28日木曜日。
大学で入試の学外会場へ行かれるみなさんに激励のご挨拶。
事故のないように、どうぞがんばってください。
それから梅田へ。
前日の「業務連絡」に記したとおり、梅田のロイヤルホースというジャズクラブで大倉流小鼓十六世宗家の大倉源次郎先生と喜多流シテ方の長島茂さんのセッションがあり、そこにトークのゲストとしてお招きいただいたのである。
どうして能楽のセッションをジャズクラブでやるのかというと、それはオーナーの關さんが源次郎先生の子ども時代からのおともだちだからだからで、このイベントももう6回目だそうである。
源次郎先生とは先日の鼓楽の会のあとの懇親会で「能楽とユダヤ人の関係」という「トンデモ」系のおしゃべりをしているうちに話が途中で途切れていたので、なんと今回はその「話の続き」。
なぜ能楽は「秦曲」という別名を持つのかという話から、秦河勝と能楽の関係、三輪信仰と三種の神様の話、西表島のふしぎな儀礼と「翁」、在原業平と古代日本人のDNA戦略・・・と話題はあらぬ彼方に転がって、何がなんだかわからないけれど、やたらに面白い話となりました。
10時近くに終わって、本町での稽古を終えて駆けつけた奥さんもまじえてちょっとだけ打ち上げ。
冷たいビールとワインでのどを潤して、源次郎先生たちとしばし歓談。
29日金曜日。
早起きして、入試へ。
2010 年度入試はご存知の通り、どこも志願者集めで苦戦している。
少子化傾向に不況が重なって、受験生が出願数を控えたせいで、「延べ受験生総数」がずいぶん減少した。
リサーチ会社からエクセルで送られてくる資料を見ると、近隣校でも、「前年比60%」というようなきびしい数字が並んでいる。
もう何年も志願者数そのものを公開していない大学もあるし、「募集停止」も少なくない。
まことに「大学冬の時代」はさらに寒気を増しているのである。
ご存じのとおり、日本の大学の40%はすでに定員割れ学部学科を抱えているが、その中に学生数10000人以上の大学はほとんど含まれていない。
経営がきびしいのは小規模校である。
理由はある意味簡単で、従来の学部学科が「定員割れ」しそうになると、大きな大学は新学部新学科を作って、そちらに切り替えることができるからである。
資金力があるところは次々と新しい教育プログラムを提出することができる。資金力がないところは、そんなことはできない。
そして、現在の教育行政は「次々と新しい教育プログラムを提出できる教育機関はすぐれた教育機関であり、そうでないところはダメな教育機関である」という査定ルールを採用しているのである。
「次々と新しい教育プログラムを提出」するためには相当の資金力が必要である。
「新しい教育プログラムを興すためのコスト」だけでなく、「採算不芳となった教育プログラムの施設や教員を抱え込む人件費コスト」を引き受けられなければならないからである。
結果的に、現在の高等教育機関の「淘汰」は、その教育理念や教育方法の適否によってではなく、「財政的に力があるか、ないか」によって決されている。
金のある大学だけが生き延び、ない大学は消える。
だが、繰り返し言うように、もし財政的体力が教育機関の生き残りの決定的条件であるのだとしたら、最終的には市場は「コンビニ型」の大学だけに生き残りを許すことになるはずだが、それが私たちの願っていることなのだろうか。
たしかに、全国どこでも同じ教育プログラムで、同じ校舎の設計で、同じ教科書を使うならば、教育活動のコストは削減されるであろう。
「誰でも興味をもちそうな主題について、誰にでも適用できる方法によって、誰にでも知っている情報、誰にでも習得できる技術を教える」ならば教育コストは最低限まで縮減することができる。
国民全体を標準化し、個体識別不能のものとする教育が「もっとも金がかからない」。
問題は、それを「教育」と呼ぶことができるかどうか、ということである。
そのような事態の到来を私たちは願っているのだろうか、ということである。
しかし、現実には、「できるだけ安いコストで教育を行うことができる学校」に選択的に生き残りのチャンスを与えられている。
その結果大規模校が生き延び、小規模校は退場を余儀なくされつつある。
けれども、それが教育プログラムの「コンテンツ」の適否ではなく、「コスト」の多寡によって事実上決されているということはもっと重く受け止めなければならないと私は思う。
さいわい、本学は前年比「ほぼ横ばい」(ところにより増加)という志願者数であり、これは四囲の状況をみると、「大健闘」と言ってよろしいであろう。
分布をみると、西日本全域から志願者が増えている。
何十人も受験生を送り込んで来る、固定的な「お得意様」が減り、代わりに、前年まで志願者ゼロだった高校から5人6人というふうに、新たな志願者層が出現し始めている。
本学はほとんどメディアをつうじての宣伝をしていないし、新学部も新学科も設置していない(新しい教育プログラムとして用意できたは環境バイオサイエンス学科の「理科教員免許」だけである)。
にもかかわらず、新しい志願者層が出現してきたということは、もちろん教職員の志願者掘り起こしのための地道な日常的努力の成果なのだが、それと同時に一部の高校生たちがこれまでの代理店主導型の「新発売!」型パブリシティに背を向けて、自分たちの固有の「センサー」を働かせて大学選びを始めたことの徴候のように私には思われるのである。
私は高校生たちの直感を信じたいと思う。
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(2010-01-30 09:53)