看護する力と横浜での驚愕の出会いについて

2010-02-05 vendredi

火曜日。
医学書院の月刊『看護教育』のために、甲南女子大看護リハビリテーション学部の前川幸子、重松豊美、阿部朋子のお三方プラス神戸大の岩田健太郎先生で座談会。
月刊『看護教育』の担当者は青木さんという青年。彼とははじめて。
聞けば編集長はなんと “ワルモノ” 白石さんだそうである。
いったい私に看護教育についてどのような提言を期待されているのであろうかと考えたが、何も思いつかないので、ぼおっとしたまま元町へ。
会場の Orfeu は以前、田口ランディさん、白石さんといっしょにご飯を食べに来たことがある。
最初に私のところに来た医学書院の鳥居直介くんと杉本佳子さんも『看護学雑誌』の編集者であった。
ずいぶん前の話である。
私のところに看護関係の人が話を聴きに来るのは、たぶん私が「わからないはずのことがわかる」能力の開発プログラムをひさしく主張しているからだと思う。
看護のような、身体とまぢかに触れ合う職業においては、微細なシグナルを感知する能力が必要とされる。
「微細なシグナル」というのは外形的・数値的には「まだ」表示されないところの身体的変化である。
いずれ閾値を超えれば計測機械も反応するであろうが、それに満たない場合は検査機器では検知できない種類の変化がある。
人間の身体がアナログ的な連続体である以上当然のことである。
それが数値的に表示されるより「前に」、変化に気づく能力は医療の専門家に要求される重要な資質である。
「わからないはずのことが、わかる」
繰り返し引くように、シャーロック・ホームズのモデルは、作者コナン・ドイルのエジンバラ大学医学部時代の恩師、ジョーセフ・ベルである。
ベル先生は患者が診察室のドアを開けて、椅子に座るまでのあいだの数秒間の観察を通じて、患者の出身地、職業、家族構成、既往症、何の疾病で来院したかまで言い当てたという。
それは千里眼でもなんでもなく、ひとりの人間の身体が発信している無数のシグナルを感知することがベル先生にはできたからである。
それは「観察力」というような言葉では言い尽くせない。
「観察力」は強いサーチライトを当てて、倍率の高い望遠鏡で対象を眺めるような感じがするけれど、ベル先生はむしろきわめて受動的な、ほとんど vulnerable な状態で他者の身体の前に向かっていたのではないかと思う。
強い身体は微弱なシグナルに反応できない。
「傷つきやすい身体」だけが「傷ついた身体」からの calling を感知できる。
機械は vulnerable ではない。
だから、機械は「逸脱」は検知できても、「弱さ」は検出できない。
弱さというのはアウトプットそのものではなく、ある種のアウトプットを生み出す「傾向」のことだからである。
ナースの中には「死臭」を嗅ぎ当て、瀕死の人のかたわらに立つと「弔鐘」の音が聞こえる人がいるそうである(という話を前川先生からうかがった。ちなみに前川先生は「嗅ぎ当てる」人)
そういうことって、ありますよね。
「癒す」仕事にもっとも必要なのは、この「弱さ」が発信する微弱なシグナルをあやまたず聴き取る力だろうと思う。
だが、看護の現場でも、看護技術のマニュアル化、EBM化が進み、結果的にナースの身体性が衰えているという。
医療技術が進歩することは歓迎すべきことである。
けれども、それがヒーラー自身の「わからないことがわかる」能力の評価の切り下げや、そのような能力の開発プログラムの軽視を結果するのであれば、それは医療にとって危機的なことである。
看護学部はどこでも志願者が増えている。
メディアはそれを不況時における「手に職」志向だというふうに簡単に総括しているが、私は違う要素もあると思う。
自分の身体の蔵している未知のポテンシャルに興味をもち始めた若い人たちも、きっとその中には含まれているだろうと思う。
それにしても、ナースというのは、いっしょにいて、ほんとうに気持ちの落ち着く方々である。
目と目があったときに、彼女たちから最初に伝わるメッセージは Don’t worry である。
それは無言のまま皮膚を通して、深く身体の奥にしみこんでくる。

水曜日。
入試委員会を終えてから新幹線に飛び乗って新横浜へ。
横浜国大の室井尚さんが主宰している北仲スクールの開校記念シンポジウムにお招きいただき、室井さんの司会で、東大の吉見俊哉さんと「ポスト戦後社会と都市文化の行方」というお題でお話するのである。
室井さんには以前日本記号学会の大学教育についてのシンポジウムにお招きいただき、そのときは慶應幼稚舎の金子郁容さんと教育評価をめぐってだいぶ熱い論争をしてしまった(私が人前で論争的になるというのはきわめて例外的なことである)。
それを知ってのお招きであるから、「シロートの言いたい放題」を期待されてのことであろうと気楽にお出かけする。
車中で吉見さんの最近刊『親米と反米』と『ポスト戦後社会』を読む。
たいへんに面白い。
読みつつ、私は「網羅的な調べ物」というのができない人間だということをつくづく思い知る。
もちろん、たんに「無精」という資質のせいなのだが、きわめて興味深い人物の書いたもの以外にはまるっきりリテラシー装置が反応しないのである。
「ふつうの人が書いたふつうの文書」を前にすると、私の知的アクティヴィティの針は「ゼロ」の近くに貼りついてもはや微動だにしない。
社会学者は職掌上、「ふつうの人が書いたふつうの文書」に伏流するイデオロギー性や臆断を読みだすことが求められるので、そういうものを大量に読まねばならぬのだが、どれほど高額のバイト料を提示されても、私はそのような仕事には就くことができない。
文学研究者の中にも「イデオロギー的に間違っているテクスト」を徹底的に批判するために、「政治的に正しくない」テクストを精読する方がいる。
そういうことが私にはできない。
私が学者としてついにモノにならなかったのには無数の理由があるが、その致命的な一つはこの「無精」を制御することができなかったことである。
新横浜駅に着くとお迎えのスタッフの方々が待ち構えていてただちに会場に拉致される。
馬車道の旧横浜正金銀行の跡地の Yokohama Creative City Center というところ。
室井さん、吉見さんとご挨拶していると、「大久保鷹さん、今日来てますから、ご紹介しましょうか」と室井さんがいきなり言い出す。
ええええ。オオクボタカ?
大久保鷹といえば・・・
李礼仙、麿赤児、不破万作とともに状況劇場の初期の看板役者だった方である。
私は 1967 年の夏に新宿花園神社で状況劇場の『月笛お仙 義理人情いろはにほへと編』を見た。
麿赤児が泥絵具のようなメークをして、客入れをしており、私の耳元では山下洋輔ががんがんピアノを弾いていた。
大久保鷹はそのとき「床屋」の役を演じていた。
彼は私がそれまでに見たどのような映画やテレビや舞台の演技ともまったく違う芝居をした。
どこがどう違うのか、今でもうまく言うことができない。ましてや16歳の高校生に大久保鷹の演技の意味がわかるはずがない。
なんだか凄いものを見たということだけずっと記憶している。
そのあと状況劇場の舞台は何度も見た。
けれども、花園神社で受けたような衝撃はさすがに二度と経験できなかったのである。
室井さんは唐十郎を横浜国大の教授に迎えた人である。
だから、状況劇場人脈が形成されていて当然だったのである。
大久保鷹さんは、なんと「昔のまんま」であった。
もう66歳だそうだから、だいぶ白髪にはなっていたが、飄々とした表情も温かい声も、花園神社のときの大久保鷹の姿がはっきりと蘇ってきた。
なんと大久保さんはひさしく私の本の愛読者で、私が横浜に来ると室井さんから聴いて、わざわざ戸山ハイツから出てきてくださったのである。
大久保鷹が私の本を読んでいる風景はどうしても想像できないけど、なんだかすごく感激。
あまりにうれしくてシンポジウムのときも、なんだかウキウキ気分で、大久保鷹の芝居の破壊力はこんなもんじゃなかったよな・・・と思いながら変痴奇論を繰り広げて、吉見さんと室井さんと良識あるオーディエンスを困惑させてしまったのである。
室井さん、吉見さん、ごめんなさい。そして、ありがとうございました。
とっても楽しかったです。
--------