Twitter と自殺について

2010-02-13 samedi

一般入試 CD 日程。
AB 日程というのが1月29日30日にあって、その合否発表のあとに、2週間ほどおいて次の入試がある。
2月あたまが私学の一般入試の集中時期である。
そのときの合否の発表がもうほぼ終わっている。
2月中旬に行われるこの CD 日程は、さきに第一志望校の受験に失敗した受験生たちの「敗者復活戦」である。
すでに第一次志望校に合格したものは、出願はしたが、実際に受験には来ない。
だから、試験場の座席はけっこう「歯抜け」状態になるのがふつうである。
今年はその「歯抜け度」が小さい。
入学センターの諸君とこの「歯抜け度」の意味について考える。
あれこれ考えたが、やっぱりよくわからない。
この事態を説明する可能性として、いちばん妥当なのは、上位校が合格者を絞り込んできたせいで、現段階でまだ合格通知を手にしていない受験生がかなり多数残っていて、かつ本学が「抑え」としてそれなりに高い評価を受けている、という説明である。
CD 日程の受験者の欠席率は前年に比べて10%下がった。
とりあえずは結構なことある。
でも、志願者の動向は株式市場における投資家の行動と同じように複雑系なので、何がどうなるかは、やっぱり蓋を開けてみないとわからないのである。
CD 日程は受験者が少ないし、センター入試みたいな煩瑣な決まりごともないので、入試本部はのんびりしている。
松澤院長、飯学長、住野事務長とおしゃべりをして過ごす。
楽しくおしゃべりしていたのだが、さすがに昼過ぎにはみんなそれぞれの仕事に戻られて、入試部長だけがひとりぽつんと残された。
暇なので、業務用のパソコンで原稿を書く。
その原稿もたちまち書き終わってしまった。
そういえば、Twitter というものが最近はやっているとこの間温泉で石川くんから聴いたし、スーさんも「うなとろ日記」で「ツイッターにはまっている」と先週書いていたので、どのようなものかネットで検索してみる。
二三回クリックしたら登録できてしまった。
あら。
とりあえず橋本麻里ちゃんを訊ね当てて、そこから芋づる式にご尊父源ちゃん、安田登さん、茂木さん(英語で書いてる)、ウッキー、江さん、青山さん、オーサコくん、スーさんのアドレスを知る。大和田俊之くんや増田聡くんもこういうのは当然やってるのね。やっぱり。もちろん IT 秘書たちも。
でも、どういうふうに使うのかよくわからない。
石川君によると「箱根なう」とか書くと、いろいろ楽しいことが起きるそうだが、私にはよく意味がわからない。
「入試なう」と書いて、誰が面白がるのであろうか。

また原稿に戻って、今度は原稿を英訳する。
これは日本の高い自殺率についてドイツの雑誌から寄稿を依頼されたもので、「日本語で送稿してくれてもいいです」と書いてあったけれど、心配なので書いたものをとりあえず自分で英訳して、それを難波江さんにチェックしてもらうことにした(山本浩二のミラノの個展のときのパンフレットのときと同じ手順)。
自分の書いたものを英語やフランス語に訳すのはけっこう楽しい。
うまく訳せない場合は、訳しやすいように原文を書き換えちゃうことが許されるし(なにしろ自分が書いたんだから)。
さらさら。
この原稿はドイツ語で出版されるので、ふつうの日本人の読者の方には読む機会がないであろうから、ここに採録しておく。
こんな話。

日本人はどうして自殺するのか?
日本の自殺率の高さについて考察して欲しいという寄稿依頼を受けた。たしかに日本の自殺率はたいへん高い。欧米諸国から「異常な数値」とみなされることに不思議はない。
日本で昨年一年に自殺した人は前年より504人多い32、753人。12年連続で3万人を超えた。10 年間で 30 万人。年間3万人というのはアメリカにおける銃による死者数とほぼ同じである。アメリカ人が銃で撃ち殺されると同じペースで日本人は毒を飲んだり、首をつったり、鉄道に飛び込んだりしているわけである。
日本の自殺率は 10 万人あたり24.4人で、世界6位(日本より上位にあるのはベラルーシ、リトアニア、ロシア、カザフスタン、ハンガリー)。西欧諸国はどこも日本よりはずいぶん低い。フランスが 17.0 人で19位、ドイツが 11.9 人で36位、イギリスが6.4人で67位、イタリアが6.3人で68位(いずれも2009年度統計による)。
自殺率についてはエミール・デュルケームの古典的な研究がある。20世紀はじめ、もう100年前のヨーロッパの話ではあるけれど、大筋においては今の社会にも妥当するだろう。その中でデュルケームが自殺率を高める原因としてあげていたのは次のような因子である。
第一が気温。
ずいぶん散文的な理由と思われるだろうが、間違いなく「寒い、暗い、ひもじい」というのは人間に生きる意欲を失わせる三大要因である。
第二は信仰。
デュルケームの統計では、無神論者がいちばん自殺率が高い。プロテスタントとカトリックでは、プロテスタントの方が自殺率が高い。これは信仰心のつよいプロテスタント信者は神と私の差し向かいの関係の中に身を置いて、ストレスフルな宗教的緊張を自らに課す傾向が強いためである。信仰が「集団儀礼」の形をとり、「みんなと同じことをやっていればよい」宗教集団では自殺率は下がる。だから、当時のヨーロッパではもっとも儀礼的であったユダヤ教徒の自殺率が最低であった(今はどうか知らないが)。
第三は家族形態。
これは誰でも想像がつくように、独身者がもっとも自殺率が高く、家族が増えるほど自殺率は下がる。理由は簡単で、大家族の一員であれば、他者からの承認を受け、愛され、保護する確率が独身者よりずっと高いからである。
結果的には、「気候が暖かいところに住み、儀礼的な宗教を信仰し、大家族の一員であるような人間」はめったに自殺せず、「寒くて、厳しい宗教的緊張が強いられ、単身者であるような人間」は自殺しやすいということになる。
納得のゆく結論である。
では、日本の自殺率はどう考えればよろしいのか。日本は気候は温暖、大地は肥沃。土着の宗教である神道はアニミズム的であり、教義というものを持たない(儀礼しかない)。20世紀なかばまでは大家族制が支配的であった。にもかかわらず、近代日本はかなり高い自殺率を示している。
その理由について考えてみたい。日本人の自殺率の高さについて言及している海外のメディアは総じて「日本人は宗教的・文化的に自殺に対して抵抗が少ない」という解説を採用している。日本人は伝統的に自殺しやすい社会集団である、という仮説である。
たしかに、日本の宗教には「即身仏」という修業が存在するし、「心頭滅却すれば火もまた涼し」と詠じた僧侶もいた。サムライの倫理は「自殺して恥を雪ぐ」ことを勧奨していた。その気風は近代化以後も日本人のうちに深く血肉化している、というのが欧米メディアが好んで採用する説明である。
だが、はたして、この説明は適切なのであろうか。私は懐疑的である。
その仮説は統計数値によって簡単に反論されるからである。
例えば1900年から47年までの間と1962年から83年のあいだではドイツの方が日本より自殺率が高い。
1930年代のドイツの自殺率は実に十万人当たり30人に迫っていた。この事実を「ドイツ人は宗教的・文化的に自殺に対して抵抗が少ない」という仮説を以て説明した場合、多くのドイツ人は不満げな表情を示すだろう。
また、ベラルーシやロシアやハンガリーは「宗教的・文化的に自殺に対して抵抗がない」文化圏に属するという説明で、これらの旧ソ連社会主義圏諸国の高率な自殺率を説明することにも、多くの欧米の社会科学者は反対するだろう。誰でもこれら諸国における自殺率の高さは文化よりは政治・経済要因によるものだろうと考えるはずである。私もそう考える。
デュルケームが自殺論で列挙したような定量的な因子は、欧米諸国のように、歴史的条件に高い相似性がある諸民族を比較する上では有効かもしれないが、非欧米諸国との自殺率を比較するときの説明としては、あまり役に立たない。
例えば、中国や北朝鮮での自殺率は統計数値が公開されていないが、かなり高いものと推定される。日本より高い数値が出た場合にも、日本の宗教的伝統や武士道的エートスが高い自殺率の主因であるという仮説は維持できるのであろうか。私は無理だと思う。
とりあえず世界中のすべての国民に汎通的に妥当する規則は一つしかない。それは「戦争中は自殺者が減る」ということである。これには例外がない。欧米もアジア圏も含めて、すべての社会集団に共通する自殺率の増減についての法則はこれ以外には何も見つかっていない。
と書いて筆を措いてもよいのだが、せっかくヨーロッパの雑誌が日本人の自殺率の高さについて興味を持ってくれたのだから、日本の自殺率の経年変化は(あるとすれば)どのような法則に従って増減しているのかを私にわかる範囲で報告しておきたいと思う。
日本に限って言えば、自殺率は社会が変動期に入ると低下し、安定期・停滞期を迎えると上昇するという全般的傾向が指摘できる。
近代史上、日本で自殺率が有意に低い値を示したのは5回ある。
日露戦争(1905-6年)、第一次世界大戦(1914-18年)、日中・日米戦争(1937-45)、ベトナム反戦闘争・全国学園紛争(1964-71年)、バブル経済末期からバブル崩壊期(1989-95年)である。
激しい社会的変動に直面すると人間たちはその生命力を高めてなんとか生き延びようとする。そのようなストレスフルだがアクティヴな時期が終わり、相対的な安定期に入って緊張が緩むと、日本人は生きる目標を見失って、自殺し始める。その理路を私は理解できるし、ヨーロッパの読者も同じように理解できるだろう。
日本の場合、興味深いのは戦争中最低レベルであった自殺率が、戦後じりじりと増加し、戦争が終わって13年後の1958年に25.7という近代史上最高値を記録することである。
なぜ、1958年が日本人の「生きる意欲」がもっとも低くなったのか、私には説明に窮するのである。というのは、1958年というのは、個人的記憶をたどる限り(その年私は8歳だった)、「戦後日本の黄金時代」だったからである。戦争の破壊のあとは癒され、経済はめざましく復興し、庶民の生活は年ごとに豊かになり、映画も文学も音楽も活況を呈していた。にもかかわらず、その年に日本人は史上最高の自殺率を示したのである。
58年をピークに自殺率はふたたび急減のカーブをたどり、67年に戦後最低値に達する。
67年がどんな年だったか、さいわい、これについても私はその年の「時代の空気」をはっきり記憶している。
67年はその後の全国に広がる新左翼による激烈な政治闘争の起点となった第一次羽田闘争があった年である。この年、1945年の敗戦から22年経って、日本の青年たちは「流産した本土決戦」の再演を試みたのである。闘争の発火点になったのは、羽田という空港と佐世保という軍港である。そこからアメリカ帝国主義という「侵略者」が日本に上陸してくるのを押し戻すために、学生たちはとりどりに彩色をほどこしたプラスチックできた工事用のヘルメットをかぶり、脆弱な素材の木材(「ゲバ棒」と呼ばれた)を手にし、巨大な赤旗を振り回して、機動隊と戦った。これは政治闘争というより、むしろ演劇的なものであったと思う。ヘルメットは兜の、ゲバ棒は槍の、赤旗は「旗指し物」の記号だったからである。学生たちは(無意識のうちに)戦国時代の武将の姿を象って、「洋夷打ち払い」の戦いを再演してみせたのである。
だから、現実はどうであれ、幻想的な準位においては、この時期の日本人は準-戦時下にあったと言うことができると思う。そういう状況において生命力は亢進するという法則はここには妥当しそうである。
その後、政治闘争が終熄し、社会が秩序を回復するにつれて、自殺率はゆっくり上昇し続け、85年に戦後二度目のピークを迎える。そして91年(バブル崩壊の直前)に戦後二度目の底に達した。たぶん、地震の前に怯える動物たちのように、この時期の日本人は、何か地殻変動的な社会の変化の予兆を感知し、それがたぶん彼らの生命力を一時的に賦活したのだろう。
自殺率はそののち再び反転し、上昇を続けて、いまま私たちは戦後三度目のピークを迎えている。このピークがいったいどのような社会的変化によってもたらされたものか、私にはうまい説明が思いつかない。
とりあえずそれが仏教思想や武士道とほとんど無関係な変化であるということは言えると思う。
もう一つ言えることがあるとしたら、それはバブル崩壊以降、日本社会はゆっくりと非活動的なものになりつつあるということである。
社会が安定的であったり、非活動的であったりするだけで私たちは自殺したいほど不幸になるわけではない。けれども、日本人の場合、消費文化の亢進と、グローバリゼーションの結果、伝統的な地域共同体と血縁共同体はほぼ解体し尽くされた。だから、日本人のもっとも弱い階層は、単に経済的に貧しいというだけでなく、セーフティネットとして機能するようなどのような互恵的・互酬的な集団にも属せず、「根」を失ったまま浮遊している。
「非活動的な社会において、根を失って浮遊している」というのは、おそらく現代に固有の主体の様態である。
前近代の社会はたしかに階層固定的であり、流動性の乏しいものであったが、人々は共同体の中に深々と根を下ろしていた。逆に、近代社会において人々は根を失って浮遊していたが、社会そのものに流動性があり、能力の高い個体は、共同体のしがらみに繋縛されることなく、自己利益の追求に励むことができた。
だが、現代日本はそのどちらとも違う。
日本社会は流動性を失って、硬直化を始めている。強者たちは連合して既得権を死守し、一方、弱者は分断され、原子化した状態で、階層下位に釘付けにされている。おそらくそのような状況の中で、特定の社会集団(若く、貧しく、孤立した人々)の生命力が衰微しつつあるのだと思う。
この否定的状況に対して講じることのできる対抗策は存在するのだろうか?
論理的にはソリューションは二つしかない。
一つは、地縁的・血縁的な共同体(ゲマインシャフト)を再構築すること。孤立した人々を受け容れ、癒し、慰め、彼らが自尊感情を保持できるような場を作り出すことである。
一つは、「誰にでも、成功のチャンスがある」ように、階層的な流動性を担保することである。ただし、そのためには強者は「強者たちの氏族」の形成を自制し、階級的に独占している権益の一部を投じて、社会的弱者のプロモーションを支援しなければならない。
いずれにせよ、社会成員たちの相互支援以外に私たちの社会を「生きるに値する」ものにする確実なソリューションは存在しない。
日本の新しい総理大臣は先日のその所信表明演説で「友愛」を基盤とする国作りを提言した。為政者が「友愛」について語るのは、日本の政治史上では珍しい事件である。
為政者が「何か」が必要だと説いたときには、それはその社会においてもっとも欠如しているものであると推理して過たない。たぶん、いまの日本にいちばん足りないのは「友愛」なのである。それがわが国の高い自殺率を説明するために私が提示する暫定的な仮説である。
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