甲野先生の最後の授業

2010-02-03 mercredi

甲野善紀先生を本学の特別客員教授にお招きして3年。この年度末で任期満了となる。
2月1日から3日までの集中講義が甲野先生の本学における最後の授業である。
ご挨拶に伺い、お稽古に加えて頂く。
ずいぶん多くの学生たち(および「にぎやかし」の合気道部員、杖道会員、OG、甲南合気会員)がミリアム館にひしめいて、さまざまな身体技法をあちこちで試みている。
甲野先生の講習会はだいたいこういうかたちで、「全級一斉」という指導法はなされない。
ひとりひとりが自分のペースで、自分の選んだ課題を試みる。だいたい数人のグループになって教え合ったり、批評し合ったりする。そのグループも固定していない。甲野先生が何か違うことを始めると、自然に解体して、また違う人たちとのグループが出来る。
自分の身体の内側で起きていることを「モニター」するというのが、稽古の基本であるから、外的な規制はできるだけ行わず、ひたすら自分の内側の出来事に感覚を集中させるというのが、おそらく甲野先生の方針なのであろう。
だから授業なのだが、点数はつけない。
もちろん教務的には成績をつけていただかないと困るのだが、甲野先生の授業の成績は「自己申告」制である。
遅刻早退しても、でれでれさぼっていても、自分で成績表に100点と書き込めば100点をつける。
ただし、と先生は笑いながら告知していた。
「そういうことをすると、あとで別のところで『税金』をきっちり取られることになるからね」
おっしゃる通りである。
他人の監視や査定を逃れることはできるが、自分が「成績をごまかすような小狡い人間だ」という自己認識からは逃れることはできない。
つねづね申し上げていることだが、他人を出し抜いて利己的にふるまうことで自己利益を得ている人間は、そういうことをするのは「自分だけ」で他人はできるだけ遵法的にふるまってほしいと願っている。
高速道路が渋滞しているときに路肩を走るドライバーや、みんなが一列に並んで順番を待っているときに後ろから横入りする人は「そんなことをするのが自分だけ」であるときにもっとも多くの利益を得、「みんなが自分のようにふるまう」ときにアドバンテージを失うからである。
だから、彼らは「この世に自分のような人間ができるだけいないこと」を願うようになる。
論理的には必ずそうなる。
その「呪い」はまっすぐ自分に向かう。
「私のような人間はこの世にいてはならない」という自分自身に対する呪いからはどんな人間も逃れることはできない。
そのような人は死活的に重要な場面で必ず「自滅する」方のくじを自分の意志で引いてしまうのである。
しかるに、「自分のような人間は自分だけである方が自己利益は多い」という考えを現代人の多くは採用している。
「オリジナリティ」とか「知的所有権」とか「自分探しの旅」とかいうのはそういうイデオロギーの副産物である。
けれども、「オリジナルであること」に過大な意味を賦与する人たちは、そのようにして「私のような人間はこの世にできるだけいない方がいい」という呪いを自分自身かけているのである。
「私のような人間ばかりの世界」で暮らしても「平気」であるように、できれば「そうであったらたいへん快適」であるように自己形成すること、それが「倫理」の究極的な要請だと私は思う。
「世界が私のような人間ばかりだったらいいな」というのが人間が自分自身に与えることのできる最大の祝福である。
でも、これはむずかしい課題である。
ふつうの人は「世界が私のような人間ばかりだったら」気が狂ってしまう。
他者のいない世界に人間は耐えられないからである。
だから、論理的に考えれば、「私のような人間ばかりでも平気な『私のような人間』」とは「一人の人間の中に多数の他者がごちゃごちゃと混在している人間」だということになる。
一人の人間のなかに老人も幼児も、お兄ちゃんもおばさんも、道学者も卑劣漢も、賢者も愚者も、ごちゃごちゃ併存している人間にとってのみ、「自分みたいな人間ばかりでも世界はけっこうにぎやかで風通しがいい」。
倫理的とはそういうことだと私は思う。
つねに遵法的で、つねに政治的に正しく、つねに自己を犠牲にして他人のために尽くし、つねににこやかにほほえんでいる人間たちのことを「倫理的」だと思っている人がいるが、そうではない。
だって、そんな人で世界が充満していたら私たちはたちまち気が狂ってしまうからだ(少なくとも、私は狂う)。
だから、「そんな人間」は「倫理的」ではないと私は思っている。
他人を踏みつけにして自己利益を追求するだけの人間も、自己犠牲を厭わずに正義や信念を貫く人間も、「世間がそんな人間ばかりだったら、息苦しくてやってられない」人間であるという点では選ぶところがない。
だから、甲野先生の成績を自己申告でつけるときには「えええ、どうしたらいいんだろう」と迷ってしまうというのがたぶん適切なふるまい方なのだと思う。
自己評価よりちょっと高めに点をつければあとで「自分は狡い人間なのでは」とくよくよすることになる。自己評価よりちょっと低めに点をつければ、「自分は過剰に謙遜するイヤミな人間なのでは」とこれまたいじけることになる。
ではどうすればいいのか。
別にむずかしいことではない。
甲野先生の自己申告制では、成績表に点数を書き込むのは自分だけれど、他人に評価を求めることは禁じていないからである。
自分の点数を知りたければ、あたりを見渡して、「人を見る眼」がありそうな人を探せばいい。
そして、その人に「私は何点くらいかな」と訊けばいい。
あなたに「人を見る眼」があれば、その問いにきちんと適切な解答をしてくれる人を過たず探し当てることができるはずである。
正確な自己評価などというものはこの世に原理的に存在しない。
「正確な自己評価が出来ている人」が存在するように見えるのは、その人が「自分についての適切な外部評価を下してくれそうな人」を言い当てる能力を持っているからである。
おべんちゃらを言うタイコモチやイエスマンに取り囲まれている人間が「正確な自己評価を下している」とは誰も思わない。
逆に、何を言っても「アホかお前は」と言って頭をはたくような人とつるんでいる人間もやはり「正確な自己評価」とは無縁である。
人間は自分のことは適切には評価できない。
でも、「私のことを適切に評価してくれる人」を探し当てることはできる。
自己評価とはその能力のことを言うのである。
そのことを知っただけでもこの授業に出た甲斐はあると思う。
それくらいむずかしい課題を甲野先生は出しているのである。
今回の稽古では「キャスター=風見鶏理論」と「悪魔の手の内」というのがたいへんに興味深かった。
武道でいう「機」というのは「待たない、懸からない」ということだが、これを甲野先生は「構造」としてとらえている。
キャスターは抵抗がいちばん大きい方向に車輪が向かって、抵抗を最小にする。
風見鶏は風が吹き付ける方向にまっすぐ向かう。
攻撃の入力があったときに、それに防衛的に反応するのではなく、攻撃の入力そのものを「自分自身の運動の材料」にして立ち上がる動きを以て応じる。
防衛的、反撃的に考えると、「攻撃を逃れる」という体制になる。
そうではなくて、「攻撃」そのものを滋養として成り立つ体制をつくる。
キャスターや風見鶏には「こころ」はない。
けれども、入力に遅滞なく反応する。
そのような構造になっているからである。
理屈はむずかしくないが、そのような「キャスター的」構造を身体的にどう構築するのかというのは非常にむずかしい。
合気道的にはまことに興味深い課題である。
「悪魔の手の内」は実見されるに如くはないであろう。
とても私の禿筆を以てしてはこれを表象することはできない。
稽古終了後、門戸の「じゅとう屋」でささやかなお礼の会を開いて、三年間のお働きに謝辞を述べる。
大学での授業は今週で終わりだが、来年度以降も合気道部や杖道会の主宰で甲野先生の講習会は定期的に開いてゆければよいと思う。
甲野先生、三年間ありがとうございました。
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