の音質のものが録音できるのである。
お題は「安保」。
日米安保条約が1960年1月19日に締結されて50年になる。
「日米安保条約」というのは日米両国にとって、どのような意味をもつ政治的選択だったのであろうかという問題について、例によって(ふつうの政論家は決して口にしないような)変痴奇論を噴き上げる。
二人とも安保についてずいぶん書いてきたし、反対闘争にだって加わって機動隊に殴られたのに、実は「条文全文」を読んだことがないということがカミングアウトされる。
と聞くと「条文知らないで、条約反対闘争するなんて、バカじゃないの」と思う人がいるであろう。
おっしゃるとおりである。
でも、1960年安保闘争のときは「学習会」があっただろうけれど、70年安保のときにはそんなものはなかった。
だって、アメリカはベトナム戦争をしていたからである。
ナパーム弾でインドシナ半島の森を焼き尽くし、「枯れ葉剤」という牧歌的な名で呼ばれていた催奇形性の生物兵器を使用していた。
日本はこの戦争の後方支援基地として軍事的にこの戦争に深くコミットし、財界は戦争特需に湧いていた。
そのときに子どもたちに条文の訓詁学的解釈なんかしている暇はない。
「日本国の安全に寄与し、並びに極東における国際の平和及び安全の維持に寄与するため、アメリカ合衆国は、その陸軍、空軍及び海軍が日本国において施設及び区域を使用することを許される」という条約6条の「極東における国際の平和及び安全の維持に寄与するために」という一文が欺瞞的なものだと知るだけで十分だと思っていた。
誰のための「平和」なのか、何のための「安全」なのか。
ベトナムで人々が殺されているという事実は、どういう理路をたどれば「日本国の平和と安全の維持に寄与」することになるのか。
この問いに対して、私を説得できる答えをしてくれた人は安保支持派の中に誰もいなかった。
6条の文言は現実的には「極東におけるアメリカ合衆国の平和及び安全の維持に寄与するために、アメリカ合衆国は、その陸軍、空軍及び海軍が日本国において施設及び区域を使用することを許される」という以外の解釈の余地のないものであり、それは端的には「日本はアメリカの軍事的属国である」ということを意味していた。
それくらいのことは誰でも知っていた。
安保条約は本質的には日本がアメリカの軍事的属国として「下働き」をし、その代償として、アメリカの核の傘で「守ってもらう」という契約であった。
私たちが安保条約に反対したのは、条約「そのもの」に国際法上の整合性がないという理由からではない。
「アメリカの核の傘での日本の平和」がまったく国益に資さないという理由からではない。
国際法上には瑕疵がないのかもしれないし、軍事に投ずべき予算をアメリカに負担してもらうことはむしろ国益に資するという判断も合理的かも知れない。
「日本は戦争に負けたので、これからはアメリカの軍事的属国になる以外に選択肢がないのだ(その悲しみと恥を国民的に共有しよう)」といういちばん常識的な言葉だけが、左翼によっても、右翼によっても、誰によっても口にされなかったからである。
私たちはそのことに苛立っていたのだと思う。
安保条約は「リメンバー・安保条約」というかたちで、「国民的な恥の記憶」とともに心に刻み込まれなければならない種類の屈辱的な条約であった。
そのとき、日本はそのような屈辱的な条約を甘受しなければならないほどに国際的に弱い立場だった。
戦争に負けたのだから、それは仕方がない。
弱い国は弱い。
シンプルな事実だ。
誰かに、はっきりそう言って欲しかった。
その事実をまっすぐにみつめなければ、そこから這い上がることはできない。
だから、安保条約反対闘争が国民的規模で拡がったのだと思う。
反対闘争の目的は、ひとことで言えば、「日本は屈辱的な地位にいる」という平明な事実を「国民的常識」に登録しようという提案だった。
その事実認知からしか戦後日本の再建という遂行的事業は始まらない。
この 50 年は「日本はアメリカの属国である」という世界中の人々が知っている教科書的事実を、私たち日本人だけが「知らないふり」をしてきた 50 年間である。
もちろん「知らないふり」ができるのは、そのことを「知っている」からである。
それを意識に前景化させまいと、つねに抑圧が機能しているから「知らないふり」ができるのである。
その抑圧の機制については、これまでも何度も書いてきた。
それは敗戦後の日本人は「自分が『弱い』ということを認めることさえできないほどに弱っていた」からである。
自分の弱さを認めることができるためには、ある程度の強さが必要である。
その「強さ」が 1960 年の日本人にはまだ足りなかった。1970 年の日本人にも足りなかった。
それはたぶん「アメリカが強すぎた」からである。
2010 年の日本人は「私たちは弱い」ということを冷静な言葉で語れるほどには、それにうなずけるほどには「強く」なったであろうか。
少しはなれたのではないかと思う。
ただそれが「日本が強くなった」ことによってではなく、「アメリカが弱くなった」ことによってもたらされた望外の帰結ではなかったのかという一抹の不安がぬぐえない。
安保については『中央公論』の今月号でもインタビューに答えています。
こっちの方は「平和憲法と安保条約の同時廃棄」こそが日本国民の見果てぬ夢であるという、さらにめちゃくちゃな論を展開(読んでね)。
ついでに、今週号の『週刊文春』の「新・家の履歴書」に出てます。
1990 年から96年までるんちゃんと暮らしてた芦屋山手町の山手山荘の見取り図が出てます。
インタビューのときに白い紙に適当に書き殴った縮尺もデタラメなメモを起こして描いているんですけど、信じられないくらい「ほんものそっくり」でびっくり。
冷蔵庫や食器棚の位置まで・・・違うのは、洗面台の向きだけでした。
すごいなあ。
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