オピニオン・リーダーなんかになりたくない

2010-02-02 mardi

読売新聞の N 田さんが『日本辺境論』の取材に来る。
N 田さんはうちの奥さんの KC 中高部のときの同級生である。
『日本辺境論』をどういう経緯で書くことになったのか、その状況的な意味は何であるのかといったことをお訊ねされる。
もうあちこちで繰り返していることであるけれど、この本を書いたのは「年を取った」からである。
年を取らないとできないことがある。
自分自身の愚鈍さや邪悪さを腑分けし吟味するというような仕事はその一つである。
若いときにこれをやると、たちまちエンドレスの自己嫌悪と自己告発になってしまう。
本人が誠実であればあるほど、うんざりするような自虐の文章が綴られる。
「私の愚鈍さと邪悪さを訳知り顔で断罪しているこの『私』なるものの審問者としての適切性は一体誰が担保しているのだ?」というような無限後退に陥るのがオチである。
だから若いときはあまり反省しないほうがよろしいといつも申し上げている通りである。
反省というのは「反省される対象」と「反省する主体」のあいだに適切な距離とそれなりの気づかいがないと成立しない。
小田嶋隆先生の卓抜な比喩を借りるならば、自分自身の欠点を孫の悪戯を見てほほえむ祖父の慈愛のマナザシを以て見ることができなければ、「反省」などという難事業は果たせない。
日本辺境論は日本の「ダメなところ」を選択的に俎上にのせて論ずるというものであるから、このような論件を私が若いときに扱ったら、それはもう救いなく残酷なものになってしまったであろう。
「そりゃ、そうだけどさ。なにもそこまで言わなくても・・・」的な糾弾の奔流となったことは必至である。
そんなものは誰も読みたくない(し、私だって書きたくない)。
しかし齢還暦に至ると、そうも言っておられない。
この社会のシステム不調の一端(どころか相当部分)に私はコミットしているのである。
「責任者出てこい」というようなことは申し上げられない。
まあ、誰もやりたくて「こんなこと」をしたわけではなくてですね、不調なシステムの側にもそれなりに「先方のご事情」というものがある、と。
そういうことがだんだん身にしみてくる。
若いときの自己批判はきわめて思弁的であるが、年を取ってからの自己批判は実践的である。
若いときは「できそうもないこと」を理想に掲げて現状を罵るが、年を取ってからは「できること」しか反省しない。
「できないこと」を「やっていない」と反省してもまるで時間の無駄である。
だったら、いろいろある問題点のうち、「なんとかなりそうなもの」と「手が着けられないもの」を仕分けして、リソースを「なんとかなりそうなもの」に優先的に配分する。
それが老人の知恵である。
『日本辺境論』では、辺境人としての日本人の思考と行動の特殊性を列挙した上で、それが「手が着けられないもの」か「補正が効きそうなもの」か「伸びしろのあるもの」かをプラティカルな観点から考察したのである。
人間の本質的欠点は決して治らない。
その欠点そのものがその人のオリジナリティ、唯一無二性を基礎づけているからである。
だから、人は全力を尽くしておのれの欠点を死守する。
そんなものを批判したり、修正を要求したりすることはまるで時間の無駄である。
そんな暇があったら、その欠点だけらの人間にもどんな「いい点」があるかを考えた方がいい。
これは私が30年にわたって教壇に立って、学生たちを教えてきて骨身にしみて学んだ経験則である。
欠点は治らない。
欠点とその人の長所はゼロサム的に一体をなしている。
だったら、長所を伸ばして、欠点のもたらす現実的災厄を抑制するのが効果的である。
その経験則を国民国家にも適用してみたのである。
というようなお話をする。
本が売れたせいで、私を「オピニオンリーダー」のようなものと見なす人がいるようであるが、それはまるでお門違いであると申し上げる。
今度の本は20万部を超したが、これは「できすぎ」だと私は思っている。
まず、これが上限であろう。
それを超すほどの一般性は私の書きものにはない。
単行本の損益分岐点は1500部だそうである。
ということは出す本が1500部をコンスタントに超える限り、私は一生本を出し続けることが許されるということである。
それでいいと思う。
あるいはもっと売れる本をそのうち書くかもしれない。
でも、それは「たまたま」そうなっただけで、そういうものをめざして書く気はないのである。
私は「私みたいな考え方」をする仲間を増やすために書いている。
多数派形成のために、あちこち走り回って、壁新聞を貼ったり、ビラを撒いたりする人のことは「オピニオン・リーダー」とは言わない。
「リーダー」というのは群れの前に立って、群れに背中を向けて、遠くを見ている人のことである。
群れの中を走り回って、「だから、みんなで同じ方向に行きましょうよ。ねえねえ」とうるさく取りすがるような人間ことをふつうは「オピニオン・リーダー」などとは呼ばない。
私は群れの中にいて、それが穏やかに統合されることを、ほとんどそれだけを願っている。
行く先なんて、正直どこでもいいのである。
レミングの群れが断崖に向かって行進しているときに、群れから離れて、「そちらに行ったらダメだ」と獅子吼する人はオピニオン・リーダーである。
群れの中でのいさかいを仲裁したり、迷子の小レミングの手を引いたりしているやつはそうではない。
そいつは結果的に群れといっしょに断崖から落っこちちゃうからである。
私はそういうタイプの人間である。
私は自分と意見をともにする人間を増やすことにはたいへん熱心であるが、意見をともにした人々を糾合して「何かいいこと」をすることにはそれほど熱心ではない。
「集団の合意形成のために地道に努力すること」は「正しい目的地にたどりつくこと」よりも優先順位が高いと私は考えている。
そちらのほうが「正しい」と言っているわけではない(「正しい目的地にたどりつくこと」の方が正しいに決まっている)。
そうではなくて、「集団の合意形成のために地道に努力すること」ができる人間は、「正しい目的地」にたどりつけなくても、けっこうハッピーな人生を送ることができると思っているのである。
場合によっては「正しい目的地」にたどりついた人間よりも幸福かもしれないと思っているのである。
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